贅沢たる午后 | ナノ




「やあ、今日のまかなひは何かな。」

昼食の時間も過ぎ、一旦閉めた筈の店の――其れも裏口から、近所に住まふ売れない詩人は顔を覗かせた。土方は顔を少し顰めるも、無碍にすることなく結局厨房に入るを許した。小さな洋食屋だ。厨房を仕切る男性陣は既に引き揚げて仕舞ってゐる。調理台を拭いてゐた土方は、何だかんだで優しい料理長が此の男の来訪を迎える準備を供えるのだから、帰らせる訳にもゆかぬ。待ってろ、云って土方は万一にも虫が寄らぬやうに布巾を掛けておいた彼の昼食――或ひは朝食と夜食をも兼ねてゐる――を取りに行くさまを見乍、早速厨房の隅から円椅子を引き寄せて坐り、にこりと笑ふ。

「ケチャップ・ライスだけ、残ってる。」
「嗚呼、其れは好ひ。中々に余り物のやうぢゃないか、」
「……。文句があるなら、」
「あるとしたら、唐辛子の瓶を戴けるかな。」
「――まう、あんたの味覚に文句は云はないが。」

土方がボウルに掛けた布巾を其の儘彼に渡すと、其れを鼻の辺りに近づけて、赤茄子と油の匂ひだ、嬉しさうに呟いてから膝の上に敷いた。妙なところで律儀な此の詩人崩れは、土方自身も云へた事ではないが、少しばかり変わった味覚を持ってゐる。殊此の男は辛ひ物といふのを好んだ。碌な稼ぎもない詩人くずれであるが、彼の人の好さに土方は心を許してはゐる。だから今、ケチャップ・ライスに胡椒ではなく唐辛子を山と振り掛けやうが、其れをビーフ・ストゥウやコロッケー・サンドウイッチに仕出かさうが、最早呆れて只見るだけだ。元より赤茄子の色で以て白色を赤へ変へてゐたボウル一杯のケチャップ・ライスは其の赤を益々濃くする。スプウンを渡すと此れ又律儀に手を合はせ、戴きます、其れは嬉しさうに笑んだ。

「――。うん、美味しい。美味しいよ、君。」
「……云ひたい事はなくもないが、さうなら好かった。」
「久し振りの御飯だから尚更なのだらうね。料理長にお礼を云っておいて欲しいよ。僕の為にわざわざ、残しておいて呉れて。」

一口一口、味わってゐることが伝わる咀嚼に土方は少しだけ喜色を浮かべる。序でに茶か水を用意しやう、さう思って水道を振り返らうとして、然し彼の言葉に脚を止める。――さう云へば、此のところ彼は此処を訪れてゐない。数日振りの事だ。

「あんたは――此の何日かを、だうしてゐたんだ。」
「何をかな、」
「飯だよ。」
「嗚呼、其れどころではなくってね。気づいたら今日になってゐたといふ寸法さ。此の間は慥か、カリーのソオスとパンを貰ったのだったね。」
「あれから――食ってなかったのか。」
「忘れて仕舞ふんだよ。」

其処で彼は恥ずかしさうに苦笑して俯ひた。一方土方は、何といふことだ、と絶句する他ない。――土方は其処らの婦女子より食べる量が多い。家が洋食屋であるから残り物、まかなひの片づけを毎日食べてゐるのが原因だ。御蔭と平均よりずっと身体の肉の嵩は増へ、幸ひにして客人には可愛がられるものの、からかわれる事は日常茶飯事である。会はなかった此の数日間、土方はいつものやうに沢山の料理を食べ、一方此の詩人は食糧といふものを全く口にしてゐなかったのだ――思い至って先ず土方の放った言葉とは、莫迦、と罵るものだった。当の彼はスプウンを持つ手を止めて、何のことやらと目を瞬かせてゐる。

「あんたの詩が売れる前に、あんたが死んだら意味がねえだらう、」
「はゝ、随分辛辣な事を云って呉れるんだね。」
「……一寸待ってろ。」
「え、」
「数日分を取り戻すんだ。」

土方は着物の袖を襷掛けに捲り上げ、厨房の瓦斯台の前へゆく。一体何なのだらう、首を傾げて、其れでも云はれた通りにスプウンをボウルの脇へ置いて待つ彼の視線を感じ乍、土方は店を閉めた後に洗って壁に吊るしておいたフライ・パンを掴んで瓦斯台に載せる。いゝのかい、何となく事を察した声は聞こえなかった振りをして、火を点けて熱されてゆくフライ・パンへ、バターの函からナイフで二回程掬ったのを放り込む。其処まではまだ好かったが、更に卵を――其れも三つ割り落としたのだから、流石に黙ってゐられなくなったのだらう、がたりと椅子が床を叩いた。

「何を、してゐるんだい。勝手に食品を使っては、」
「私が怒られるより、あんたが飢え死にするほうが重大事だ。」
「そんな、大袈裟な事を――、」
「私が叱責されるのが嫌なら、さっさと売れるかまともな食生活をしろ。……私に云はれたって、説得力はねえだろうがな。――熱いから下がってゐろ。あんたの指に油でも飛んで火傷なんかしたら、ペンが持てなくなる。」

菜箸で卵三つ分を掻き雑ぜ乍云ふ土方に彼は、暫し傍らで土方とフライ・パンとを交互に見やってゐたが、やがて黙って、椅子のほうへと戻った。さうして沈黙の中、卵が匂ひを立て始めた頃、ねえ君、彼が背後から呟く。珍しく憔悴した声だ、土方はふと思った。

「何故僕が、数日も何も食べずにゐて、今日になって此処へ来たと思ふ。」
「……。腹が減ったから。」
「其れもあるさ。でも其れが総てぢゃあない。書くのに、取り憑かれてゐたんだよ。」
「ずっと――書いてゐたのか、」
「さう。さうして今朝、出版社に持ち込んだのさ。……どこも、僕を相手にして呉れなかった。万策尽きて、やうやくお腹が空いてゐるのを思ひ出したんだ。」

嗚呼――土方は先程の己の科白を恥ぢた。彼は書く事を愛し、衝動は止まらない。然し乍、其れが世間に受け入れられるかはとても難しいらしい、其れくらいの事は識ってゐた。完成した彼の傑作は、世の目からすれば結局、駄作に過ぎなかった――。

「……でも僕はね君、君が云ったやうに、書き乍死ぬならば本望なんだよ。多分ね。」
「……。悪かった。云ひ過ぎた。」
「嗚呼、さういふ訳ぢゃあないんだ。君を責めてゐるんぢゃあない。只ね、解った事がひとつある。」

丁度其処で、土方は火を止めて、熱いフライ・パンを持って彼の待つ卓へ向かふ。黒ずんで久しい鉄の円形の中に柔らかな黄色を見るや彼は、目を輝かせた。少し下がれ、身を乗り出す詩人を制し、ボウルに半分以上は残ってゐるケチャップ・ライスの上にとろとろりと載せた。ふわりと漂ふ湯気は優しい匂ひだ。

「溶けた煎り卵のやうだね。」
「まう少し好い喩へが出来ねえのか。……まあ私も、オムレツに失敗したからあんたを責められやしねえが。」
「否、美味しさうぢゃあないか。僕の為に勿体ない事をと思ったけれど、贅沢が目の前にあると、舞い上がって仕舞ふね。」

戴いて好ひのかな、覗き込むやうに土方を見る視線に軽く肯く。ぢゃあ、とスプウンを構えた彼であったが、ふと其の手を止めて土方を再度見上げる。

「君も食べたらだうだい。」
「は、」
「初めてオムレツに挑んだのだらう。毒見をしろだなどと酷い事は云はないが、味を覚えておくのも悪くはないんぢゃあないだらうか。」
「だが――、」
「其れにね君、僕は如何やら贅沢を満喫してみたくなったやうだよ。」

スプウンを置いて指を組み、笑む彼の意図が解らない。目線で問ふと、彼は笑みを崩さない儘に、一緒に食べやう、そんな事を云ふ。

「君が御飯を食べてゐる姿を見るのが、僕は好きなんだ。」
「……下品と云はれる事もあるが。」
「僕はさうは思はない。――丁度僕の住む部屋から此の厨房が見へてね。夜、此処で残り物を食べてゐる君は、一人であらうが皆と一緒であらうが、本当に幸せさうなんだよ。僕は君の幸せさうな姿を見乍、時折、君の事をノオトに書くんだ。」
「え、」
「見せはしないよ。恥ずかしいからね。さあ、スプウンを持っておいで。」

にこりと笑む其の顔に、何か他の感情がありはしないか。土方は少しばかり混乱を来たし、其の混乱の根源が何たるかは解らない儘、云はれた通りにスプウンを取りに行く。其の間も彼は湯気を漂はせる巨大なオムレツ・ライスもどきに手を付けず、土方の分の椅子を用意して待ってゐた。

「さあ、其れぢゃあ、戴きます。」
「……戴き、ます。」

ぎこちなく云って土方は卵を掬う。一口食べて、不味くはないと思った。然し、然程美味しいとも思へなかった。――其の思考が顔に出てゐたのだらう、彼はスプウンで卵とケチャップ・ライスを重ねるやうに掬った手を止め、さういふ事だ、と云ふ。

「君は食べ物に真摯だ。僕は詩に対して、君のやうにありたいと思ふ。己の思ふところを突き詰めて、思ふ儘に書いてゆきたいよ。理解されるか否かは、二の次さ。」
「……其れでいゝのか、あんたは。」
「出来れば其れを仕事と云って憚りないやうにはなりたいけれどね。でも君、僕が売れっ子になったら、此処でかうして二人、同じ御飯を食べられなくなるかも識れないな。」
「何を莫迦な、」
「云ったらう、贅沢を満喫したくなった、って。どれひとつ欠けても僕は、笑って安らかに死ねないと思ふよ。」
「……。あんた、何が云ひたいんだ。」
「其れは君、当たり前だらう、」

さうは云ったが彼は言葉を続けなかった。土方は其の、続くべきだった言葉と、彼が書き連ねたらしい自分の事を思ひ、やおら恥ずかしくなって誤魔化すふうにスプウンに一口以上の量を持って口に突っ込んだ。さう、其の食べっぷりに胸が空くんだよ君、彼が尚更嬉しそうに云ふから、ケチャップ・ライスがあり得ない辛さになってゐることに暫く気づかなかった。此の売れない、然し贅沢を満喫しているらしい詩人が、珍しく狼狽して水を汲みにゆくまで、十秒、九秒、八秒、――。

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