鼻をくすぐる香ばしいかおりと、トントンと規則正しい音。寝ぼけまなこを擦りながら薄っすらと目を開けると、そこには後ろから見ただけでも分かるほどご機嫌な彼の背中があった。包丁を手に軽やかなリズムで野菜を刻み、微かに鼻歌をうたう。
この部屋には窓はないけれど、胸のあたりが朝日を浴びたようにぽかぽかと温かかった。
なんて最高な朝なんだろう。わたしは縢くんの背中越しに彼の楽しげな顔を想像しながら、もう一度毛布をかぶってソファの上で眠りについた。
遠くなる意識の中、ジューッといういかにもおいしそうな音が耳の中に少しだけ残っていた。
「おい、なまえちゃんってば、起きろって」
「ん?…うーん……」
体を揺すられて目を覚ますと、縢くんが不機嫌そうな眼差しでこちらを見下ろしていて。わたしはびっくりして飛び起きた。
「おっ、おはよう…っ」
「あーあ…あのさぁ、なまえちゃん……」
「えっ…、な、なに……?」
わたしは朝起きていきなり縢くんの不機嫌な顔に遭遇したわけで。何が起こったのか、どうして彼が不機嫌なのか何にもこれっぽっちも分からないわけで。だけど、それでも彼はわたしに対して怒っているようで。まったく状況が理解出来ていないわたしはひたすらびくびくとおびえながら首を傾げて彼を見つめることしか出来ずにいた。
「…これ。見てよもう」
そう言って縢くんが差し出してきたのはなんともおいしそうなオムレツとベーコンとレタスが乗ったお皿。そこからはふわりとバターのかおりが漂ってきて食欲を刺激する。思わず口の端からよだれがたれてしまいそうになったほどだ。
「お、おいしそう…」
「そうじゃなくて」
「えっ、違うの?」
どうやら違ったらしい。
一体彼はどうしたというのだろう…。
「せっかく俺が朝ごはん作ってあげたのに、しかも今日のはなまえちゃんのために最っ高に愛情たっぷり込めて作ってあげたのに、なまえちゃんってば起こしても起こしても起きないし。おかげで俺の愛情たっぷり朝ごはんがすっかり冷めちゃったじゃんか〜」
「……あっ、ご、ごめん…」
「ごめんじゃないよ、もう」
縢くんは相当自信作を作ってくれたようで、それをすっかり冷ましてしまったわたしの罪は重いらしい。彼はいきなりこんなことを言い始めた。
「たまにはさぁ、なまえちゃんが俺にご飯作ってよ」
「へ?」
彼は何を言っているのだろう…
「あ、あの……縢、くん……?」
「いやー知ってるよ?なまえちゃん料理すっごい下手だって」
「うっ…」
ぐ、ぐさっとくるなぁ…
「でもさ、俺だってたまにはかわいい彼女からご飯を作ってもらいたいわけよ」
「は、はぁ……」
「だから、頑張って」
「が、頑張ってって言われても……本当にわたし料理出来ないんだよ?才能のかけらもないんだよ?何が出来上がるかわからないよ?いいの?」
「うーん…それは確かによくない」
「でしょ?」
「しょうがないなぁ」
お?お?これはもしや…
「この俺が料理の苦手ななまえちゃんにおいしいオムレツの作り方を教えてあげよう」
そして縢くんのお料理教室がはじまった。
「はい、まずは卵を割って」
「はーい」
がしゃ
始まって早々早速嫌な音がした。
「えっ…」
「……なまえちゃん、うそでしょ」
「ご、ごめんなさい…」
「あー、貸してほら」
縢くんはなんだかんだ言って世話焼きなところもあるから、面倒くさがったとしても教えるときはきちんと教えてくれたりする。わたしは彼のそういうところが好きだったりする。
「こうやって平らなところでコンコンッてしてからひびの入ったところに指を入れてあとはふたつに割るだけ」
「おお〜」
縢くんが卵を割るとそれはもう見事で、中から出てきた卵すらきれいに見えてしまうのはわたしの都合のいい錯覚なのだろうか。
「はい、じゃあ今度は材料を入れて卵を混ぜていきまーす」
「何を入れるの?」
「牛乳、塩、こしょう、あとはお好みで砂糖とか入れてもいいけど…まあなまえちゃんは甘いの好きだからいっぱい入れてもいっか」
そう言って縢くんは豪快にどばっと卵の中に砂糖を投入した。
「あー!やりすぎやりすぎ!いくらなんでもそれは絶対にやりすぎだって!」
「いいからいいから〜」
縢くんはご機嫌な様子でそのほかの牛乳や塩、こしょうを入れて菜箸を使ってぐるぐると卵をかき混ぜ始める。
「よくないってばもう〜〜!」
「ははっ、そんなにむくれなくってもいいだろ?これもなまえちゃんのためだから」
「あとで仕返ししてやる…」
「はいはい。じゃ、次は焼くよ〜」
フライパンを取り出した縢くんはそれを火にかけ、バターを熱したフライパンの上で溶かした。するととてもいいかおりがしてきて、もう一度口の端からよだれがこぼれそうになってしまう。
「あっ、ちょっとよだれこぼさないでよ!」
「えっ!なんでわかったの!?」
「やっぱりなぁ〜俺ってばわかっちゃうんだな〜」
「なんかむかつく…」
「ひどっ」
なんてじゃれ合っているうちにバターはすべてとけてしまい、いよいよオムレツを焼く工程までやって来た。
「そういえばさ、ほとんど俺がやってるんだけど、なまえちゃん焼くところくらいやってみたら?」
「ええ!?そこをわたしがやるの!?」
「だって今までほっとんど俺やっちゃったし?このまま全部やっちゃったら意味ないじゃん」
「そ、そうだけど……」
わたしが下を向いて口ごもると、縢くんはぽんっと肩に手を乗せてこう言った。
「大丈夫だって。これ、昔の外国の料理でたしか……セーヨー料理?だっけか?それの基本中の基本で一番難しい料理って言われてたんだって」
「………えっ、なに。プレッシャーかけるのそんなに面白い?」
「違うって!これさえ出来れば何でも作れるっしょってこと!いつでも俺のとこお嫁に来れるよ?」
「なっ、何言って!」
「まあまあ、ほらやってみるのも勉強」
縢くんはそう言うとわたしに卵の入ったボールを押し付けてきて。
早く焼けよとでも言いたげな目でにやにやとわたしを見て来た。
うっ……
そ、その目はずるい…
わたしは仕方がなく、卵をフライパンに流し込んだ。そっと、そっと、これ以上ないほどに気を使って。そんなにゆっくりやらなくてもと呆れる縢くんにうるさいな、もうと返事を返すとフライ返しを手にオムレツが焼けるのを待つ。
すると…
「ちょっと何やってるの!早く菜箸持ってかき混ぜなきゃ!」
「えっ、ええ?」
「ほらほら!」
縢くんに急かされながら菜箸を持たされ、わたしはフライパンの中の卵をぐるぐるとかき混ぜる。
「こ、これでいいの?」
「いいのいいの!オムレツはスピード勝負だから!ほら、あとはフライ返し持って」
そうすると今度はフライ返しを持たされ、後ろから縢くんが抱き付いてくる形になりフライパンを握るわたしの手とフライ返しを握るわたしの手に彼自身の手を添えてそおっれと勢いよくフライパンの中の卵を半分こに折って、さらにそれをくるりと宙返りさせてひっくり返してみせた。わたしは彼の技術に圧倒されて何も言えずにただただ茫然と目の前のフライパンの上でジュージューと音を立てて焼かれているオムレツを見ていた。
――――――
―――…
「………あ、れ………縢、くん…?」
目を覚ますと、そこに彼の姿はなかった。あるのは主のいなくなったすっからかんの部屋だけで。彼が使っていたキッチンや愛用していた道具たちはすべてそのまま。彼がいたころの通りにきちんと並べてあった。
ああ、そうか………
彼は…
頭でそれを理解したのと同時に、わたしはソファから起き上がってキッチンへと向かった。そして生前彼に教えてもらったオムレツをひとりで作ってみた。
「……いただきます」
せっかくうまく作ることが出来たオムレツは味気なくて。おいしくもまずくもなかった。
「かがり、くん……」
もうすでにここにはいない彼に声を掛ける。
「頑張ってつくったよ、わたし………だから、食べてみてよ……」
もちろん、返事はない。
「結構おいしいと思うんだ……ねぇ……」
いつまで経っても、いつまで待っても彼は帰ってはこない。そうか、さっきまでわたしは夢を見ていたんだと、ここに来てはじめて理解した。
春のやわらかなまどろみのなか、一時の甘やかな夢はまぼろしとして無情にも過ぎゆく時間(とき)に溶けて消えるだけだった。
微睡む心で夢をみた
(叶うならもう一度、あなたに会いたい)