No.24



年が明けて間もない真冬のイギリス、ダイアゴン横丁。
夜も更けて人通りがほとんどないその場所で、口数も少なく思いつめた表情で長距離用の夜行騎士バスを待つナマエは、寒さに耐えるようにぴったりと隣に立つシリウスにくっついていた。



【決別と決意】



例年の通りホグワーツに残ったシリウスにナマエから手紙が届いたのは大晦日もいよいよ差し迫った12月29日だった。
それはドイツにいる父に会いに行きたいのだけれど付き合ってくれないかという簡単な手紙だった。会ってどうするのかとか、なぜ急にとか、肝心なことは何も書かれていない。
それでもシリウスはその短い文面からただならぬ物を感じ取って、ふたつ返事でオーケーしたのだった。恐らくリリーには言えないようなことなのだろうとある程度の予想をつけて。

「乗り物酔いの薬飲んだ?」

「うん。アリスから物凄く揺れるって聞いてたから。シリウスは?」

「俺も飲んだ。」

落ち合ったのはつい2分前だ。
シリウスは少し前に既にホグワーツから漏れ鍋の暖炉へと飛んで来たのだが、ナマエにはギリギリまで家から出るなと言ってあったのだ。
ダイアゴン横丁のこの静けさとて、時間のせいだけではないのだろう。みな怖がって今や滅多なことがない限り余計な外出などしないのだ。

急な外出許可を取りに行くと、マクゴナガル教授もそのことを何度も何度も念押ししてからようやく許可してくれたほどだった。

ナマエがシリウスにぴったりとくっついてはいても手は繋がない、腕も組まない理由もそこにある。いつでも杖が構えられるように、いつでも逃げることが出来るように、お互いに神経を尖らせているのだ。

ついでにシリウスは、ナマエのこんなにカジュアルな服装も初めて見た。
男女共そう変わらないジーンズにトレーナやセーターという私服が圧倒的多数におけるホグワーツで、どんなに寒くともいつもスカート姿のナマエだったが、今はジーンズにセーターそれに短い丈のコートにナイロンの斜めがけの大きめのバッグという格好だった。シリウスも似たようなものだったが、最初ナマエがやってきたとき誰か分からなかったのは秘密の話しだ。

「シリウス騎士バス乗ったことあるの?」

シリウスの考えていることなど気にもしないで、ナマエは寒さに震えながらそうたずねた。

「何度もあるよ。長距離も、ジェームズと旅行したときに一度乗った。」

「すごく揺れる?」

「まぁ、値段なりの乗り心地だな。」

魔法使いにとって移動手段は様々ある。
短距離ならば姿現し、国内なら暖炉で移動したり、箒やその他飛行するもので移動することも出来る。
だが、免許を取ったばかりの姿現しで遠く離れた国まで行くのは2人にとってほとんど不可能だったし、闇の陣営のせいでイギリスからの入国が厳しく制限されているヨーロッパ諸国へ、しかもこうも急に行くとなれば専門の旅行代理店を通さないと無理だった。
料金との兼ね合いも考えて消去法で、早くて安くて比較的安全な夜行騎士バスを選んだのだ。

「寝られるかしら。」

「子守唄を歌ってあげるよ。」
              
シリウスがにっこり微笑むと、ナマエは何か言おうと口を開きかけたが、呆れたようにため息を吐くにとどめた。そしてほんのり頬を染めて呆れた顔のままでシリウスの腕に頬ずりした。

「あ、来たみたいだ。」

ナマエが顔を上げると、1度見かけたことのある紫色の車体ではなくて緑色のバスが停まっていた。



前売りの乗車券を提示して、危険物を持っていないか簡単に調べられて、2人はようやく寝台に落ち着くことが出来た。
狭いがなかなか綺麗だし、思っていたほど悪くないというのがナマエの率直な感想だ。
周囲にシリウスが即席で防御の呪いをかけ、ナマエが気休めに持参した警報装置を仕掛けて2人は早々にベッドにもぐりこんだ。

「物凄いスピードで走ってるわ。」

カーテンの隙間から窓の外をそっとのぞいて見ると、猛スピードで流れる景色と時々飛び跳ねて避ける他の車や家々、街灯などが見えた。

「目が覚めたらドイツだよ。」

カーテンを閉じながらシリウスを振り返ると、シリウスは寝転がったままでナマエをちょいちょいと手招きしていた。

ナマエは若干照れながら頷くと、促されるままにシリウスの腕の中にもぐりこんだ。

「どこを走って行くのかしら。海はどうやって渡るの?」

「さぁなぁ。たぶん、海の上を走るんじゃないのか。マグルの乗り物にもあるだろ?なんだっけ…バート?」

シリウスの的を外れた返答に反論しようとも思わないで、ナマエは隣にある少々眠たそうなシリウスの顔を見た。同じベッドに寝ていても、シリウスは普段と変わらない様子でナマエに接している。ナマエはつい先日の出来事のことを思い出しそうになって、慌ててぶんぶんと頭を横に振った。余計なことまで考えて、わざわざ自分を追い詰めるような真似はしたくない。

「…なんにも聞かないのね、シリウス。」

「色々と聞きたいのは山々だけどな。」

シリウスの腕枕に頭を預けて、ナマエはゆっくり目を閉じた。温かい。ペラペラの毛布でも硬いベッドでも、この温もりがあればどんな場所より素敵になるとナマエはひっそりと確信した。

「もうきっぱりとケリを付けようと思ったの。」

「ケリ?」

「あの人と縁を切るってこと。」

「…そうか。」

「家へ帰ってお母さんと会って、とても強く思ったの。これ以上は無理だって。今すぐどうにかしなきゃって。それで、弁護士さんと…日本でお世話になってる弁護士さんの話しは前にしたよね?あの人と電話で話して、そういうのはあんまりよくないと思うけれど私の気が済むなら行ってらっしゃいって言われて、それで。」

何が無理なのか分かるような分からないような気持ちのまま、シリウスはぼんやりと頷いた。

「でも独りじゃとても…なんだか色々耐えられそうになかったから。急にごめんねシリウス、ありがとう。」

「話してくれて嬉しいよ。」

ナマエがそれ以上は何も言わなかったので、シリウスも黙って目をつむった。
誰にも、誰かの気持ちを本当の意味で理解することなど出来ない。シリウスの気持ちがナマエにそっくりそのまま伝わらないように、ナマエの気持ちもまたそっくりそのまま理解することはシリウスにはいつまでたっても出来ないのだ。
だけどこうして側に寄り添うことは出来る。悪夢を見ないように、髪を撫でて抱きしめることは出来る。

目を瞑ったままシリウスに寄り添うようにしておやすみを言ったナマエの髪を撫でて、シリウスも小さな声でおやすみを返した。



***



「ほんとにひとりで大丈夫か?」

「うん。大丈夫。シリウスこそひとりで何して過ごしてる?せっかくだし観光?」

厳しい入国審査を経て、ナマエとシリウスはようやくドイツの地に降り立った。
看板や表札が読めず、飛び交う言葉も理解できないものの方が多かったが、適当なカフェで早めのブランチを摂るくらいならば英語で問題なく出来た。

結局2人は朝まで一度も起きることなくぐっすり眠ることが出来た。乗り物酔いに襲われることも、もちろん闇の陣営に襲われることもなく。

「そんなに長居するつもりはないの。終わったら連絡するから、そしたら落ち合いましょう。終わったら、全部ちゃんと話すから。」

イギリスのものと変わりないコーヒを飲み干して、ナマエはようやく重たい口を開いた。

「分かったよ。」

店の外へと出ると、着いたばかりの頃とは打って変わって街はもうすっかり目覚めて騒がしくなりつつあった。
ナマエは一見するとマグルのそれと変わらない羊の革で出来た防護魔法手袋をはめながら隣を歩くシリウスを見上げた。

「シリウス、綺麗なドイツ人のお姉さんに声かけられてもフラフラついていっちゃダメよ。」

「…どうかな。」

「そしたら帰りのバス、シリウスは床だからね。あとリリーの刑。」

「リリーの刑ってなんだよ。」

シリウスが耐え切れないという風に笑い出すと、ナマエもつられてクスクスと笑い声を漏らした。



ナマエは場所を知っていたのかよどみない歩みで、ある真新しい立派なマンションの前まで来た。そして周囲にさっと気を配ったあと、シリウスにぎゅっと抱きついた。

「無理するなよ。」

そっと抱きしめ返しながらシリウスがそう言うと、ナマエは顔をシリウスの身体に押し付けたままで小さく頷いた。

「ん。」

「何かあったらいつでも呼んで良いから。」

「うん。」

「…がんばれ。」

ナマエはパッと顔を上げると、今度は少し明るい声で「うん。」としっかり頷いて見せると、シリウスを振り返らずにマンションの中に消えていった。



***



インターホンを介さずにマンションの9階までエレベーターで一気にのぼると、眼前に共用の廊下から美しい街並みが広がった。
日本の雑然とした景色も好きだけれど、純粋に美しいと思うのはやはりヨーロッパの街並みの方だ。ナマエはあまり色々なことを考えないようにわざと頭をぼんやりとさせながら左へ進んでいった。油断すると、狡猾な悪魔のように言葉に出来ない感情が心一杯に広がってしまうからだ。

共用廊下の突き当たりの部屋の表札を見て、ナマエはぴたりと足を止めた。そしてそれをこの世で最も恐ろしいものを見る目つきで睨みつけると、あまり逡巡することなくチャイムに手をかけた。ここへ来るまでにもう十分に迷ったし、恐れたし、怖気づくことを済ませていたからだ。なにより、こんな出鼻からまごついていたら我侭を言ってついてきてもらったシリウスを余計に待たせることになってしまう。

両手にしっかりと防護の手袋をはめた状態で、ナマエはぎゅっとこぶしを握った。

「はーい?」

このマンションは住人以外の訪問者はエントランスのロビーから中の住人に呼びかけて開錠してもらう仕組みになっていたが、ナマエは管理人の目を盗んで勝手に自動ドアを開けて入って来た。なるべくいきなり登場して、父に余計な小細工をする猶予を与えたくなかったからだ。
返事をした女性は、いきなりドアの方のチャイムが鳴ったので同じマンションの住人と思ったのか、とても気さくに返事をした。ドイツ語だ。

「ミョウジナマエです。話があって来ました。」

震える声で、少し早口に英語でそう言うと、顔の見えない向こう側の相手は一瞬沈黙したあと、ボソボソと小声の早口で誰かに何か言っているようだった。

ナマエは、この女の人の名前を知っている。
英語が話せることを知っているし、マグルであることを知っている。付き合っている男が妻子持ちでなおかつ魔法使いであると知っていることを知っている。彼女の勤め先を知っているし、血液型を、出身大学を、両親の名前を、知っている。全てはこれから起こす裁判のために。

「開けてもらえないなら、こっちから開けますよ。」

ほんの少しの間の後ナマエが脅すようにそう言うと、慌てた足音が聞こえて、次の瞬間ガチャと鍵を開ける音がした。キイと小さな音を立ててドアが開くと、そこに立っていたのは紛れもない実の父親だった。

『…やぁナマエ、久しぶり。』

「日本語で話したいのならそうすれば良いけど、だったら私はあの女の人と子供の耳に日本語が分かるようにする魔法をかけます。」

間髪入れずにナマエは言った。
細かな怒りの震えは止まらない。でも、父の顔を見ても思ったような激情は沸いてこなかった。ここへ来るまで散々沸騰させていた憎しみは変わらず心の中心で煮えたぎっていたが、反対に脳はすっきりと冷え切ってクリアになっていくのを感じた。

父親の背後、ドアの間からこちらをうかがっている女性が見えた。初めてまともに見たその姿は、金髪で背が高く涼しげな顔立ちの美人だった。母を狂気の淵へと追いやった、一番の原因の人間だ。

『悪いけど、下の子の具合が良くないんだ。風邪気味で。話しならどこかその辺の店で、』

「だめ。この家じゃないと。」

『ナマエ、』

「だめ!」

コートに隠すようにしてジーンズのベルトに挟んでいた杖がパチッと音を立てて、赤黒い花火を噴いた。それにはっと気付かされたナマエは、慌てて感情を押さえ込んだ。
父親は一瞬怯えて探るような鋭い視線でナマエの全身を見たが、すぐに諦めたように身体をずらしてナマエを招き入れる仕草をした。

「…分かった。どうぞ。」

「お邪魔します。」



通されたリビングはベビーベッドが置かれ、小さな子供たちがいる家庭に相応しく、明るい光と幸福の香りに包まれていた。およそ似つかわしくないのは深刻な表情で押し黙る親子と、それを不安げな表情で見詰める女性だった。

「あ、わたし、お茶を、」

「いいえ結構です。あなたに出されたものを口にする気はないので。」

ナマエが辛辣に遮ると、女性は浮かせかけた腰をソファに静めて、隣に座る父にすがるような眼差しを投げかけた。しかし、その後すぐに膝にいる女の子が「ママ、だぁれ?」と尋ねたので静かにさせることに必死になった。

「これを返します。」

それを見ないようにしながら、手袋をはめたままの両手でナマエはバッグの中からいつかのバレンタインデーに送られてきた小箱を取り出した。ケースから一度も出されたことのない、純銀のネックレスだった。小さなハートのモチーフが可愛らしい。それを父親との間にあるテーブルに置くと、父親は白々しくも意外そうな表情を作った。

「どうした、気に入らなかった?」

その言葉にカチンと来たナマエはさっと杖を抜いた。

「よくもいけしゃあしゃあと。」

そして目にもとまらぬ早業で杖を振ると、ネックレスを浮遊術で操って母親の腕の中できょとんとしていた上の子の首へとかけた。

両親がぎょっと目を剥いたのと同時に、女の子はとろりと目を濁らせて突然はきはきと喋りだした。

「おとうさん、あのね、わたしそうぞくほうきする。うったえもとりさげる。おかあさんとのりこんになんのじょうけんもつけないわ。」

およそ小さな子の口から聞くことはなさそうな単語を次々と並べながら、母親の呼びかけにも応じずにぺらぺらと喋り続ける。

「エミー?どうしたの、エミ?あなた、エミが!」

理解できない我が子の状態を見て取り乱す女性を冷静に見詰めながら、ナマエはゆっくりと落ち着いた声で言った。

「ご心配なく。その呪いはこの男がかけたものですから、この男が解いてくれるでしょう。その子を床におろして。」

ナマエの言葉を半分も聞かないうちに、父親は慌てて立ち上がって杖を取りに書斎へと行った。
ナマエに言われるがままに床へ降ろされた子供は、よどみない足取りでオモチャ箱へ色鉛筆と画用紙を取りに行くと、画用紙を広げて一面に英語で何か文字のようなものを一心不乱に書きはじめた。

「あの男が私宛てのプレゼントにどんな呪いをかけたか教えてあげましょうか?」

娘の狂った様子を挙動不審になりながら見詰めていた女性に向かって、ナマエはにっこりと微笑んで見せた。こういう性格の悪いところ我ながらあの男にそっくり、と思いながら。

「私がうっかりあのネックレスを首へかけようものなら、たちまちあの男宛てへの手紙を書くような魔法がかけられていたんです。どんな内容の手紙かは、分かるでしょう?あの男が有利になるような内容よ。あの男はね、そうと思えば実の娘を呪うことさえ厭わない人間なのよ。」

女性は震え上がって顔を真っ青にしてナマエを見た。言っていることが理解できない、したくないと顔に書いてあった。

「知らない方があなたは幸せだったでしょうけど、あいにく私にもあの男の血が流れてるから。」

ナマエはそこまで言うと、戻ってきた父には目もくれないでバッグから数多の書類を取り出した。全て前もって郵送したものだったが、今回あえてもう一度持ってきたのだ。

小さな娘の呪いを解く父の姿をちらりと見ながら、ナマエはテーブルの上に書類を広げた。

「日本で裁判を起こすの。もちろん離婚の調停のよ。あなたには良い知らせかしら、悪い知らせかしら。私の母とこの男が離婚したら、あなたがこの男の奥さんになるのね。」

「ナマエ。」

父親の呼びかけにぴくりとも反応しないで、ナマエは薄っすらと嘲笑を浮かべながら続ける。

「愛があればそれで良いのでしょう?その男が相続すべき祖父母の遺産と日本にある不動産、それから母が遺産を切り崩して賄ってくれていた私の学費なんかの養育費と成人するまでの養育費。もちろん母の治療費もよ。イギリスにある家と土地は訴えを起こす前に母の名義に代えてあるし…、でも安いものでしょう?それで愛する男を買えるんだから。安いものよ、自分のせいで病気になった女とうるさい娘を捨てることが出来るんだから。それにしても…この立派なマンションのローンやその子たちの学費、払えるかしら。ね?」

ナマエは「でも、それでもその男の妻になりたいんでしょう?」と続けた。

「ナマエ。」

「呪い、解けたの?」

父親は明らかに動揺して苛立った様子を見せた。直接触れていないし良く調べてもいないから詳しいことは分からなかったが、相当に高度で複雑な魔法がかけられていることはナマエにも分かった。そして恐らくは素人の呪いではなく、そういったことを専門に請け負っている業者に頼んでかけてもらった呪いであろうことも。簡単には解けないだろう。

「夏に、あなたが来なかったから私ひとりでお祖父ちゃんとお祖母ちゃんのところへも行ったわ。あの老人たち、残念ながら私の言ったこと半分くらいしか理解出来なかったみたいだったけれど。ドイツの孫が2人に増えるって教えてあげたらさすがに驚いてたわ。」

ナマエは、父の腕の中でおちょぼ口をぱくぱくと動かしている女の子をじっと眺めた。父親に似て髪も瞳も真っ黒だが、鼻筋のすっと通ったところや抜けるように白い肌、薄い唇は母親ゆずりのようだった。とても可愛い。母親が外国人だったとしても、やはりどことなく写真で見た幼い頃の自分に似ている気がした。



取り扱い説明書のようなものを引っ張り出してきてようやく呪文を解除し終わった父は、とばっちりを受けた小さな娘を母親の膝へと戻すと、自分も隣へと座り直した。
少女は何事もなかったようにケロッとして母親の膝の上で大人しくこちらを見つめている。

お互いソファに腰掛けて向かい合った父に、それにぴったり寄り添うすっかり妻気取りの女に、言い尽くせない憎しみを感じる。
憎い、母を追いやり壊した父が。
憎い、母の立場を奪ったこの女が。
憎い、自分たちだけ幸せに暮らすこの人たちが。
憎い、憎い、憎い。
母はあんなに惨めな姿になってしまった。
絶対に、絶対にこの人たちを許すことは出来ない。

だけど、とナマエは思った。
憎き女の膝の上できょとんと目を丸くしてこちらを見る可愛らしい女の子は憎めなかった。自分の幸せを、愛を奪った元凶そのもののはずだけれど、この子には恨みもないと、その顔を見てはっきり感じた。

無垢な瞳を見つめて、ナマエはこの子が哀れで仕方がなかった。
もう少し大きくなって、自分の両親の真実を知ったらどうだろう。例えナマエが得なかったほどの愛情を受けて育ったとしても、真実を知れば、この子は母親にとって単なる略奪のための道具でしかなかったのではと考えるかもしれない。自分が生まれなければ、誰かの幸せを壊すことはなかったのではと考えるかもしれない。それがどんなに辛いことか、誰かの子供であったはずのこの2人には分からないのだろうか?この女には、分からなかったのだろうか?

そこまで考えて、ナマエは煮えたぎる憎しみがすっと引いて冷静になっていくのを感じた。そうだ、この人たちはどのみち不幸になる。わざわざ自分が呪うことはない。自分の不幸も、わざわざ呪うことはないのだ。

ただただ、この血を分けた愛らしい女の子が真実を知る日がなるべく遠く先でありますようにと祈った。


じっと見詰めていたナマエの視線から娘を隠すように、女の人がぎゅっと娘を抱え直した。そうされてナマエはようやく小さな女の子から視線を外すことが出来た。

「この書類、全部目を通しておいて。」

父に向かってそう言えば、父はちょっと肩を竦めて書類を手に取った。

「家族で裁判なんてね。」

この男は、こういう人間だ。あからさまに眉を顰めて、ナマエは考えた。
一度は一生を共にと考えたであろう己の妻を思いやれず、自分のことは棚に上げて娘を厄介者扱いする。どこまでもふざけた人間だとナマエは思った。誠意というものを欠片も持ち合わせていないとも。だからこそ、自分はそうでありたくないと人の気持ちを良く考えるようになったのだから、感謝すべきところも少しはあるかもしれなかったが。

ただ何よりナマエを落ち込ませる事実は、この男の血が自分の中に半分流れているという点だった。

「自分たちで話し合える段階はもうとっくの昔に通り過ぎたわ。チャンスはあなたが葬った。私たちはあとは全部鈴木弁護士に任せるだけよ。」

ナマエが吐き捨てるように言うと、父は書類に目を落としたまま少し考える仕草を見せたあと、顔をあげた。

ナマエは視線をそらさず真っ直ぐ見詰め返した。恐らく、今日がこの人の顔を見る最後の日になるだろうから。
改めてまじまじと見たその顔は、ナマエの記憶の中の父よりもはるかに老けていた。若くて快活でいつでも笑って自分を抱き上げてくれた父。面白い話しをたくさんたくさん聞かせてくれた父。母が作ったご飯を美味しいねと言い合って食べた父。
幼い頃の自分には想像も付かなかった。あの優しかった父といつか決別する日が来るなんて。こんな形で、見捨てられる日が来るなんて。

「君はどうするんだ、卒業後。日本に帰るのか?」

「お母さんには日本が一番だもの。」

「日本に魔女の就職先なんてないぞ。君ほど優秀な魔女が、今更マグルとして生きていけるのか。」

「どうとでも。」

「魔法界の本場であるイギリスで暮らして、それで改めてマグルの世界で生きられるのか?」

「あなたに心配される筋合いはないわ。」

父が魔法使いとしてどうなのか、ナマエは正直なところほとんど知らなかった。その昔に母から聞いた話では、アメリカの魔法学校時代は2人共あまり優秀ではなかったとのことだった。優秀であればそのままアメリカで研究員としてなりなんなり、いくらでも就職先はあっただろうからそれはそうなのかもしれない。わざわざ日本で大学に入り直して、マグルの企業に就職するくらいだ。

「あなたにそんな心配されるなんて、反吐が出そう。」

反吐、という言葉を出した瞬間、隣の女がぴくりと反応した。今の今まで、己の存在をなるべく小さくさせようと躍起になってじっと息を殺していた女が。娘に聞かせたくないとでも言うのだろうか。自分のした反道徳的な行動の数々は棚に上げて。全く父にお似合いの女だ。

ナマエはひたすらにおどおどして自分や父親の顔色を伺っている女が、もちろん好きになれるわけもないのだが、本当に嫌だった。奪ってやったと、お前は捨てられたのだとどうして堂々としていられないのだろう。我こそは勝者だという顔をしていればそれはそれでもちろん殺してやりたいほど憎いが、まだしも納得がいった。信念と決意を持って妻子持ちの外国人の子供を妊娠したのだと。しかし、今のこの態度からはそんなものは微塵も感じられない。ただ流されただ享受するだけの、ナマエが一番嫌だと思う生き方をしている女にしか見えない。

もしもそれすらも計算だったとしたら…、そこまで考えて、やっぱり絶対に永遠に大嫌いなことには変わりないとナマエは思った。

「全部あなたのせいじゃない。それをどの口が言うわけ?私はお母さんを捨てたりしないわ、絶対に。」

「それで自分の人生を捨てるのか?」

「捨てる?お母さんを含めてが私の人生よ。切り離して考えることなんて出来ない。」


結局、面と向かい合っても無駄だったのだ。最後の最後まで、わずかに持っていた希望を改めて粉々にされたとナマエははっきり理解した。
自分の心配をすることが父親のすることだとでも言いたいのだろうか?だったらどうして、とナマエは今まで繰り返し繰り返し考えてきたことを思った。でもこれも今日で終わりだ。

「これにサインを。」

そう言ってナマエが差し出したのは、一枚の呪いが書かれた巻物のような和紙だった。夏に日本で手に入れた、とても古くて強い、呪詛の一種だ。簡単に言えば、今後お互いが何か関わりを持とうとすれば呪詛が発動して、相手の望む呪いにかかってしまう仕組みになっている。

「どこでこんな物騒なものを。」

父親は驚いたようにその紙とナマエをと交互に見遣った。

「サインして。」

「出来る訳ないだろう。」

「なぜ?」

「なぜって…、例え桂子と離婚したとしても君は娘だ。」

「戸籍を抜くわ。」

「血は繋がってる。」

「はっ。」

ナマエは鼻で笑った。幼い妹は大人しくしたままこちらを見詰めている。その母親もこちらを見詰めている。
やりきれない気持ちで一杯になったナマエは、視線を呪いの紙へと移した。

「サインしてくれないならそれでも良いわ。これも鈴木弁護士にお願いする。」

「ナマエ。」

もう耐えられない。とナマエは思った。もうたくさんだ。愛され、満たされ、何も知らずに両親に守られる幼子。自分で自分に杖を突きつけ狂ってしまった母親を守るため、父親を相手どって裁判を起こさなければならない自分。しかも原因は父自身にあるのだ。ようやく分かった。本当の意味で理解できた。自分に父親が戻ることはないし、母に夫が戻ることはない。自分たちはこれからは2人でしっかり生きていかなければいけないと。

何も知らないままの子供でいたかった。両親に愛され、一点の憂いもなく毎日を楽しく過ごしていた日本にいた頃に戻りたかった。幸せな家族がいつまでも続いて欲しかった。いつまでも続くと信じて疑ったことなど無かったのに。いったいどこまで戻ればやり直すことが出来たのだろう。これももう何度も何度も自分に問うてきたことだった。

もう何もかも、知らなかった頃、起こらなかった頃には戻れない。時間は戻らない。だだをこねて立ち止まっても、時間は残酷なまでに勝手に突き進んでいく。それしかないのだ。


『私だって、いつまでもお父さんの娘でいたかった。』


搾り出すような小さな声、日本語でそう言うと、父親は初めてショックを受けた顔をした。どんなに言葉にしたって、これ以上は何も伝わらない。ナマエはそう思ってそれ以上何も言わなかった。

ナマエは鞄を掴んで立ち上がると、玄関ではなくリビングの角に置いてあるベビーベッドに向かった。動揺する女の人をよそに上から中を覗き込むと、すやすや眠る赤ちゃんの姿があった。手には手編みのハンドカバーがしてあって、頭にはお揃いのレース編みの帽子がかぶせてある。顔を近づけなくてもミルクと赤ちゃんの匂いがした。目の色なんかは分からなかったが、やっぱりどことなく、写真で見た自分の赤ちゃんの頃に似ている気がした。


赤ちゃんに心の中で挨拶をして、押し黙ったまま玄関まで来ると、後ろから父と女の人、女の人に手を引かれた女の子が着いて来た。見送られたいと思ったナマエではなかったが、でも今日限り、会うことは永遠にないだろうから黙っていた。

カジュアルなブーツに乱暴に足を突っ込んでいると、父親が鍵を開けてドアを開いた。
ひゅうと冷たい風が吹き込んできて、同時に父親の「え、」という声が聞こえた。

ナマエが顔を上げると、そこにはシリウスがいた。壁に寄りかかっていた身体を起こしながら、真面目な顔でこちらを見ている。

ナマエは一瞬の迷いもなく、ブーツが履き途中なのも構わず、玄関から飛び出してシリウスに抱きついた。身体が勝手に動いたのだ。そして、この家に入ったときからずっと我慢していた涙を一気に溢れさせた。

一生懸命息を殺して、ひきつけを起こしたように震えながら泣くナマエを、シリウスは黙ってそっと抱きしめた。


一向に落ち着く気配のないナマエの背中をあやすようにとんとん叩きながら、シリウスは玄関で呆然としている家族、と呼んで良いのかどうかは分からなかったが、とにかくそちらへ目を向けた。

初めて見る、ナマエの父親。
ナマエはどちらかと言わなくても母親似だったが、目元や唇はどことなく父親の面差しがある。目が合うと、明らかに視線がお前は誰だと言っていたのでシリウスはちょっと会釈をして「はじめまして。」と挨拶をした。

「シリウス・ブラックと言います。ホグワーツの同級生です。」

「あぁ、ホグワーツの。そうですか。」

「彼氏 よ。」

ひっくひっくとしゃくり上げながら、ナマエは小さな声を重ねた。シリウスは頷いて「彼氏、です。」と続けた。

息も整わないまま、ナマエはコートの袖でぐいっと目元を拭うと、女の人に手を繋がれたままの妹の側へ駆け寄った。そしてそのままその場に膝をついて驚いている女の子のいたいけな頬をそっと指先でなぞった。

「ごめんね。」

女の子は黙ったまま、それでもしっかりとナマエの目を見詰めていた。

「元気でね。」

「うん。」

「幸せにね。」

意味も分からず頷く女の子を見てナマエも頷くと、2人は初めて少しだけ笑い合った。

ナマエは最後に細くて柔らかい髪をそっと撫でると、立ち上がってシリウスの元に戻った。

「もう二度と会いません。」

父親に、妹に、どちらともに、とは言わなかったが、女の人は明らかにほっとした顔をした。それを見逃すナマエではなかったが、もう苛立つことはなかった。

シリウスの腕にしっかりと掴まると、ナマエは最後にもう一度振り返った。

父親と目が合う。父親は、なんとも言えない表情でこちらを見ていた。
これで永遠にお別れだと思うと、殺したいほど恨んでいたはずなのに寂しい気持ちがこみ上げて来た。ナマエは目をつむって、開いて、日本語でゆっくりと言った。


『さよなら、お父さん。』


next

back


人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -