小説 | ナノ


年上の男が好きだった。前に付き合っていたのも三歳年上の人だった。付き合っていたのは二年も前の話であるが、この人と結婚するんだと思っていたのに結局別れてしまった。同い年の響子のように一人の人を思い続ける一途さなど持ち合わせていなかったので、さっさと割り切って新しい男を探しているうちにまた二年が経ってしまった。今年で私も二十五歳、そろそろ結婚についても考える歳である。
事務室で一人集中出来ずにぼーっと座っていると「こら」と響子に椅子を蹴たぐられる。忍田さんの前では大分大人しく、女性らしく振舞う癖に私や東の前では昔からずっと変わらない姿の響子は暇そうな私の前にドサリと書類の束を置いた。

「忍田さんからの仕事持ってきてあげたわよ」
「わーい、ってこれ提出期限いつまでのやつ?」
「明日の朝」
「そんなもの持ってこないでよ!」

時間までに終わるかな、と上から順に確認していくと内容自体は対して難しくなさそうだった。これなら業務時間内に終わりそうだ。

「そういえば最近太刀川くんとはどうなの?」
「どうもこうも特に何もないけど」
「とうとう付き合い始めたんでしょ? なんか無いの? デートしたとか」
「付き合い始めたというか押し切られたというか……。付き合ってまだ二週間だよ? 特にないわよ」

お互いの仕事場に寄ったついでに世間話を始めてしまうのは私と響子の間では日常茶飯事であった。よほど仕事が立て込んでいない時に限るが、そうでもしないとなかなか話ができない。
しかし今回響子が選んだ話題は私にとってはありがたくないものだが響子にとっては一番聞きたかったことらしく、言ってしまえばこの話が聞きたいがために今私に会いに来ていると宣言した彼女に苦い顔をするしかない。

「太刀川くんが昔から名前を狙っているのを知っている身としてはやっとくっついたかって感じだったんだけど」
「……どうしてくっつかなかったのも知ってるでしょ」
「名前が年下は嫌だって逃げ回ってたから」
「今だって逃げたい気持ちでいっぱいなんだけど」
「またあ。太刀川くんのことも年下の世話を焼くのも嫌いじゃない癖に」

にやにやする響子を睨むが私のこの顔に慣れっこな彼女は特に気にした風もない。
確かに、年下の子の世話をするのは嫌いじゃない。でなければトリオン器官の成長が衰退して戦闘員を引退した後も若い子ばかりが集うボーダーで働き続けてなんていない。太刀川くんのことだって太刀川くんがこちらに気持ちを向けてくる前はクソガキと言いつつもすごくかわいがっていたのだ。
太刀川くんの私を見る目が今までとは違う意味を持ってきた、と気付いた時少し迷ったが距離を置くことにした。まだ高校生だった彼を「慶」と呼んでいたのを「太刀川くん」と他人行儀な呼び方に変えてみたり、ボーダー本部に居る時は事務員と隊員として適正な距離感で接することを強要したりと、自分の気持ちが彼に向くことはないと思っていたあの頃はとにかく自分を諦めさせることに必死だった。だがそれをものともしないのが太刀川くんだ。私達の関係に少しの変化があったのは一か月程前のことで、未だに自分を思い続けてくれている少年が二十歳になった時に呼び出されたのがきっかけだった。

***

呼び出されたのは私の仕事場に程近い休憩室だった。いつも私を見かける度に話しかける、仕事終わりに声をかけるというアプローチが常だった彼がこうして呼び出してくるのは初めてのことだった。
ずっと二人きりになるのを避けていたせいか、久しぶりにまじまじと顔を見た彼は随分と男らしい顔つきになっていた。いつまで経っても年下の少年という印象が抜けきらなかった私はその時点でこんなに立派に成長して、多少だらしないところもあるけれどきっと大学でもモテるんだろうと、あくまでも彼の姉貴分としてそう思っていた。

「名前さんさ、ずっと前から俺が名前さんのこと好きだって知ってただろ?」

先に口を開いたのは太刀川くんでいきなり本題だった。前振りも何もないその言葉に何て答えようかと考えるが、結局口は開かずに首を縦に振る。

「告白しても振られるの分かってたから今までずっと言わなかったんだけど、俺ももう二十歳になったしさ。正直今言っても良い返事は貰えないと思うけど、やっぱり言わせて」
「太刀川く、」
「名前さん、好きだ」

回避する間もなく、ぎゅうと抱きしめられる。トリオン体じゃない生身の身体に抱きしめられ、昔と違って随分鍛えられた身体に驚いて抵抗する手をおろおろと彷徨わせる。

「太刀川くん、ちょっと……」
「今だけ、今だけでいいから昔みたいに名前で呼んで」

本当に太刀川くんを諦めさせる気があるならここで彼を突っぱねるべきだった。なのに私は彼の甘えたような声に応えてしまったのだ。

「……甘え上手なところは昔から変わらないね、慶」
「名前さん、最近は甘えるどころか会うことすらさせてくれなかったけどな」
「……はは、タイミングが悪かったのかな」

拗ねたような声につい誤魔化すようなことを言ってしまう。駄目だ、このままでは流されてしまう。そこでようやくハッとした私が抵抗しようと動かした手は少し身体を離した彼によって捉えられてしまった。なんだか本格的にまずい流れになってきた。

「なあ名前さん」
「はい……」
「もし今後、本当に可能性がないならここで俺を拒んでくれよ。そしたら俺もちょっと、考えるから」

諦めるではなく考えると言うのが太刀川くんらしい。そんなことを考えていたらあっという間に顔が近づいて、拒む隙なんか与える間も無く口付けられた。さっき突っぱねなかったことを心底後悔した私に太刀川くんが笑った。

「名前さんの気持ちはよく分かった」
「え、ちょっと、今のは卑怯でしょ」
「昔の名前さんならここで蹴りの一発二発入ってただろうなあ。それが無いってことは満更でも無い訳だ?」
「そんな訳ないでしょ、こら、慶!」

確かに昔なら尻を蹴っ飛ばしていただろう。それをしなくなったのは私が大人になったからであって断じて彼の行動を許したからではない。それを説明する前に再び抱きしめられて、今度こそ流されてはいけないと彼の身体を押し返そうとするのにびくともしない。その上、太刀川くんと呼ぶべきなのに咄嗟に出てきたのは昔の呼び方で、あのキスのせいか私の全てが上手くいかなくなっている。
もう一度キスしようとする彼をしばらく使っていなかった筋肉を総動員して突き飛ばして、まだ仕事中の響子の元へ逃げたのが一か月程前の話である。

***

「いやー、迅くんじゃないけど名前が私のところに逃げてきた日からこうなる未来が視えてたわよ」
「なによそれ」
「なんだかんだ名前って昔から太刀川くんに甘いし、押しに弱いし、むしろよく耐えたと思うよ。太刀川くんにアプローチされ続けてるのにはっきり断らなかったのも、一か月前に太刀川くんに迫られてつい甘やかしちゃったのも太刀川くんに少なからず情があったからでしょ」

響子の言うことはごもっともである。太刀川くんに誘われても予定がある、の一点張りではっきりと一緒に行きたくないと断ったことはない。太刀川くんが私のことを好きでないのなら二人で食事に行ったり買い物に行ったりすることも問題ないくらいには彼のことを人として好意的に思っているのだ。本当はそう言った方が諦めさせるには効果的だと分かっていても、彼の傷つく顔を好き好んで見たい訳じゃない私はどうしても嘘でそんなことは言えなかった。

「太刀川くんのことは嫌いじゃないけど、彼氏にするかって言ったらそれは別じゃない……」
「キスされてどきどきしちゃった癖に?」
「やめて、本当にやめて……」

思い出して恥ずかしくなってきた。
太刀川くんにキスをされたあの日からどうにもこうにも上手くいかない。仕事中も太刀川くんのことを思い出して集中できないし、なのにあの時の私が隙を見せてしまったせいで太刀川くんがお昼休憩の時間や仕事終わりの時間に私の仕事場に現れるようになってしまった。そのせいで更に仕事が捗らなくなる。彼も忙しいのか毎日ではないし大抵雑談をして帰るだけなのだが、姿を見なければ忘れることのできる記憶も定期的に顔を見せに来られては忘れることができず毎日終わらなかった仕事ばかりが溜まっていく。流石にこのままではまずいと太刀川くんに一言言うと決めたまま時ばかりが過ぎ、テンパった私が今までの努力を水の泡にしたのが二週間前である。

***

その日は特に忙しかった。自分が今まで溜めていた仕事プラス唐沢さんからの頼まれ事でてんやわんやだった私はお昼を取る間も無くひたすら手と頭を動かしていた。そんな中いつものように現れた太刀川くんにまたかとため息をついた私は仕方なく立ち上がり、この二週間言おう言おうと思って結局絆されて言えなかった一言を言う。

「気が散るから仕事場には来ないで」
「今日忙しいの?」
「忙しい。すごく忙しいしここ最近太刀川くんが来るせいで普段の仕事も思うようにいかなくて溜まってるの。だから仕事場にはこないで」
「何で?」
「何でって今言ったでしょ、気が散るって」
「名前さん、中高生が傍で騒いでても仕事に集中出来るタイプじゃん」
「うっ、とにかく太刀川くんが来ると集中できないから、もう来ないで」
「ふうん、じゃあ俺と付き合ってくれるか?」
「分かった、分かったから…!」

早く仕事に集中したい一心だった私は、こんがらがった頭で今までの努力を無に帰す一言を言ってしまった。その時の彼の嬉しそうな顔といったら。言ってからハッとしたがもう遅かった。

「今日何時に終わるの」
「7時とかそんなもん……」
「待ってるから一緒に帰ろう」

邪魔してごめんな、と去って行った彼の背を見送るしか出来なかったのはしょうがないことだと思う。やってしまったという思いにまみれた私は結局唐沢さんからの頼まれ事を終わらせるのが精いっぱいだった。本当はもう少しやっていきたかったがこのまま仕事をしていてもどうせ捗らない上に太刀川くんを待たせている。逃げ出したかったがきっと彼は待つと言ったらいつまででも待っているのだろう。仕方なく帰り支度をして扉を開けると太刀川くんが居て、びっくりして一歩踏み出そうとした足を止めてしまう。

「お疲れ様」
「あ、ありがとう。太刀川くんは今日防衛任務だったの?」
「いや、風間さんに手伝ってもらってロビーで課題やってた」
「そう、ちゃんと提出期限は守りなさいよ」
「大丈夫、もう過ぎてるから」
「全然大丈夫じゃないじゃない!」

思わず大きな声を出してしまった。昔から宿題とか全然やらない子だったと思い出してそういうところも変わっていないのか、忍田さんも苦労する、と頭を抱えそうになったが心配するべきは彼の課題よりも彼の告白に頷いてしまった自分の身だと気付いた。

「あの、昼間のことなんだけど……」
「あ、そういや名前さんあの後ちゃんと昼ごはん食べたか?」
「食べてない……」
「じゃあ、なんか食べていこう。おなかすいてるだろ」

言われて自分が朝ごはんを食べて以来何も食べていないことを思い出した。それに気付いた瞬間ぐうと鳴いた自分のおなかを殴ってやりたい。
結局その後一度も付き合う云々の話は出せないまま一番近くのファミレスでごはんを食べて家まで送ってもらってしまった。手を繋ぐこともせず、ただ喋ってごはんを食べて家までの道を歩いて別れただけだが、その日から太刀川くんは毎日私を迎えにくるようになった。仕事の邪魔になるからと言ったのを気にしているのか部屋には入らず、ずっと扉の外で私が出てくるのを待っているのだ。もっと恋人になった途端迫られるのかと思っていた私は拍子抜けして、やっぱり付き合えないと言えないまま日々を過ごしている。

***

「もう諦めたらいいのに。だって名前太刀川くんのこと好きでしょ」
「そりゃ嫌いではないけど太刀川くんまだ二十歳だし」
「そんなこと気にしてるの?」
「気にするわよ、昔から年上が好きで年上の人とばっかり付き合ってきたのに急に年下の子が彼氏になるとか……。なんか色々こっちがお金出さなきゃいけないのとか考えちゃうし色々こっちがリードするべきなのかなとか考えちゃうし…!」
「ちゃんと付き合った後のこと想像できているなら大丈夫じゃない。太刀川くん、A級一位で固定給も貰ってるし、もう二十歳でしょ? そんなに心配しなくても上手くやっていけると思うけどなあ」
「……そうかな」

この間抱きしめられて、キスされて、彼はもう私の知っているあの少年ではなく立派な男性になっていたのだと実感した。太刀川くんと付き合う気が一切無いという思いもあの日以来過去の物となってしまって、だから拒み切れずにお付き合いを始めてしまった。彼との今後を想像している時点で、彼と付き合っていくことを前向きに検討している自分がいることを響子からの指摘で気付かされてじわじわと顔が赤くなる。ここまで来たらもう腹を括るしかないのかもしれない。うっかりとはいえ私が彼の告白に応じてしまった時の彼の嬉しそうな顔を思い出すと、その顔を歪ませることはしたくないとさえ思えてくるのだ。太刀川くんのことを好きになり始めているのかもしれない。彼が私に費やしてくれた時間を、愛情を、今度は私が彼に注ぎ返す番なのだろう。

***

あの後響子と別れ仕事に没頭していると既に定時を回っていた。腹を括った途端恐ろしいほどの集中力で響子が持ってきた仕事どころか急ぎじゃないからと後回しにしていた仕事までを片付けてしまった。後はこれをそれぞれの担当部署に持って行きがてら帰るだけだ。帰り支度を始めて、今日も待っているかなと扉を開けると壁に凭れるようにして端末を弄っていた彼が顔を上げる。

「お疲れ様」
「ありがとう。太刀川くんも、立って待ってるのは疲れたでしょ」
「いや、そんなに」
「今日は任務だったの?」
「んー、今日は夜勤だからこれから」
「えっ、じゃあわざわざ外に出る必要なんてないじゃない。ごはん食べてないなら食堂とかにしましょう」

確かまだ食堂は開いていた筈だと時計を確認しようとすると手を取られた。いくら私の仕事場が少し奥まったところにあると言えど、いつ誰と遭遇するか分からない施設内で手を繋がれるのは流石に恥ずかしくて待ったをかける。

「ごはん、外で食べるの?」
「食堂だとごはん食べたら名前さん帰っちゃうだろ。任務まで時間に余裕もあるし、いつも通り家まで送らせて」
「わ、分かった。分かったけど誰が見てるか分からないから手は離して」

そういうと彼は素直に手を離した。もう少しごねると思っていたので少し意外に思いつつも太刀川くん、と声をかける。

「あのさ、手。多分外暗いし、外出てからなら繋いでもいいから」
「……後からやっぱナシってのはナシだぞ、名前さん」
「言わないわよ、……多分。あ、その前に忍田さんとこに書類持ってくから」
「太刀川、りょーかい」

***

うどん屋さんでうどんを食べて、家までの帰り道。宣言通り太刀川くんと手を繋ぎながら歩いている。どういうわけかさっきから無言でいる太刀川くんの様子をうかがおうとするとばっちりと目があった。

「……何で今日は何も話さないの?」
「……名前さんと付き合ってるんだって実感して幸せな気持ちになってるから」
「なにそれ」
「だっていきなりがっついたら名前さん絶対逃げるだろ。だから俺、我慢してたんだよ。本当は手も繋ぎたかったしキスだってしたかったし、もっと言えば家に連れ込みたかったし」

だから名前さんから手繋いでいいって言われてすげー嬉しかったんだよ、と言った太刀川くんに嬉しいようなむず痒いような気持ちになる。太刀川くんと付き合っていく、と前向きに考え自分は太刀川くんのことを好きになっているのかもしれないと気付き始めた途端に年下だとかそんなことは関係無くなって、彼のことがすごく愛おしく思えてきた。

「……したいことしていいんだよ」
「え?」
「本部内とか人がいるところでは嫌だけど、二人っきりの時は手だってキスだって、太刀川くんのしたいようにしていいんだよ」

繋いでいる手を引かれ、抱き寄せられた。早速のことに笑ってしまいそうになるが、太刀川くんの欲がちらつく真剣な目に見つめられるとすぐにそんなことは考えられなくなる。

「名前さん、そんなこと言ったら俺が調子に乗るって分かってるよな?」
「分かってるけど、ちょっと待って」
「何、今更心の準備がとか言うなよ」
「い、言わないけど……」
「じゃあいいだろ」

あっという間に唇を奪われてしまった。しかも、この間のような軽く触れるものじゃなくて濃厚なやつ。よく私がリードした方がいいのだろうかなんて言えたものだと思うような彼のキスにあっという間に何も考えられなくなってしまう。口内に侵入してきた彼の舌に良いようにされて、離れる頃にはすっかり息の上がった私に太刀川くんは何かを我慢するような、不満そうな顔をする。

「ごめん、私何か良くないことしちゃった?」
「……してない。すっげえ良かった」
「じゃあなんでそんな顔してるのよ」
「これ以上すると防衛任務すっぽかして名前さんの家で無理やりしちゃいそうだから今我慢してんの」
「それは良くないからちょっと離れて歩きましょう」
「待って、我慢するから手は繋いでくれ」

即座に距離を取ろうとすると慌てたように手を握られる。でもやっぱりこれ以上するとまずいからと少し距離を空けた。

「なんか、夢かなって思う」
「何がよ」
「俺が名前さんのことずっと好きだったって知ってるだろ。だから今、名前さんが俺の彼女になって、手繋いで、キスさせてくれるの、夢かなって思う」
「ほっぺた抓ってみなよ」
「……痛い」
「じゃあ現実だ」

私も、こんなに私のことを好きでいてくれる子がいるのは夢なんじゃないかと思う。年下を彼氏にするのは考えられないと思っていた過去の私が見たらびっくりするくらい、今彼が愛おしくてしょうがない。そう思えるのはずっと私を好きでいてくれた彼のおかげだ。

「……私のこと諦めないでいてくれて、ありがとね」
「……諦めさせなかった癖によく言う」
「え?」
「だって名前さん、昔っから俺のこと嫌いじゃないだろ。前の彼氏と別れてから俺のこと気にして彼氏作らないし、断るのだってあんまり強く言うと俺が傷つくんじゃないかって気にしてはっきり断らないし。どう考えても俺のこと意識してくれてんのに諦められるかっつーの。なのに本人年下は嫌とか変な意地張ってるから、超長期戦覚悟だったよ」
「ちょ、ちょっと待って。彼氏できなかったのは偶然だし、はっきり断らないのは、そりゃちょっとはそういう気持ちもあったけど」
「どーせ自分のこと好きでいてくれる子がいるのに自分だけ彼氏作るのは、とか自覚してなくてもそういう気持ちがあったんだと思うけどな。名前さんってそういう人だし」
「な、何で私より私のこと分かったようなこと言うのよ。言い返せなくて悔しいじゃない」

本当に何も言い返せなくて悔しい。確かに友達に男の子を紹介された時に太刀川くんのことが頭に浮かばなかったかと言われると、はっきり「はい」とは言い難い。太刀川くんに自分を諦めさせてから、という気持ちもあったし、その割に太刀川くんに諦めさせたいけど傷つけたくはない、嫌われたくはない、という理由で強く拒否せずやんわり断り続けて避け続けて諦めてくれるのを待つ、という本当に諦めさせる気があるのかという卑怯な手を使ってしまったことも認めざるを得ない。太刀川くんはそれをすべて分かったうえで私のことを待ってくれていたというのか。

「なんていうか、私が意地を張っていたせいでお待たせしてしまって申し訳ない……」
「待った分今幸せだから良いよ。それよりさ、」
「ん?」
「そろそろ呼び方戻してくれよ。俺、名前さんに名前呼ばれるの好きなんだ」
「……慶」
「もっと呼んで」
「慶、だいすき」

歩いていた足が止まったと思ったらそのまましゃがみ込んでしまった。手を繋いでいるので私も一緒にしゃがむ。

「名前さんさあ、ほんっとに俺のこと喜ばすの上手だよな」
「……まあ、今まで待ってくれた分のお返しはしないとね」

珍しく赤い顔で睨まれた。慶のこんな顔を見るのは久しぶりだ。
でもこんな道路にいつまでもしゃがんでいる訳にはいかないので、慶を無理やり立たせるとさっさと歩き出す。防衛任務の時間もあることだし早く本部に戻らせないと、というのは建前で今だってこのまま家に泊めてしまいたいと思っているのにこれ以上一緒にいるとそれを口にしてしまいそうになるからだ。そんなこと言っても任務がある以上本部に戻らざるを得ない訳で、口に出すだけお互い辛くなるだけだ。

「……明日の予定は?」
「明日は夜勤明けだから一日オフ」
「じゃあ、明日は本部まで来なくていいから直接家に来てよ。晩御飯もうちで一緒に食べましょう」
「……食べるの、晩御飯だけじゃ済まないかもしれないぞ」
「……それを承知で言ってんのよ」
「……俺、今日任務どころじゃなくなっちゃったんだけど」
「さっさと本部に戻りなさい」

ちょうど家についたことだし、これ以上一緒に居ると本気で我慢できなくなる。慶だけじゃなくて私もだ。慶の背中をバン、と叩くと「痛って」という声が聞こえたが、ここでぐだぐだしていても自分が辛いだけだということは慶も理解しているのだろう。「明日、やっぱナシってのはナシだからな」という先程も聞いたようなセリフを言いながら去っていく。それに私も「言わないわよ、多分」と同じセリフを返して部屋に入る。せっかく仕事に集中できるようになったのに、また明日は仕事どころじゃなくなってしまったかもしれない。でも彼を待たせてしまった分甘やかして、たくさん愛してやりたいと思うので、まずは明日の夕飯のことを考えることにする。うどんは今日食べたし餅は少し季節外れだから彼の好物のコロッケでも作って彼が来るのを待っていよう。