手綱をひいてあげましょう どこかの家で、薔薇を育てているらしい。道に立ち込める薔薇の匂い。 吐き気がする。 これは、彼女の匂いだ。 おぞましい程に彼女が近くにいるように錯覚する、そんな匂いだ。 足早に路地をぬける。 薔薇の匂いは簡単に薄れ、少しすればもう廃棄ガスに汚染されたいつもの空気があった。 けれど、あの匂いから逃げられた気がしない。 体中に彼女の匂いがまとわりついて、どこまで行っても逃げられないような、そんな気がする。 薄汚れている程度で丁度いいのに。むしろいっそ、近づいた薔薇を萎れさせて根本から枯らすくらい、汚れてしまった方がいいのかも知れなかった。 「安藤くん! あは、一緒に帰ってあげるって言ったのに。さっさと帰ったって家に居場所なんて無い癖に。私がずっとずっとずっと一緒にいてあげるのに。あは、うふふ、寂しい人」 「……知らないよ」 ああ。やっと逃げたと思ったのに。 どうしても、薔薇から逃げられない。 彼女が一歩近づいて、手を伸ばす。 ふわりと香る、かすかな薔薇の匂い。 彼女の手は、皆が綺麗だと褒めるその手は、薔薇が絡みついた、毒々しいだけの茨の手だ。 茨はそのまままっすぐ、僕の首筋に絡みつく。彼女にしては珍しく唇に軽いキスを落とすだけで離れていく。それがなおさら気持ちが悪い。 僕はいつものように制服の袖で拭った。 「うふふ、えへ、安藤くんたら照れ屋なんだから」 「そう」 彼女はどろどろに煮詰まった目でうっとりと笑う。僕にしか見せない、気味の悪い笑顔だ。 目を伏せると、彼女の手がするするとつたうように離れた。 また薔薇が離れて行ったはずなのに、先程よりも色濃く薔薇がまとわりついている気がする。 首に触れても何もないはずだけど、僕を蝕んでいく茨の首輪が首を締め付けているような。 確かに、そんな気がした。 ╋╋╋ (茨の手) 2015.10.09 back |