第十夜



【人魚とシリウス】



禁じられた森へ忍び込むことは、仕掛け人、とりわけジェームズとシリウスの2人にとってもはや習慣と言ってもよかった。ハグリッドの目をかいくぐり、昨日は東へ今日は西へ、暇さえあれば示し合わせて2人で出掛けて行くのだ。
森の魅力は色々あった。そもそも、禁じられれば逆らってみたくなる性分の2人にとって森はその名前からして魅力的だった。
1、2度死ぬような目にも合ったが、クィディッチを除いてこれより楽しいことが見つかるまでは2人共卒業まで続ける気でいた。

ある日の夕方も、2人はハグリッドが小屋の中で縫い物片手に暖炉のそばでうたた寝をし始めたことをきちんと確認して、2人は連れだって森へと赴いた。昼間でも薄暗い森は、夕方ともなれば不気味な薄暗さに包まれていて、なにが出てきてもおかしくない雰囲気がある。実際2人はこれまでにも得体の知れない様々なものと遭遇してきたが、このスリルもまた森の魅力の1つであった。

「今向こうを何か横切らなかった?」

「そうか?俺は気付かなかったな。」

常に杖を構えて、たまに方向を確認しながら(どこにいても杖先がホグワーツ城を指すこの魔法はシリウスが考え出した自信作だ)2人は今日も今日とて、今まで来たことのない場所を歩いていた。
森は日々刻々とその姿を変えて、親しむということをさせてくれない。そんな森だからこそ創設者たちはここへホグワーツ魔法魔術学校をつくったのかも知れない。それとも、強い魔力が満ちた城のそばだから、森も自ずとそれに見合うように姿を変えているのかも知れない。それは誰にも分からなかったが。

「こないだのあれはヤバかったな。」

「あぁ、アクロマンチュラ。」

「僕もう本当に死ぬと思ったもん。」

「らしくないな。」

「いやいや、もうダメだと思ったね。本当に。というかいまだに僕には良く分からないんだけど、なんでやつらは僕たちを見逃してくれたんだろうか。」

「さあな。腹いっぱいだったんじゃないか。」

「まさか。あんなに飢えた目をしていて?」

「なんか言ってたよ。だけど良く聞き取れなかった。たぶん英語だったと思うけど。」

「学会へ発表したら大変な騒ぎになるだろうな。まさかイギリスにアクロマンチュラがいるなんて。僕ら一躍大スターになれるかも知れない。」

「そして俺たちがこの森へしょっちゅう忍び込んでいることも露見して、めでたく退学にもなれるってわけだ。」

「冗談だよ。」

「まぁそうだろうな。だいたいあれが本当にそうだと言えるか?イギリスで独自に進化した化蜘蛛かも知れない。」

「うーん…それには生態や身体を詳しく調べなきゃいけないけど…そんなことしたら命がいくつあっても足りないね。」

「だから永遠に謎のままだ。」

「それが良い。下手をすれば我らがホグワーツ創立以来の学校存亡の危機を引き起こすかも知れないもんね。」

「世の中、知らないことの方が多いけどさ、きっとそうやって出来てるんだろうぜ。」

ざわざわと囁く森の木々たちを横目に、2人は他愛もない会話を続けながらどんどん森へ分け入った。

双子と称される2人の間に会話は尽きない。それは女の子の話であったり、授業の話であったり、時に社会の将来の話であったりしたけれど、大抵はしてもしなくてもどうでも良い話だ。
それでも2人はいつも楽しかった。2人でいる時間は、かけがえのないものだ。

「こっちへは来たこと無かったよな。」

「ない。多分だけど。」

どちらがどちらなのか、方角こそ分かるものの、これだって正しいという保証はない。魔力に満ち充ちたこの森の中では、いつどんな形で魔法が魔法に干渉してくるか誰にも分からない。

そのときだった。
シリウスの耳へ、なんとも形容し難い声が届いたのだ。
もの悲しくかすれているのに、甘くとろけるようで、一度も聴いたことのないこの世のものとは思えない声だった。
なのに、シリウスをひどく懐かしい気持ちにさせる。

「ジェー、ム、…ズ?」

シリウスが振り返ると、今の今まで隣に立っていたはずのジェームズの姿はもうどこにもなかった。
声に妖しい魔力の気配を敏感に感じ取って、聴き惚れてしまわないように注意しながら、シリウスは危険だと理解していても声の主を確かめに行かずにはいられなかった。
どうしてジェームズとはぐれてしまったのか、そんなことは早くもどうでも良くなっていた。

声はとても近く、シリウスの耳元で囁いているように聞こえている。なのに、主の姿はどこにも見えない。
右だろうか、左だろうか、方向を探ってみても、まるで耳元で囁かれているようなのでどれも確かではない。
煩わしいほどかすれて言っていることも理解出来ないのに、胸が張り裂けそうなほどの切なさをもたらすのに、ずっと聴いていたい。この声が止んでしまったら、世界の全てが終わってしまう。そんな気がして、シリウスは不安に思わず走り出した。

「誰なんだ?出てきてくれ!」

枝に枯れ葉に色々なものが落ちてひどく走りづらい森の中を、シリウスはひっかき傷が出来るのも構わず滅茶苦茶に走った。

やがて息が切れて再び歩みを緩める頃には、シリウスは自覚も出来ないほどにすっかり声の主の呪いの真ん中にいた。
こんなに走ったのに、声に少しも近づけない。
もしかしたら、実体のない声だけの主なのかもしれない。
中国だかどこかにはそういう、妖精に似た魔法生物がいると聞いたことがある。

諦めきれない気持ちをぶら下げ、疑う気持ちをすっかりかなぐり捨てたシリウスがふと背後を振り返ると、そこには先ほどまで森だったはずの空間に、それは美しい小さな湖が、あった。
ただあった。それが当たり前のような顔をして。
湖と呼ぶには小さすぎるかも知れない。池と呼んだ方がふさわしいような湖だった。
ただ、池にしては見るからに深そうだったし、何より、そう。シリウスは池に入る人魚というものを見たことがなかったのでとっさに湖だと思ってしまったのだ。

突然現れた湖に驚く間もなく、シリウスは湖…と言ってもそんなに大きくはないが、その中央にぽっかりと佇んでいる人魚に見入ってしまった。

美しい人魚だった。
流れるプラチナ色の髪を先だけ水に浸して、こぼれ落ちそうなほど大きな、灰色の瞳。
薄い唇からは、絶えず理解出来ない言葉を発している。

「あなたは、」

思わず、口をついて出た。

「あなたは、シリウス。」

人魚の名前を聞いたつもりだったシリウスだが、すぐにそんなことはどうでも良くなった。
自分の名前をきっぱりと言い当てられ、しかもそれは、シリウスが理解出来る言葉だった。
理解出来る言葉をこの声で発せられると、本当にまるで夢のような心地がした。
すぅっと何の抵抗もなく脳に染み入って、すんなりと馴染む。恐ろしいほど、鮮やかに。

「あなた、美しい。」

人魚は微笑みを浮かべてパシャンと尾鰭を翻すと、少しシリウスに近づいた。

湖岸で、馬鹿みたいに口を開けたまま一連の動作に見入っていたシリウスは、かろうじて「ここに住んでるの?」と尋ねることが出来た。

「ええ。仲間とは離されている。私は、よくない。」

人魚はくすくす美しい笑い声を漏らしながら濡れた髪を振って見せた。

神秘的というよりも肉感的なその姿に、シリウスは不用意にも欲でくらりとするのを感じた。

そんなシリウスを面白そうに眺めながら、人魚は上機嫌で続ける。

「人魚の肉を食べると、人はどうなるか。」

普段のシリウスならば伝説から現代魔法学まで、教科書の文言を一字一句間違えずに諳んじて見せることくらい簡単に出来た。
しかし、今のシリウスは言葉の意味も理解出来ないままにぼんやりと動く人魚の唇を見つめることしか出来なかった。

人魚は答えないシリウスを気にも留めない様子で続ける。

「人は、不老不死になる。では人魚の肉を食べた人魚は?」

「…いいえ。」

「そうでしょう、そうでしょう。世界の誰も知らないわ。」

人魚はぬるりと滑るように泳いでシリウスに近づいてきた。
美しいのにまがまがしく、触りたいのに近寄って欲しくない。そんな相反する感情の狭間で、シリウスはくらくらと目を眩ませた。

「ねぇシリウス、私はだあれ?」

「…知りません。」

かすれた声で辛うじてそう答えても、人魚はくすくす笑っているだけだった。

「知らないはずないでしょう。」

人魚は繰り返す。

「ねぇ、私はだあれ?」

「あなた、は、」

気付けば、シリウスは腰まで湖の水に浸かっていた。
目の前には人魚。
ぬめる腕に全身を絡め取られ、小指の先も動かすことが出来ない。視線は縫い付けられたように人魚の両の瞳、灰色の瞳に注がれた。
美しい、懐かしい、懐かしい、慕わしい、愛おしい、懐かしい、美しい。

「ほら、ね、私はだあれ?」

なまぬるく、どこまでも優しい。
この水に浸る感覚を、自分は知っている。
何からも完全に守られて、一点の憂いもない。
おだやかで、やすらかで、あたたかい。やさしい。やさしい、やさしい。

「おかあ さん。」



「しっかりしろってば!!」

ぴしゃんと音がして、遅れて頬が燃えるように熱くなり、そしてじんじんと痛みだした。
シリウスがはっと目を開くと、いつになく不安気な、心配そうな顔をしたジェームズの姿があった。

「シリウス!」

「え、おれ…、」

「急に姿が見えなくなったと思ったら、こんなとこでひっくり返ってるんだもん。焦ったよ…。何があった?何かに襲われたのか?」

「いや…。」

「いやってなんだよ。どうした?大丈夫なのか?どこか痛む?」

「いや…いや、大丈夫。問題ない、なにも。」

「とにかく今日はもう戻ろう。」

「そうだな…悪い。」

ジェームズに腕を支えられた状態で、シリウスは立ち上がった。
足に力が入らず、ぐらぐらと不安定になったのには驚いた。
頭がくらくらして、風呂で逆上せた時のような、風邪で高熱がある時のような、シリウスはようやく自分がひどく気分が悪いことに気がついた。

「おい、大丈夫かよ。」

「いや、やっぱあんまり大丈夫じゃないみたいだ。」

ジェームズの心配そうな視線までもが、弱った今は煩わしく感じられた。

「ほんとに何があったんだ?」

そんなことはこちらが聞きたい。

でもシリウスは、先ほど起こったことをジェームズに話すつもりはなかった。
ジェームズならば全て信じてくれるかも知れなかったが、そもそも自分すら現実起こったことだったのか疑わしいのだ。
それに何より、気恥ずかしい。
母の顔をした美しい人魚。羊水を模したあたたかい湖。
自分の中に胎内回帰願望があって、それが見せた妄想だったのだろうというのがシリウスのだいたいの見解だった。
そんなもの、認めたくはなかったが。

「あれ、シリウスこれ…何だろ?」

「え?」

ジェームズは、枯れ葉と土に汚れたローブの裾から何かをつまみ上げた。

それは、ぬらぬらと妖しく光る一枚の大きな鱗だった。

はっと息をのんだシリウスは、耳元で再び、あの囁くような声を聞いた。



「人魚の肉を食べた人魚はね、絶望を見せることが出来るようになるのよ。心の最も深いところにある絶望を。」



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