Always A Victim
「なまえー、お願いだからさあ。」
「……。」


間延びした声ではあるが一生懸命に頼み込むキッドに彼の婚約者であるなまえは黙り込んでいた。因みに彼のこの"お願い"と彼女の沈黙のやりとりはかれこれもう1時間も続いている。

紫苑が私に"お願い"なんてしてくるのは初めてかもしれない。
愛する紫苑のためなら、自分に出来ることであれば叶えてあげたい。
だけど……その"お願い"ばかりはそうもいかないの。


「頼むよ、もう君しかいないんだ。」

ぎゅっとキッドの手がなまえの手を握る。その台詞をもっと違うシチュエーションで聞けたならどんなに良かっただろう。こんな時ばかりそういう言葉を使ってないで、普段一緒に過ごしている甘い時間にそういうこと言いなさいよ。ため息をついてなまえは呆れている。彼女は依然黙ったままだ。

「峨王くんのあのプレー見たら、みんなすぐマネージャー辞めちゃってさ…。今もマネージャー募集してるんだけど見つからないしさぁ、」

しかし、キッドはなおも困ったように眉をハの字に下げて頼み込む。峨王のプレイスタイルは白秋時代とあまり変わらない。さすがに意図的に投手の骨を折ることを狙うなんてところまではしていないがなにせあの怪力だ、怪我人は出る。その凄惨な試合を見てマネージャーが次々と辞めていき、ついに誰もいなくなってしまったのだ。そして新しいマネージャーが見つかっても、試合を見るなりすぐに辞めてしまうので困ったものである。

「貴方の望みは叶えてあげたいけど、"また"武蔵工バベルズのマネージャーやるのは嫌よ。」

ようやく沈黙を破った彼女が"また"という表現をしたのは、既に1度経験しているからという含みを持たせる為であった。実は彼と一緒に働き始めた頃、武蔵くんに頼まれて少しの間バベルズのマネージャーをやっていたのだ。因みにこの時は2人とも仕事がまだそこまで多忙ではなくチームに入ったばかりのことだ。だから黒木、戸叶、小結、峨王たちはまだいなかった。

「俺だってできれば避けたかったけど…今回は武蔵氏のお願いでもあるんだよ。」

独占欲の強いキッドも彼女が他の男の目に触れる機会はなるべく減らしたいようだが、チームリーダーからの依頼であるということとの間で葛藤があるようだ。


「……紫苑、高校2年の時の秋大会を覚えてる?」
「覚えてるよ。」

高校2年生の関東大会で白秋と戦って彼に負けたことを彼女は言っているのだ。
峨王と対峙して骨折した張本人なのだから忘れるはずがない。

「貴方が峨王くんに潰された時に、私は心臓が止まりそうだった。もし貴方がもうアメフトをできない身体になったら…とか、貴方がもう2度と夢を見なくなったらどうしようとか考えると、とても辛かった。」

彼女の瞳から一筋の涙が頬を伝った。アメフトはそういうスポーツだと頭では分かっていても辛かった。それに私と同じような思いをする人をもうこれ以上自分の見ている前で出したくない。

「……。」

涙を流すなまえにキッドはただ黙って彼女を優しく抱きしめた。彼の心は未だに葛藤で揺れているのだ。俺が峨王に倒されて骨折した時、リハビリで辛かった時、傍にいてくれたのは彼女だ。俺もあの時は辛かったし、彼女も辛かったはず。だから彼女の気持ちは分かっているつもりだ。断ろうか…と声をかけようとした時、自分よりも先に彼女が口を開く。


「…でも、紫苑がどうしてもって言うなら、次のマネージャーが見つかるまでは私がマネージャーしてもいい。」
「え、いいの?」

ぐす、と泣くのを止めようとしているなまえ。どうやら愛しい婚約者の説得に根負けしたらしい。彼女の言葉に驚いてキッドは自分の胸に顔を埋めている彼女を見つめた。

「次のマネージャーが見つかるまでの繋ぎの間だけだからね。」
「ん、分かった。…なまえ、ありがとう。」

承諾してくれた愛しい彼女に俺は頬ずりをして、約束すると言ってキスをする。





「…という訳で、次のマネージャーが見つかるまでの間だけだからね、武蔵くん。」
「ああ、分かった。悪いな、無理言って…。」

武蔵工バベルズのマネージャー就任の旨を電話で伝え、仕事終わりに手続きのためになまえと一緒に武蔵工務店に寄ったのだ。ソファに座って2人は穏やかな表情で話している。

ただそれだけのことなのにキッドは面白くないと感じた。それは多分…約1年前に聞いた噂のせいだとは分かっていた。ただの噂だし1年も前のことだから気にする必要はないかもしれないけれど、武蔵氏がなまえを好きかもしれないということを聞いて以来、少し心配だ。

「いいのよ。」
「ただし、ちゃんと次のマネージャー探していることが前提だよ武蔵氏。」

穏やかな表情で微笑むなまえに対し、嫉妬でキッドが若干黒いオーラを出しながら言った。

「あ、ああ…。分かってる。」

武蔵は自分の心が見透かされたのではないかと一瞬、少しだけ怯む。やはりキッドは簡単ではない相手だ。噂の通り、彼は密かになまえに好意を抱いていた。キッドの婚約者だと分かっているにも関わらず彼は恋に落ちたのだ。それは彼だけでなくて1つ上の鬼兵もそうだった。


「…来週に練習あるから、その時に挨拶ってことでいいかい?」

普段はこんなことしないのだが、牽制するためになまえの腰に手を回して自分の方に引き寄せながら何食わぬ顔でキッドは武蔵に訊ねる。

「ああ。宜しく頼む。」
「ええ、こちらこそ。」

武蔵はなまえに対して優しく微笑み、彼女もまた笑った。

「さ、なまえ早く帰るよ。晩ご飯の準備しないと。」

彼女らのその様子を面白くない様子で見ていたキッドは用事が終わるや否や彼女を連れ帰る。警戒するに越したことはない。





そして新しくメンバーが入った新生・武蔵工バベルズの練習にて、マネージャーとしてなまえはメンバーと顔合わせをすることとなった。明るい表情で皆に向かって挨拶をするなまえ。そして挨拶が終わり次第、親しげに鬼兵と会話をする。

「よう、久しぶりだなみょうじ。」
「あ、こんにちは。お久しぶりです、鬼兵さん。」
「臨時で入ったって聞いたんだが。」
「そうなんですよ〜。今回も正式マネージャー見つかるまでの繋ぎで来ました。」
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