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 ジリジリと、巨木の皮に押し付けられた手首が擦れて痛むのを自覚しながら、どうしてこうなったのかを考える。冷静になっている場合でもない。だが、現状自分では覆せない現実を前に、他にどうしろと言うのか。思考だけでも現実から逃れようとすることは、間違っていないと…思う。俺は今や呼吸すら自らの意思ではままならないというのに。何もかも俺の想定を凌駕していた。思考も心音も体温も感情すら俺の預かり知らぬところで暴走して飽和する。俺は今、一体どうなってしまっているんだろう? 問えども、答えを出してくれるべき相手など誰も居ないというのに。



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 俺は、お前に好かれているなんて思ったことはない。好かれたいとも。お前が近くにいるということ自体が奇跡のようなものなのだから、別にそれ以上もそれ以下もあるべきではない。考えは至って冷静だった。だから多分こんな風に考えることは間違えている。痛むことも戸惑うのもどこかで解を違えたせいに違いないのだ。数学のノートみたいに消しゴムで消せるのならばよかった。一度誤った感情は取り消せなくて途方に暮れる。何も掴めないことなどわかり切っていて手を伸ばした。引き留められはしないとわかっていて背中を追った。衝動は意識とは無関係に作用する。そんな浅はかな手は何にも届くことはなかったけれど。ひとりになった空白の中で俺はひどく混乱した。こんなふうに制御されない器官が俺の中にあると知ったら、お前はどう思うのだろう? …少しだけ恐ろしく思えて竦む。恐怖の根底にある心理に気付いてなおのこと恐ろしい心地になった。冷たいままの手を握り締める。俺はお前に嫌われたくない。嫌われたくは…ないのだ。好かれてすらいないものが嫌われる道理などあるはずもない。だからこの解はそもそも前提から間違えている。けれど頭の中には、いくら探せど消しゴムなど落ちてはいなかった。間違いは間違えてしまったまま間違え続けていく。心臓が痛い。俺しか居ないのが静かだなんてどうして思うんだろう。俺は、お前に好かれているだなんて思ったことはないのに。



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 高校生活最後の夏季休暇は、ほぼ勉強で埋まっているといっても過言ではない。それでも予備校通いをしている同級生などに較べれば、俺などまだまだ余裕があるのだろうが。ともあれ勉強はさして苦ではないし、むしろ好きなほうだ。まともに友達と呼べる相手もいないので、特別遊び歩く予定もない。時間があるならネットゲームにログインしたいと思っている程度で、そのゲームの中ですら、おそらくはひとりでの行動になるだろう。時たまにオンライン状で行き会う相手がいない事もないのだが、相手はなにせ交友関係の派手な男だ。夏季休暇など端から予定が詰まっていて、そもそもネットゲームになどログインしてこないだろう、と俺は踏んでいる。そういった事情でひとまずは勉強に明け暮れることに決めた俺は、今日は自室で課題と向き合っていた。理系の課題ならば自室に資料やテキストが揃っているから、わざわざ図書館や学校に出向くこともない。そもそも理系コースの俺に課せられているのは殆どが理系の問題集で、文系のものは必須科目の分が少し出されただけだ。つまりこの夏は、補講や特別講座の日を除いて、引き篭もりのように過ごすことになりそうだった。
窓の外では蝉が鳴いている。




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 目を開けると、身一つで荒野に落ちている。またか、と思った。最近はログインするたび、例外なく初期フィールドが荒野だった。無風の荒野は夜に沈んでいて、反響するもののない闇は痛いほどに寒くて静かだ。プレイヤーが常駐しているわけでもたいしたアイテムが落ちているわけでもないこのフィールドは、その環境の過酷さもあり玄人プレイヤーはまず近付かない。ぽつねんと立ち尽くして見渡す視界には、他に動くものはなかった。自己主張の激しい月のようなものが煌々と脳天を照らす。呼吸のたびに外気に水分を搾取されているようだった。乾く唇を無意識に舐める。凍えて乾いてじわじわと枯渇していく…、
 それならそれで、と思っても、この身で居る限り死ぬことはない。この世界でヤンという名前をつけたこの体が仮にボロボロに乾いても、俺は死なない。本来の俺は安全な場所に身を横たえていて、死んだと思ったらログアウトしてしまえばよかった。日が経てばまた再ログインが可能になるし、その時にはヤンはまた何事も無く生きている。ここはそういう世界で、ここで起こることは現実でも何でもない。得るものもなければ失うものもない虚構だった。だから俺はヤンとしている限り俺ではなくて、ヤンは何をしてもよくてヤンであるならばなんだってできる、はずだった。だってヤンは俺ではあるが俺ではないのだから。






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