毎週火曜日の朝7時半。家族内でゴミ出し当番の役割を担う私は毎週その時間に家庭ごみがたっぷり詰まったゴミ袋を持って指定のゴミ捨て場へ行く。警戒区域から割と近い位置にあるこの辺りに住んでいる人はあまり多くないが、かといって極端に少ない訳でも無い。いつも通る道に居るおばさんに挨拶をして、既に半分くらいは別の人のゴミ袋で埋まっているそこに我が家のゴミ袋を重ねて置くと背後から「おはよう」と声を掛けられる。 「おはようございます」 振り返って挨拶するとそこに居たのはいつものお兄さんだった。 最初の頃はお互い会釈程度だったのだが、あまりにも毎週時間が重なるものなので一度勇気を出して「おはようございます」と挨拶をして以来、朝の挨拶と世間話をするくらいにはなった。 「おっ、制服衣替えしたんだ」 「そうなんですよ」 「いいね、夏服。よく似合ってる」 「ふふ、ありがとうございます。迅さんは衣替えしないんですか?」 「んー、まあそろそろかな」 最近は朝でもちょっと暑いねと顔を手で仰いだ迅さんにつられて確かに、と私も自分を手で仰ぐ。 「今日はこれからお仕事ですか?」 「うん。ちょっと前までは忙しかったんだけど最近はやっと時間が出来てきて。少し肩の荷が下りたかな」 「それは良かった。迅さん、一時疲れた顔してる時があったからちょっと心配してたんですよ」 「えっ、そうなの? 顔に出してたつもりは無いんだけど……。なんかごめんね」 「いえいえ。今元気なら良かったです」 丁度会話も途切れたので、それじゃあと言って一旦自宅に戻ろうとすると迅さんは何かを思い出したように「あ」と声を出す。 「名前ちゃん、今日傘持って行った方が良いよ。夕方から雨降るから」 「え? 天気予報、晴れだったと思うんですけど……」 「まあ、折り畳みの一本ぐらいは鞄に入れといて損はないよ」 さっき見た天気予報は確かに晴れだった気がするものの、親切から言ってくれた迅さんが嘘を言っている様子も無いので素直に分かりましたと頷いた。 その後一度家に帰って朝ごはんを食べて、家を出る時にそういえばと玄関から折り畳み傘を掴んで鞄に入れる。お母さんが「あら、今日は一日晴れじゃなかった?」と首を傾げるのに「念の為」と答えて家を出た。 *** 結論から言うと、迅さんの予報は大当たりだった。 昇降口で立ち往生する子達を横目に折り畳み傘を開く。 「何で苗字傘持ってきてんの? どんだけ用意良いんだよ」 「朝知り合いに教えて貰って」 「なんだそれ、その人すげえな」 クラスメイトの米屋に声を掛けられたので一応「入ってく?」と尋ねる。折り畳みだから少し狭いがそれでも全身濡れるよりはマシだろうと思ったが、米屋はきっぱり「いや、ここまで来たら濡れて帰るわ! じゃーな!」と言ってこの土砂降りの雨の中を走って行ってしまった。そんな米屋につられて走り出す男子数名に心の中で拍手を送りながら自分も傘を開く。迅さんが教えてくれなければせっかくクリーニングからおろしたての夏服もびしゃびしゃになっていたのかと思うと感謝しかない。次に会った時にお礼を言おうと決め、雨粒が跳ねかえるアスファルトに一歩踏み出した。 *** 「おはよう」 「あ、迅さん。おはようございます」 次の火曜日。やっぱり今日も出会った迅さんは私が置いたゴミの上に大きなゴミ袋を一つ重ねた。 その様子を見守っていたが今日言わなければならないことを思い出してはっとする。 「そういえば迅さん、先週は助かりました」 「先週? ……ああ、濡れずに済んだ?」 「はい、迅さんのおかげでばっちり」 「それは良かった」 にっこり微笑んだ迅さんにつられて私も顔を緩めるがそういえば迅さんは何故夕方から雨が降ると知っていたのだろう。 疑問に思って尋ねてみると、迅さんが「知りたい?」といたずらっ子のような顔をするので素直に頷く。 「名前ちゃんは何でだと思う?」 「ええ……何だろう、数値だけでは測れない風の動きとか雲の動きとかを第六感で感じ取ったとかそういう話ですか?」 「お、良い線いってるね」 「マジですか」 こんな漫画みたいな話が良い線いってるってどういうことなんだ。そんな特殊能力を迅さんが持っているってことなのか? 首を傾げる私に迅さんは軽く笑う。 「まあ、答えを教えるのはまた今度ね」 「えっ、ここまできてお預けですか。もやもやしちゃいますよ」 「あはは。まあ、あと三日くらいはおれのこと考えてもやもやしててよ」 それじゃあね、と迅さんは手を振りながら去って行ってしまった。 一応手は振り返したが、最後の迅さんのセリフ、きっと答えを考えてもやもやしてという意味なのだと思うが言い方がずるい。普通にかっこいい迅さんの顔でそんなことを言われたら、答えとは別に迅さんのことを考えてしまいそうになる。 そのままそこに居ても仕方ないので、熱くなった顔を冷ますように手で仰ぎながら30秒程で到着する自宅に向かって歩き出した。 *** あれから三日。もやもやはまだ続いていた。しかし迅さんが本来言った意味の答えを考えていたからではなくて、言葉通り迅さんのことを考えてもやもやしていたのだ。 最初は迅さんは何故雨が降ることを知っていたのかを真面目に考えた。迅さんと今まで話した世間話から何かヒントはないだろうかと、至極真面目に考えたのだ。そして私はそこまで深く考える程迅さんのことを知らないことに気付いた。毎週火曜日の朝世間話をする程度の仲だから多くを知らないのは当たり前のことだ。でも、私が迅さんの名前と多分年上だってことと、多分この近所に住んでいるってことぐらいしか知らないと気付いてから、なんだかさみしい気持ちになってしまった。 それに気付いたのは一日目だったけれど、ただの近所のお兄さんの迅さんのことを何故こんなに考えているのだろう、と考え始めてからが長かった。 答えはほぼ出ているものの、迅さんにご近所のお兄さん以上の感情を持ち始めた自分が何だか恥ずかしいのと、何よりこの前の一言で意識し始めるなんて単純にも程があるだろうというのとで中々認められずにいた。 宿題をする為に開いたっきり全く進んでいない数学のノートをパタンと閉じる。もやもやが煮詰まりすぎた。そろそろ気分転換をしなければ宿題は進みそうにない。 「ちょっとコンビニ行って来る」 「あら、もう遅いから気を付けるのよ」 「うん」 お母さんに行き先を告げて財布と携帯だけを持って家を出る。Tシャツに短パンという完全に部屋着の格好であったが徒歩5分程度で着くコンビニに行くだけなので問題はない。 薄いサンダルでぺたぺた音を立てながら歩く。 気分転換に何か甘い物でも買って食べようか、今日は暑いからアイスでも良いかもしれない。でももう8時だからなあ、とおやつを食べたい私と夜中にカロリーを摂取することに抵抗がある私がゆらゆら揺れていると、いつの間にか足音が一つ増えていることに気付く。 普段はあまり気にならないけれど、夜中一人で歩いているときに足音が聞こえると無性に怖いんだよなあ。 何の気無しに後ろを振り返ると背の高い細身の男の人がこちらをじっと見ていた。 ひ、と口から声が漏れそうになるのを堪える。少し会釈をして再び前を向く。 あの人が不審者とか、そういう訳ではないと思うけれどなんとなくぞわっとしたものが背筋を通った。 丁度コンビニが見えてきたので少し早歩きすると後ろの足音のぴったり付いてくる。 本格的に怖くなってきたけど後ろは振り向けなくて、更に速度を上げてコンビニへと駆け込むと後ろの人も一緒に入ってくるのが分かった。 なんだ、この人もコンビニに行きたかっただけなんだと思い込んで自分を安心させようとしたが、店内を見て回る時に私の近くをずっとキープしているのに気付いてからは再び怖くなった。 とりあえず、この人より先に店を出るのはやめようと雑誌コーナーで適当な雑誌を掴んで立ち読みをするふりをする。 すると、あの人も私の隣に立って週刊誌を読み始める。 ど、どうしよう。完全に困り果ててしまった。 お母さんに連絡して迎えに来て貰おうか、と携帯を開こうとした時だった。 「名前ちゃん」 名前を呼ばれて反射的に顔を上げる。 「迅さん…」 そこに居たのは迅さんだった。 「一人?」 「は、はい…」 「だめだよ、女の子がこんな時間に一人で出歩いちゃ」 危ないでしょ、と私を優しく嗜めた迅さんは「帰り、送るよ」と私の手を取る。すごく自然な動作に私が目を奪われていると、一瞬だが険しくなった視線が私の横にいた男の人に注がれた気がした。 「そういえば、何か買おうとしてたんじゃないの?」 「あ、えーと、気分転換が目的だったんで大丈夫です」 おやつを食べたい私なんてもうどこにも居なくて、今は一刻も早くここを立ち去って家に帰りたかった。 迅さんは私の答えを聞くと「じゃあ帰ろうか」と私の手を引いてコンビニを出た。 行きはあんなに怖かったけれど帰りは迅さんが隣にいて、何故か手を繋いでいるのでどきどきしてしまう。そういえば迅さんは何でコンビニに来たのだろう。コンビニに来たからには何か目的があったのだと思うのだけど、迅さんは何も買わずに店を出てしまった。 「迅さんはどうしてコンビニに? 何か買う物があったんじゃ無かったんですか?」 「おれの用事はもう大方済んだから大丈夫だよ」 「え?」 「コンビニに行って、変な男に付け回されてる名前ちゃんを家まで送り届けるっていう用事」 驚いた顔をした私に迅さんは更に驚くようなことを言った。 「おれね、未来が視えるんだ」 未来が視える。あまりのことに立ち止まって迅さんの顔を見上げた私に「あ、これ、こないだの答えね」とあっさりした声で言った。 「あの日の朝は名前ちゃんが夕方雨に降られて困っている未来が視えて、今日は名前ちゃんがコンビニからの帰り道でさっきの男の襲われてる未来が視えた」 「……やっぱりさっきの人、不審者だったんですね」 「うん。名前ちゃんがコンビニに行かない未来もあったから特に何も言わなかったんだけど、怖い思いさせちゃったね」 「迅さんが来てくれたんで大丈夫ですよ」 申し訳なさそうな迅さんの言葉に、そんなことはないと首を横に振る。 一人で歩いていた時は確かに少し怖かったけれど、今は隣に迅さんが居てくれる。 夜道で隣を歩いてくれることがありがたいし、私を心配してコンビニまで様子を見に来てくれたことはすごく嬉しいと思った。 家を出るまで迅さんのことを考えていて、今迅さんにときめいている状態でこうして手まで繋いでいるのは恥ずかしいけれど、嫌ではないので振りほどけない。 思い出すと意識が全て繋がれた手に持っていかれそうになるので、必死で別のことを考える。そうだ、迅さんが未来が視えるという話だった。 「未来が視えるのって、どんな感じで視えるんですか?」 「んー、目の前の人の少し先の未来が視えるって感じかな。実現が高い未来は結構先まで視えたりするけど」 「この前会った時に私が不審者に襲われている未来を視たから今日はここまで来てくれたんですね」 「コンビニに行く時と帰る時のどっちかは分からなかったから、もうちょっと早く着ければ良かったんだけどね」 「来てくれただけで十分ですよ、本当にありがとうございます」 迅さんが来なければあの不審者に襲われていたのかと思うとぞっとする。 気が散りそうになる頭で考えてみたが、未来が視えるという突拍子の無い話もこの一連の出来事を先に経験したせいか割と簡単に受け入れている自分がいた。迅さんが良い線いってると言っていたのは『第六感で感じ取った』って部分を指してだったのか、とこの前の火曜日の出来事を思い出す。考えれば考えるほど漫画みたいな話だ。 「おれが未来が視えるっていうのさ」 「はい」 「ボーダー以外の人に知られるの、あんまり良くないから内緒ね」 「ないしょ」 「うん、内緒」 唇に人差し指を当てた迅さんのポーズを真似ながら頷くと迅さんもいつもの微笑みを浮かべながら頷く。 ん? ボーダー? その微笑みに思わず見惚れそうになったが、聞きなれた単語を耳が拾ったのでそれどころじゃなくなった。 「迅さん、ボーダーの人だったんですか」 「そうだよ。あれ、これ言ってなかったっけ?」 「初めて聞きましたよ!」 「そうだっけ?」 ほら、ここにボーダーのマーク入ってるでしょ、と迅さんはジャケットの腕の部分を見せてくれた。 ほ、本当だと今更マークの存在に気付く私。今まで普通にスルーしていた迅さんのジャケットのマーク、気付いてからはこんなにも分かり易いヒントがあったのに何で気付かなかったんだろうと思うばかりだ。 迅さんのことを何も知らないと家で落ち込む前にこの節穴の目をどうにかするべきだった。反省。 でも、今日だけで迅さんの情報を二つも知れたのは嬉しい。しかもそのうちの一つは小さな秘密事だ。 先程迅さんに助けられたことで完全に迅さんへご近所のお兄さん以上の感情を抱いたことを認めた私は、迅さんの秘密を知ったことで浮かれ始める自分の単純さに笑う他ない。 「そういえば迅さん」 「うん?」 「言われた通りこの三日迅さんのことを考えてもやもやしていたんですよ」 そして自覚したばかりの自分の気持ちを伝えようかどうか迷って、結局今日自分が嬉しかったことだけは素直に伝えようと思った。自分の気持ちを素直に伝えるのは他人との距離を縮める第一歩だと思うのだ。 「えっ、本当に考えてくれてたんだ」 迅さんは驚いたようだ。まさか本当に考えているとは思っていなかったらしい。 「考えましたよ。それで考えた結果、私は迅さんの名前ぐらいしか知らないんだなって気付いてちょっと寂しくなってたんです」 「なに、名前ちゃん、そんなかわいいこと言う子だっけ?」 からかうような迅さんの声にむっとして迅さんを睨む。 ぱちりと目が合うと、私が不機嫌そうな顔をしたからか迅さんは困ったように眉を下げた。 「茶化さないでくださいよ、本当にそう思ったんですもん。だから、」 「名前ちゃん、ちょっと待って」 今日迅さんのことを少しでも知れて良かったし、これからもたくさん知っていきたいって思ったんです。 そう続けようとすると迅さんからストップがかかった。 どうしたのかと思わず迅さんの方を向くと、空いている方の手で口元を覆う迅さんが居た。 心なしか耳が赤い気がする。 「……今名前ちゃんが何て言うか視えたんだけど」 「はい」 「実際言われたらおれの顔が大変なことになるから遮ってしまいました」 ごめんなさい、と謝った迅さん。 耳が赤いのは気のせいじゃなかったのかと顔を覗き込もうとすると「だめだって」と逃げるように背けられてしまう。 「……いや、でも本当ありがとう。そう言って貰えるの、嬉しいよ」 「言わせて貰えませんでしたけどね」 「それは本当に悪いと思うんだけど、今はちょっと勘弁して。せっかくかっこよく助けたのにかっこ悪いとこ見せて幻滅されたくない……」 あんなにかっこよく助けてくれた迅さんをかっこ悪いなんて思う訳ないのにと思うが、照れて顔が真っ赤になっているのは迅さん的にはかっこ悪いことらしい。 仕方がないので今回は迅さんの言う通りにしよう。また機会があったら言ってみようと思うけど。 「……はあ、今日あっついね」 「え? 迅さんの顔が?」 「……なかなか言うね」 少し時間が経ってから迅さんが呟いた一言に先程の仕返しとばかりにそう返すと迅さんは苦い顔をする。今日の迅さんは色んな表情を見せてくれるのでそれもまた嬉しい。 でも迅さんの言う通り、確かにあついと思う。 もちろん気温のせいもあるのだが、それ以上に隣の迅さんと手を繋いでいるというのが一番の要因な気がした。 嬉しいのと照れるのとでじっと繋がれた手を見て、迅さんと手を繋いでいるのだと実感して顔が火照りそうになる。 迅さんも私が手を見ているのに気付いたようで、「あ、手ごめんね」と繋がれた手を離そうとしたので思わず追いすがるように握りしめてしまう。咄嗟だったとはいえ自分がやってしまったことが恥ずかしくて俯きながら即座に謝る。 「ご、ごめんなさい」 「あ、いや。名前ちゃんさえ良いならこのまま握っとくけど」 怖かったもんな、と言った迅さんに、私が迅さんと手を繋いだままでいたいと思ったのはそれだけが理由じゃないけれど流石にそこまでは言えなくて黙っておいた。 その後は何だか気まずい時間が流れ、結局一言も話さないまま歩きもともと大した距離も無いのですぐに家に着いてしまった。 「おやすみ」 そう言って手を離した迅さんに名残惜しさを感じながらも手を振って見送ろうとすると「名前ちゃんが家に入るのを見届けるまでは帰れないから」と言うので、おやすみなさいを言って家へ戻った。 お母さんに声だけで帰宅を伝えて一目散に部屋に戻る。 二階の自室のカーテンを開けると丁度迅さんが歩いている姿が見えた。 せめてここから見送ろうと歩く迅さんを眺めていると、角を曲がる前に私の家の方を向いた迅さんと一瞬目が合った、気がした。 びっくりして咄嗟にカーテンをしめてしまった。 慌ててカーテンを開けて再び窓の外を見たが既に迅さんの姿は見えなくなっていた。 誰もいない道路をしばらく眺めた後、椅子に座ると閉じられたままの数学のノートが目に入る。 色々なことがありすぎて、とてもじゃないが宿題をする気分にはなれそうにない。 とりあえず、次に彼と会う火曜日までに何かしらのお礼を用意しよう。 それから、別に念入りに化粧をするとか髪をセットするとかそういう訳じゃないけど、次の火曜日はちょっとだけ早起きしようと思った。 |