「なまえ」


不意に名前を呼ばれた。
振り向いた時には、もう彼の温もりに抱き締められていた。
ああ、何て温かいんだろう。幸せに満たされていく胸の高鳴りを感じていた。
でも、顔を上げた時、一瞬にして目が覚める。


「…………えっ」


キス、されたのだ。


「じゃあまた明日」


爽やかな微笑みを浮かべて、夜久はひらりと手を振り走り去った。
おい、待て。待ってください。何、今の、キスじゃないか。
何でいつもみたいに別れるの。何でいつもみたいに笑ってるの。何で、何で。

だって、それ、あたしの大事なファーストキスだ。


「これから貴様をプレイボーイ夜久と呼ばせてもらうよ」

「何その安っぽい芸人みたいな名前」


次の日、学校で夜久を睨みつけたものの、全く動じていなかった。
夜久と付き合ってまだ一週間と少し。もちろん、それまでに友人として仲良く接してきたので、付き合いとしては短くない。
ただ、男女交際としての関係はまだ日が浅く、分からないことだらけだったのだ。なのに、この男ときたら。


「あたし、知らなかった。夜久がそういう方面に経験が豊富だったなんて。まるで黒尾じゃないの」

「いやあ、黒尾には及ばないけど」

「お前ら、なんつー失礼な巻き込み方しやがる」

「あれ、居たんだ黒尾」


あははと笑う夜久を黒尾が溜め息であしらう。誤魔化したように見えたけど、結局夜久は否定しなかった。だから、それなりの経験があるってことだ。
何なんだろう、ファーストキスの重みとかそういうの、無いのかな。あたしは、すごく大事にしていたんだけど。

悔しくなると同時に、夜久にはドキドキとかそんなドラマめいた感情は薄れているんじゃないかと不安になる。そういえば、どんな経緯で付き合うことになったんだっけ。
夜久は、もう何度もそんな経験をしているから、恋に対する感覚が麻痺してるんじゃないかって思う。あたしとこうして付き合ってることに対して、目新しいときめきなんてものは持ち合わせてないんじゃないかって。


「どう思う?山本くん」

「あっ、えええ、あのっ、みょうじさん、何で俺に聞くんすか!」

「ええ?ほら、やっぱり山本くんが一番純真無垢な気がしたからさぁ。それに後輩だから、あたしよりうんと夜久のこと見てるでしょ」


相変わらず、あたしとろくに目も合わせず山本くんは慌てふためいている。昼休みに待ち伏せた甲斐があるってものだ。
バレー部員でまともに会話をしたことがあるのは、三年生はもちろんだが、山本くんと一年生二人くらいだ。あとの孤爪くんと福永くんは無口なので、会話らしい会話はしたことがない。
海くんに持ちかけてもよかったけど、彼は茶を濁しそうな気がした。


「でね、どう思う?」

「いや、どうったって、俺も夜久さんとそんな話しねえっすから……」

「んん、そうかあ」

「あ、でも、夜久さん、相当みょうじさんのこと好きだと思いますよ。だから、そんな心配しなくてもいいような気がするんですけど」

「こんにゃろ、嬉しいこと言ってくれるじゃない」


ありがとうね、と言い残して山本くんとお別れする。好きでいてくれるなら、それでいいのかもしれない。価値観が違うことってあるだろうし。
あたしは、初めてだらけだから分からないんだよ。だから、一つ一つを大事にしていたいだけなのに。


「どした?」


とぼとぼと渡り廊下を歩いていると、不意に声を掛けられた。目の前に立っているのは、さっきからずっと脳裏に浮かべていた人。


「あ、夜久。どこ行ってるの?」

「んー部室。昼から出す課題置いてきたから。一緒に行く?」

「うん」


ひょこひょこと後をついて歩いて行く。あえて、さっきの「どうした」って質問には答えなかった。
あたしばかりが好きなのかな。それとも、あたしは恋に恋しちゃってるんだろうか。夢の見過ぎ?ちゃんと夜久のこと、好きなつもりなのに何でこんなに自信が無いんだろう。


「……なまえ」

「へっ」


俯いていた顔を上げると、ふわりと夜久のシャンプーの香りが鼻を掠めた。視界いっぱいに広がるのは、夜久の瞳。
あ、駄目。またやられる、また。


「ま、ままま待って!」


つい、両手で力一杯突き飛ばしてしまった。もちろん、夜久は驚いた顔であたしを見ている。
依然として、あたしの心臓はうるさく騒いだままだ。


「やっ、ややや夜久は、なんっ何でそんな普通にキキキキキス出来るわけ!」

「え?」

「あたし、昨日のあれ、初めてだったんだよ。本当は、初めてのキスはデートとかしてる時にロマンチックな雰囲気の中でするもんだと思ってたのに、なのに夜久が、突然キスなんてするからああああ」


混乱して頭を抱えるあたしを、夜久はしっかりと抱き留めた。ごめん、と何度か繰り返しながら。


「ほんとならもっと雰囲気があって、今からキスするんだろうなって分かった上でキスして、ちゃんと覚えておきたかったのに、昨日のあれじゃ一瞬すぎて夢みたいじゃないか」

「なまえ」

「夜久は、そういうのが普通で、目新しくないのかもしれないけど、あたしはもっと、大事にしたくて」

「なまえってば!」


夜久が少し大きな声であたしを遮った。むぎゅっと両頬を挟まれ、強制的に顔を上へ向けられる。
そこでやっと夜久がどんな顔をしているのか分かった。すごく、真っ赤だった。


「ごめん、その、昨日のは突発的にやってしまったなって思うよ。でも、ちょっと勘違いしてる」

「え?」


するりと手を掴まれ、あたしの手の平は夜久の胸元へと持って行かれる。びっくりして引っ込める暇も無く、その鼓動に触れた。
あたしのうるさい心臓と同じくらい、忙しく動いている。夜久も、ドキドキしてる?


「慣れてるとか何とか言うけど、全然そんなことないから。なまえに触れるたびに、いちいちこんなになってるんだよ。ほんと勘弁して」

「え、あ、夜久も……あたしと同じなの?」


こくこくと頷く。何だ、そうなのか。
あたしと同じくらいドキドキして、緊張して、そわそわして、名前を呼ぶたび呼ばれるたびに、こんなにも満たされた気分になるのか。
へへへと笑うと、額を小突かれる。ちょっと余裕のない夜久の表情がこんなにも愛しい。


「その雰囲気とかタイミングとかよく分からないんだけどね、俺は、したいと思ったからしただけ」

「うん、そっか。じゃあ、してほしい時は言う。それよりも先に夜久が先手を打ってきそうだけどね」


あたしも夜久も一緒だ。お互い初めてのことだらけで、お互いをとても愛しく想ってる。
だから、伝えなくちゃいけないことはすぐに言わなきゃ駄目なんだ。


「夜久」

「なに」

「今ここで、キスして」


そうやって改めて言われると照れるんだけど、なんて眉根を寄せながら、夜久はゆっくりとあたしに口づけた。




青春仕立てのキスをどうぞ
(息苦しいのに心地良い)