はじめてあの黒いものを目にしたとき。あれはもう死んでいると分かっていても、ただの標本だと分かっていても、体の震えがとまらなかった。わたしたちはあと1ヶ月ほどで火星へ行き、これと戦わなければならない。わたしは、生き残れるだろうか。無事に地球へ帰ってこられるだろうか。考えても考えても先は真っ暗だった。
あと、1ヶ月。あの日からわたしは自分の"命の時間"を数えるようになった。日を追うごとに、指折り数える。わたしがあとどれくらい生き残ることが出来るのか。運命のその日まで――…。


夜中の食堂はもちろん誰もいない。ひとりになりたかったわたしには丁度いい空間だった。

「ふぅ……」

普段みんなの前では見せないわたし。先のことを考えて重く暗く沈んでしまったわたしがここにはいた。正直、いつもは無理をしている。不安なのはきっとみんな同じだから、わたしだけが顏や態度に出してみんなに心配をかけるわけにはいかない。夜遅くに毎晩ここへ来ているのはそんな自分を解放するためなのだ。

あと、1ヶ月……。

天井を見上げて大きく息を吐く。あと1ヶ月後には地球を出て火星へ到着しているはずである。わたしが生きていられるのもおそらくそれとほとんど変わらないのだろう。火星へ行けばきっとあんなのがうじゃうじゃいて、わたしなんかはあっという間に囲まれて、それから………殴られて、潰されて、きっと跡形もなくなってしまうのだろう。わたしはもともといて、いなかったような存在。戸籍などこの世のどこにも存在していない。わたしはどこの国の人間でもなければ、誰の子供でもない。誰にも認知してもらえず、誰にも人として扱ってもらえず、毎日奴隷のように働かされ続けた人生を送ってきた。ここへ来ればなんとかなると思ったが、希望を持つことが出来たのは束の間。現実は、厳しかった。
もう逃げられない。
手術も受けて、訓練も受けて、あとは出発の日を待つのみとなってしまった。

「あと、少し…」
「何をしている」

わたしが声を発したのとほとんど同時に、誰かの声がする。驚いて振り返るとそこにはアドルフさんがいて、思わずあれ……なんで…と口から言葉がこぼれた。

「消灯の時間はとっくに過ぎてるだろ」
「す、すみません…」

アドルフさんが少し不機嫌な様子だったので、わたしはすぐに寝ようと席を立つ。
すると

「寝れないのか」

意外にも彼の方から声を掛けてきたのだ。

「えっ……あっ……はい……」
「………そうか」

アドルフさんはそう言うとどうしたらいいのか分からないのか、その場にただ立っていた。

「アドルフさんも、眠れないんですか…?」

おそるおそる尋ねてみる。

「ああ、まあ……」

曖昧な返事が返ってきた。

「…そう、ですか……」
「…ああ…」
「……」
「……」

わたしは会話を繋ぐ言葉が見つけられず、すぐに黙ってしまう。するとアドルフさんは、わたしの座っている席の隣に腰を下ろした。

えっ、うそ…

どきっと胸が大きく脈打つ。

な、なんで…

アドルフさんはいつも人を避けているような人と関わることが苦手な、わたしの目にはそんな風に見えていた。だから心底驚いたのだ。

"なんで隣に"と。

ちらりと視線を流して彼の姿を確かめようとするが、消灯時間を過ぎてしまった食堂は薄暗い。その所為でアドルフさんが今どんな顔をしているのか、わたしには分からなかった。彼が何を考えているのか、こんな真夜中にいきなり二人きりになってどんな話題を投げかければいいのかも分からず、なんだか気まずい空気のまま結局言葉を発することができずにしばらく時間は過ぎていった。そして、どれだけ時間が経っただろう。

「…怖いのか」

アドルフさんがそっとつぶやくように尋ねてきた。

「えっ……」
「正直に言っていい。怖い、か…?火星に行くことが」

何か壊れ物にそっと触れるような尋ね方をされ、一瞬戸惑う。ここは正直に言っていいのか。本当のことを言って機嫌を損ねたり、怒らせたりしてしまわないだろうか。彼はわたしの上官だ。目的を果たすことへのやる気の感じられない部下はいらないだろう。もしかしたらわたしの戦いへの意欲を確かめようとしているのかもしれない。気分が沈んでいる所為か、悪いことばかりが頭に浮かんで消えて行く。

うーん……
わたしが悩んだまま返事を返せずにいると、

「あいつらも同じだ」

アドルフさんが静かに言った。

「えっ…」

わたしが驚いて彼の方を見ると、薄暗い中に浮かぶ白い横顔が胸を貫く。綺麗で、儚げで、少し憂いを帯びたような、見ていると切なくなるような横顔だった。

「お前は、ひとりじゃない」

やさしくて小さな声がぽつり、暗闇の中に落ちて胸にすっと沁み込んでくる。

「怯えているのは、みんな同じだ。普段は馬鹿をやっているあいつらだって………それに、俺も…」
「アドルフ、さん……」

このとき、どうしてアドルフさんが心の内にある本当の気持ちを話してくれたのか。
真意はわたしにはわからなかった。だけど、都合のいい解釈かもしれないけれど、あれはわたしのためにつぶやいてくれた言葉ではなかったのではないかと思っている。


「そばに、いる」
「えっ……」

アドルフさんが、そっと手を伸ばしてきて、わたしの指先に触れる。どきんと胸が胸が高鳴ってぽっと体が火照る。彼の手はひんやりとつめたかった。

「俺は、そばにいる。だから……」

とぎれとぎれに言葉を紡ぐ彼は相変わらず不器用で。それでも悲しみに浸ったわたしをなんとか慰めようとしてくれていることがわかって、胸の中がほっとあたたかくなった。

「ありがとう、ございます…」

わたしがぽつりとちいさくつぶやく。するとアドルフさんは返事を返すことなく、わたしの手をそっと握ってくれた。この先どうなるかなんて今のわたしたちにはわからない。ただ、この瞬間だけは。まだここに生きていることができるうちは、どうかそばに。なんて、願ってしまう自分がいた。

「アドルフさん」
「なんだ」
「…いえ、やっぱり…なんでもないです」

ごめんなさい、神様。
今だけ。
今だけはこの胸の高鳴りと、微熱を。
心に沁み込むあわい感情に浸ることを許してください。
願うことを、許してください。

どうか、どうか
わたしのそばにいてください。
この命が消える、その日まで。
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