※原作コミック4巻、5巻のネタバレ有。
あの人の瞳はいつもかなしげだ。あの瞳は何を想い、何を見つめているのだろう。わたしにはわからない。だからこうして支えることしか出来ない。彼が、崩れてしまわないように。こわれてしまわないように。
はじまりは、いつだっただろう。ふとした瞬間に見せるいつもとは違った瞳に気が付いたことがあった。それからだ。あの人のことが気がかりでしょうがなくなってしまったのは。だけど部下のひとりであるわたしに出来ることは限られていて。アドルフさんがあの目を見せたときには近くへ行って笑いかけ、なるべく明るい話題の話をしたり、班で行う作戦会議のときや食堂でみんなでご飯を食べるときにはあたたかいお茶を淹れて出したり、とても些細なことばかりだった。これがアドルフさんにとっての助けになっているのかはわからなかったけれど、わたしはわたしなりの形でアドルフさんを支えていこうと決めたのだ。
そんなとき。
わたしは彼のあのかなしげな瞳の理由を知ってしまった――…。
意図的にではない。これは不可抗力と言ってもいいのではないだろうか。偶然、たまたま、そういった類のものだと思う。
"アドルフさんは奥さんとうまくいっていない"
どこの誰だかは分からない。耳に入って来たのは名前も知らない人の声。それが本当かどうかも分からないはずなのに、わたしはどこかでそれが本当だと確信してしまったのだ。どうしてそんな噂を平気で流すことが出来るのだろう。怒りも湧き上がったが、それよりも彼の痛みを思うと"もっと自分に出来ることは何かないのか"という衝動に駆られた。
痛みを分かってあげることまでは出来ないかもしれない。それでも彼の心の中の片隅にでも、寄り添い、癒すことが出来ればと。
「あ、あの、アドルフさん」
どきどきと心臓が破裂しそうなほどに高鳴る。その噂を耳にしてからはじめて声を掛けたとき。ものすごく緊張したことを覚えている。何かしたい、何か気の利いた言葉を掛けたい。だけどいざ本人を目の前にすると何を言えばいいのか分からない。
どうしよう…
じわりと汗がにじむ。
「なんだ。用がないなら声を掛けるな」
アドルフさんは冷たい声で言うと、わたしに背を向けて行ってしまった。結局最初は失敗に終わってしまい、わたしはひどく落ち込んだ。
あれから1週間が過ぎたころ。たまたまアドルフさんとふたりきりで食事をとったことがあった。何をどうすればいいのか。まだ答えは出ていなかった。だけど、今のわたしに出来ること。それは―――…
「アドルフさん」
彼が顔を上げる。
「お茶、淹れますね」
いつもと同じようにすること、だった。
「お前はなぜいつも笑っているんだ」
そんな問い掛けを投げかけられたのはあれからだいぶ経ったあとだった。相変わらずわたしは以前と同じように笑顔を向け、明るい話をして、お茶を淹れていた。夜8時を過ぎたころ。黒い塊の標本の前で偶然アドルフさんと会ったときだった。
「えっ…」
彼がまたかなしそうな瞳をして黒い虫を見上げてていて、しかも急な問い掛けにわたしは何も言えなくなる。すると彼は静かに口を開いた。
「俺はこいつと戦うために今まで生きてきた」
それは衝撃の告白。
「父親と母親は手術に失敗して死に、行き場を失った俺はここに実験体として買われた」
体に緊張が走り、ごくんと、つばを飲み込む。
「それからは地獄だった。いつ訪れるかも分からない成功のために体を弄ばれ実験に明け暮れる日々。逃れることはほぼ不可能と言ってもいい。いつになったら死ねるのか。あの頃の俺はそればかり考えていた」
そ、そんな……
それは、あまりにもかなしすぎる。彼が辿ってきた運命。
「だが、あるとき俺を救った一人の女がいた」
あっ……
ここでわたしは察した。きっとその人が今の奥さんなんだろうと。
「あいつに会ってから俺の毎日は変わった。色を失っていた毎日は何処かへ消え失せた」
ああ……なんて……
思わず声が漏れそうになる。なんて、かなしい瞳なのだろうと。彼は今、愛しい人の話をしているはずなのに。幸せなはずなのに。それなのになぜこんなにも瞳は重く沈んでいるのだろう。答えはひとつしかなかった。
「だがそんな日々を俺は失ったんだ。ついこの間だ」
そうか…やっぱり……あの噂は、本当だったんだ。
「……おい、上司にこんな話をされて引かないのか」
「えっ…」
意外な言葉に思わず隣の彼を見た。重く暗い瞳と目が合う。心臓が音を立てた。
「い、いえ……その…」
いきなり彼に予想外のことを尋ねられて口ごもるわたし。だけどなぜだろう。このときのわたしにはアドルフさんの目が何かを訴えているように見えた。おそらく、"助けて"と。
「大丈夫ですよ」
わたしは、ほほ笑んだ。うまく笑えているかは分からなかった。でも、精一杯笑った。
「引いてなんかいませんから」
わたしはどんなことがあっても
「好きなだけ話して下さい」
あなたのそばで支えます。
「わたしでよければ、いつでも聞きますから」
だって、
「……そうか」
「はい」
あなたのことが好きだから。
その瞬間、少しだけアドルフさんの瞳の色がやわらかくなった気がした。わたしは再び黒い塊に目を向けた彼の隣で、一緒にそれを見続けていた。
そういったことがあり、今に至るわけである。わたしとアドルフさんはときどきふたりきりで会い、なんでもない話をして別れるということを繰り返していた。どうやらこれが彼の心の癒しとなっているようで、わたしは少しでも役に立てていることが嬉しかった。ただ、相変わらず返って来る言葉は厳しいけれど。それもアドルフさんだから、と受け入れている。
「よく飽きもせずにぺらぺらとしゃべるな」
「飽きませんよ。わたし、しゃべるのが好きなんです」
「そうか」
わたしはアドルフさんに笑いかけた。今日はイザベラとエヴァの話をした。ふたりは本当にいいコンビで控えめなエヴァをイザベラがよくからかって遊んでいる。おかげで第五班はいつも楽しい話題が尽きなかった。ふたりがいるから班全体の雰囲気が和気あいあいとしてるといってもいい。
「……お前は本当によく笑うな」
アドルフさんは言った。
「そうですか?」
「見てると鬱陶しくなる」
「あはは、ごめんなさい」
厳しい言葉もいつも通り。
そう、今日もいつも通り。
の、はずだった。
「……」
アドルフさんはいきなり黙ってしまった。そしてなんだかしゃべってはいけないような、そんな空気が流れ、わたしも思わず口を噤む。
どうしたんだろう……
黙ったまま膝の上で手のひらを握りしめていると、しばらく経ってアドルフさんが口を開いた。
「お前は、こんな俺にもやさしくしてくれるんだな…」
「えっ…」
彼の思わぬ言葉におどろきで自然と声が漏れた。どうして急にこんなことを?疑問に思い隣を見る。すると今まで見たこともない目の色をしたアドルフさんがわたしを見つめていて体がかたまった。切なげと言った方がいいのだろうか、だけど少しほほ笑んでいるようにも見える。
「…そんなこと言わないで下さい。自分のことをこんな、なんて…」
わたしがぽつり、つぶやく。すると、手のひらにひんやりとした感覚を覚え顔を上げた。その瞬間何かがわたしの前に覆いかぶさってきて、唇にやわらかな温度を感じる。おどろく間もなく体は引き寄せられ、大きな何かに包まれた。彼がわたしにキスをして、わたしを抱きしめている。それに気づくまでに少し時間が掛かった。
「あ、あの…アドルフさ…」
「俺はどうすればいいんだ…」
「な、何が…ですか」
耳元で聞こえる声は、震えていて苦しげだった。
「お前を愛してしまった」
彼の言葉に衝撃を受けた。心臓がぎゅっと握りしめられたように苦しくなる。そしてばくばくとうるさく音を立てはじめた。
「ア、アドルフさん、何を…」
「俺はあいつよりもお前といる方がいいと感じたんだ」
「そ、そんな…」
「この先もお前にはずっとそばにいて欲しいと思った」
アドルフさんはさらにぎゅっとわたしを抱きしめる。わたしは戸惑うばかりで、頭の中が真っ白で何て言葉を返せばいいのかも分からない。
「なまえ」
低い声で名前を呼ばれればもう何も言い返すことは出来ない。
「なまえ…」
アドルフさんがもう一度わたしを呼ぶ。そして体を離し、見つめ合えばゆっくりと距離が縮まる。目を瞑れば、再び感じる彼の体温。触れあった唇はすべてのかなしみを癒すように、あわくてやさしくて、愛にあふれていた。