今はじめて単語を喋りました。
報告は極めて簡潔だった。男だからか喃語を喋るのも遅くて、焦らなくていいことなんて分かっていたものの地味に気に掛けていた悩みがようやく解消したというのに文面はひどくさっぱりしている。めずらしく顔文字もデコメもないのだ。まさか怒ってんのか、俺はなにしたっけな…心あたりなら超ある。
そして肝心の言葉がなんなのか分からない。これはあれか、心理戦か。気になるなら電話かけてこい的なあれか。受けて立とうじゃねえか掛けてやる。ただの電話一本でどうしてこんな屈折してしまうのかは自分では分からない。「わり、嫁さんとお電話」おちゃらけてクールダウンするチームメイトから離れた。妬め妬め。
「…もしもし」
「ん、よう」
電話をとった声は妙に沈んでいる。うちの子が一体なにを覚えてしまったというのだ。やたらと衣擦れの音が聞こえる、問題の息子を抱えているようだった。
「喋ったんだ?」
「喋りましたの」
「何だった」
「……」
ここに来て黙秘である。電話で黙られてしまってはどうにも先に進みようがない。聴覚でしか繋がっていない環境での沈黙はどうも居心地が悪かった。やることもなくて上げていた前髪のピンを外したあたりで、向こう側のなまえが「感涙しやがれ」なんて短く言う。何だよそれ。もそもそ小さな雑音のあとにまた静かな時間が流れて、さっきよりすこし遠くになまえの声がした。
「……ちびか?」
「……」
「ちび、パパだよ」
遠くからなまえの補足。どうやら携帯を耳にあてられているのは話題の息子のようである。あ、初電話。だが喋ってくれないのでそんなに感激できない。
「声だけじゃまだ分かんねえかな」話し掛けた瞬間にぶちゅっとくしゃみをかまされた。父親の威厳なんて年齢でもないけど地味に悲しい。ちなみにくしゃみした後のきょとん顔は母親によく似て間抜け面である。
鼻水を拭くティッシュの乾いた音だけが届いた。たまになまえのやさしい声。俺に話し掛ける時とはちがった穏やかな声は耳に優しくて、電話した目的が揺らぐ。「声が聞きたくて」なんて女々しい理由でコールなんてそんなの俺はしない。そんなことするくらいなら帰る。捕獲する。一狩りいこうぜ。いやあいつの声が聞きたくなるのかどうかとかそんなのはどうでもいいんだよ。
「ぅお?」
「(日本語でおk…)あ、パパですけど。ちびくんですか」
「んぱぱ」
お?
「ちびちゃん、パパだよ」
「ぱー!」
あら…。
なぜかどんどんテンションアップしていく息子が遠ざかって、また耳元で嫁の無念極まりなさそうな声がした。なんだそんなことか。単にママを先に言ってくれなかったことが悔しかっただけのようだ。まあ定番である。まんまより良かったと思うんだけどな。よくあることだけど飯に負ける両親はさすがに悲しい。つか俺に八つ当りされても。
「という訳で初おしゃべりはパパでした」ぶすくれた報告。実際俺がママを呼ぶよりもママが俺を呼ぶ方が多いので当たり前と言えば当たり前だった。んぱぱ。…いまいち言えてはいなかったが確かにパパだ。俺だ。正直にやける。仕事の間一緒にいれない分を補ってくれたかのようだった。キャラがキャラだからこんなこと言わねえけど。ゆるむ口元に手を当てて隠す。
「ご感想は、パパさん」
「感涙」
「でしょ?超かわいいでしょちくしょー…」
はいはい。嬉しいのと悔しいので複雑なのは分かったからとりあえず機嫌を直してほしい。適当に慰め適当に帰りの予定を伝えてから、適当に愛してるーなんて囁いて電話を切った。後ろで盗み聞きしていたらしいチームメイトたちがこっちをガン見している。祝え祝え。…笑うんじゃねえ。
柄にもなく早く家に帰りたくなった。もうすっかり慣れた感情だ。あいつと住むようになってからはずっとこの調子で我ながら気持ち悪いが、旦那としてはなかなか優秀なんじゃないかね。練習中は外していた指輪を鞄から出す。もう半日会ってない嫁の拗ねた顔が浮かんだ。ぶっさいくである。
いつかちびがママ大好きーなんて達者な口で言うようになってしまった時、俺は脳内のなまえと同じ顔をするんだろうか。彼女のご機嫌ななめとはまた違った方向の嫉妬が薬指を占領しているのを、俺はしばらく眺めていた。妬めなんて誰が言ったんだよ。