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「ちょっと、なまえさん」


意識の遠いどこかで、困惑したような声がした。困惑というより、呆れているという表現が合っている気がする。
とにかく、そんな細かいことに思考を巡らせる余裕など無かった。些細な音ですら響くくらい、頭痛は酷さを増している。


「うわ、また飲んでたんですか」

「ああ、匂う?」

「酒の匂いと煙草の匂いしかしません」


普段から顰めっ面のくせに、より一層眉間に皺を寄せる彼。彼が高校を卒業し、私と同じ大学に通うようになったのはこの春のことである。ルームシェアとまではいかないが、大学の近くにアパートを借りた互いの部屋を行き来して、泊まっていくことなど日常茶飯事だった。
今日は、彼の部屋に上がり込み泊まって帰るという話だったが、随分と遅くなった。短針は既に三と四の間を指している。


「うわあ、気分悪い。ほんと飲み過ぎた」

「何度言えば分かるんですか、限度を考えてくださいよ」

「ごめんね、飛雄くん」


情けなく笑いながらも、ソファから立ち上がることが出来ない。その様子に、困り果てた顔で溜め息を吐く。
シャワー浴びてきたらどうですか、水飲みましたか。そう言いながらてきぱきと動き回っている。それが余計にぐるぐると目を回し、意識を朦朧とさせる。
水をコップに入れるために彼は、私から離れようとした。それが何だか嫌で、つい、腕を握りしめてしまう。彼に戸惑いが浮かんだ。そして、油断していたからか抵抗する力が働いていない。
それをいいことに、私は彼をソファへ引き寄せた。動かなかった身体が、軋みながらも彼を捕らえようと動き出した。まるで組み敷くように彼を押さえつけ、押し倒したような体勢になる。いや、押し倒している。


「何、するんですか。離してください」


焦ったように口だけで抵抗をしたが、跳ね除けてまで私を引き離そうとはしなかった。そこが、彼の甘さであり優しさだ。だから、私は付け込む。
薄く整った彼の口を塞ぎ、侵入。お酒の匂い、移っちゃうかな。驚いたように目を見開くあたり、まだまだ子どもだなぁと笑えてくる。
ようやく離れた口元から、飛雄くんは貪るように酸素を得た。何するんですか、ともう一度問う。でも、答えられる思考能力は残ってなかった。外から帰ってきたばかりの手は、ひんやりと冷え切っている。それを僅かな隙間から滑り込ませ、彼の身体に触れた。
ひっと引きつった悲鳴のような声が漏れる。ここにきてようやく、身を捩り逃げようという素振りを見せた。


「やめてください、こんな、ちょっと」


こういう行為をしたことがないわけではなかった。しかし、合意の上ではない行為は初めて。
強張った彼の筋肉、大きな背中、しっかりした腿に指を這わせていく。ああ、駄目だ。このままじゃ、きっと、彼が達するのを見届けるまで満足出来そうにない。


「ごめん、飛雄くん、私、酔ってる」


彼の口から時折甘美な声が漏れ始め、ようやく理性が顔を出した。その声ですら、むず痒く私の神経を撫で回すというのに。吐息で途切れながらも、何度も私の名前を呼ぶ。たまらない。
どうしようもない感情が湧き起こるのは、きっと酒に酔ったせい。歯止めが効かないのも、全部そのせい。


「このままじゃ、最後までしちゃいそう。少しでも嫌なら止めて。力尽くでも私を、突き飛ばして」


はだけた服から覗く白い肌が愛しい。めちゃくちゃに出来たなら、朝まで彼に触れていられたら。
そんな淫らで最低な思いが溢れる前に、止められるのは彼しか居ないのだ。だから、懇願するように声を絞った。


「なまえさんが、嫌だってわけじゃないです」

「へっ」


間の抜けた返事をした瞬間、手を掴まれた。汗ばんで熱い手だった。私の冷えた手を、ゆっくりと温めていく。
やはり年下でも彼は男だ。いともあっさりと、私の手から逃れる。


「俺も男なんで、酒の勢いだけでなまえさんに負けるの、悔しいというか……格好悪いですから」

「うん」

「それに、具合悪そうなの心配です。今夜はさっさと寝てください」


くらり、と眩暈がした。酔いが回ったか、彼の言葉にやられたか。とりあえず寝なくちゃ、起きてからシャワー浴びればいいかな。もう、動く力も無い。
ふわふわする意識の遠くで、優しい声がした。


「二人で寝るのは、また今度です」



ふわり、君の声が浮遊
(じわり、私に染み込んでゆくの)