大きな御屋敷、大きな出窓、大きな椅子にゆったりと腰掛けた老人は、椅子の肘掛に両腕を乗せてこちらを見上げている幼いと呼ぶには少し成長しすぎた少女をじっと見詰めていた。少女も老人を見上げ、じっとして動かない。部屋には穏やかな時間が充満していて、眠気を誘うようだった。しかし、少女はまばたきもほとんどしないまま、じっと老人を見上げている。いつまでも口を開かない少女に根負けしたように、老人は少し口元を緩めてそっと少女の頭に大きく節くれ立った手を置いた。感覚すら老いた手でも少女特有の髪のつるつるとした手触りが感じられて、老人はいつかの日を思いしながら、ゆっくりと口を開いた。

「マーガレット。」

少女は大きく潤んだ瞳をキラキラと輝かせながら、コロコロと鈴の鳴るような声で「なぁに、おじいさま。」と言った。

「フロックス…お母さんはどうしたんだい。」

「おばあさまといつものお散歩よ。」

マーガレットと呼ばれた少女は、老人と同じように少し笑って答えた。老人はそうか、そうか、と2回言った。

「おじいさま、ねぇおじいさまとおばあさまにも、お父さまやお母さまと同じような時があったの?」

老人は、最近少女からこの手の質問を多数受けていたので、聞き返すことなく返答した。

「そうだよ。フロックスも、今のマーガレットほど小さなころがあったんだよ。」

「おじいさまもお父さまくらいだった?おばあさまもお母さまくらいだった?」

「そうだよ。人はみな、産まれた時は赤ん坊だ。マーガレットもフロックスも、もちろん私もそうだよ。」

「なんだか、信じられないわ。」

マーガレットは、目を開いたり閉じたりした後、頭の上にある老人の大きな手をそっと掴むと、自分の頬にあてた。老人は孫のあまりの愛らしさに頬を緩ませる。マーガレットはじっと考え込むように宙を見詰めていた。

「マーガレットだって、いつかフロックスのように大人になる。」

そして、老いて死んで行く。
老人は笑顔の裏で言葉を噛み殺して、親指でそっとマーガレットの目の下をなぞった。するとマーガレットは何かを思いついたようにパッと顔を上げて老人を見た。

「ねぇおじいさま、おじいさまはおばあさまを愛してる?」

突然の質問にも、老人はゆっくりと頷いた。

「愛しているよ。」

マーガレットは満足そうに頷くと、おしゃまに手をパチンと合わせて「そうだと思った!」と言った。

「お父さまがね、おっしゃるの。お父さまはお母さまを愛してるから、お母さまはお父さまを愛してるから、私が生まれたんだって。だからお母さまは、おじいさまがおばあさまを愛して、おばあさまがおじいさまを愛したから生まれてきたんだわ。」

マーガレットが長い言葉を一気に言う間に、老人からはすっかり笑顔が消えていた。マーガレットの母親であるフロックスは、老人とその妻との間にできた唯一の子であり、この家の跡取りであった。幸いにも健康で美しい女性に成長したフロックスは、生まれた時に決まっていた婚約者と結婚した。義理の息子は金持ちで高教育な人物にありがちな性格ではなく、精力的で大変好人物であり、大切な一人娘の婿としては申し分の無い男だ。娘夫婦は子宝にも恵まれ、マーガレットの上には2人の兄と1人の姉がいる。


この家の繁栄は、約束されていた。


「おじいさまは、おばあさまとどうして出会ったの?どうしておばあさまを愛したの?どうしておばあさまと結婚したの?」

孫娘の純粋な瞳は、老人を何より追い詰め、苦しめた。老人は吐き気を伴うほどの後悔と自責の念を胸一杯に溢れさせて、思わず己の胸倉をギュッと掴んだ。

「おじいさま?だいじょうぶ?お具合でもおわるいの?」

「ああ大丈夫、マーガレット。問題ないよ。」

それから老人は、ゆっくりと物思いに耽ってマーガレットの為にふかふかの椅子を1脚、呼び寄せた。

「おかけ、マーガレット。昔話をしよう。私とナマエの話を。」



【エリクシア】



絶対的な静寂と暗闇の中、ナマエは1人広すぎる廊下に立っていた。手足は冷え、先の方はもう既に感覚が無い。せめてと思い纏っているエプロンドレスの袖口をギュッと引き寄せたが、どうにもならなかった。それでもナマエは、ここへ立っていなくてはならない。何があっても。どこか遠くでフクロウが不気味な声を上げたちょうどその時、ドアの向こう側から微かな気配がして、ナマエは背筋をピンと張った。重厚なドアが押される音がして、ナマエの主人であるシリウスが顔を出した。ナマエは膝をチョコンと折って丁寧にお辞儀をする。

「まだいたのか。」

シリウスの声は、どこか人を馬鹿にするような蔑むような色を含んでいる。いつものことだと言い聞かせて、ナマエは顔を下げた。

「若旦那様のお言いつけでしたので。」

事務的に答えると、シリウスは小さな笑い声を上げた。

「お前は本当に私が言えば何でもするんだな。犬みたいに忠実に。」

顔を上げていなかったのでナマエには分からなかったが、シリウスはニコニコと機嫌良く微笑んでいた。

「いつまでも一歩も動かずに立っていられるか?」

ナマエが答えずにいると、シリウスはますます楽しそうに続けた。

「顔を上げろ、ナマエ。」

「はい。」

ナマエが見上げたシリウスは、いつも通りのシリウスだった。病気がちなこのブラック家の当主に代わって様々な仕事をこなし、ブラック家の名声を国中に益々轟かせている。人はシリウスのことをなるべくしてなった伯爵と妬み、また同じくらい尊敬していた。

「なぁナマエ、いつまでも立っていられるか?私が良しと言うまで。」

ナマエは少し言い淀んでから、ゆっくりと口を開いた。

「…お言いつけでしたら。」

「本当に?」

すぅと目を細めて、シリウスはナマエの目をジッと見詰めた。ナマエはそらしたくてたまらなかったが、負けじとシリウスの淡い瞳を見詰め返した。

「トイレに行きたくなっても?ここで漏らすわけか?」

ナマエの顔がサッと赤くなると、シリウスは冷ややかな目をしたまま口元を歪めた。

「それは是非、見てみたい。」

「若旦那様。」

「私に口答えする気か。」

ナマエは今度こそパッと顔を下げて、消え入りそうな声で「申し訳ございませんでした。」と言った。

「今日はもう寝て良いって言おうと思ってたけど、気が変わった。」

シリウスはそう言うとクルリと踵を返した。

「いつまでボサッと立ってるつもりだ。早く中に入って、裸になれ。」

「…は い。」

そうしてまた始まるのだ。
ナマエにとって、長い長い夜が。



「あっ」

ナマエの小さな悲鳴は、2人の荒い呼吸でほとんど掻き消されてしまった。広い寝室中に充満した淫靡な空気がドロリとシリウスの背中に降った。シリウスがナマエの躰から自分の躰を離すと、その空気は一層濃いものになった。

「っ、」

ナマエが息を詰めて身震いをすると、その白濁した根源がヌルリと太ももを伝った。この瞬間、ナマエは毎回涙を浮かべてしまう。それがシリウスの逆鱗に触れることは分かっていたが、どうしても抑えることは出来なかった。案の定、シリウスはナマエの両足を強い力で払いのけ、ナマエに背を向けた。

「本当に鬱陶しくて陰気な女だな。」

ポロリと涙がナマエの頬を伝ったのを隠すように、シリウスがナマエの顔の上にシャツやスカートを放った。

「早く出て行け。目障りなんだよ。」

あまりにだるい身体に鞭を打ってのろのろと起き上がり、下着に手を伸ばした。シリウスはナマエに背を向けたまま、大きな窓から覗く月を見上げていた。



どうしてこんな関係になったかは、正直のところ良く分からなかった。ただなんとなく、ある日突然シリウスに押し倒され、それ以来この関係が続いていた。ナマエは何度も何度も、女が欲しければ買えば良いと思ったが、シリウスは何故かそうはしなかった。シリウスほどの地位があれば女など向こうから蠅のように集って来るのに、だ。ナマエは、伯爵の嫡子たる人物が執心するほどの大した美人でも、魅惑的な肉体をしているわけでも無かった。ブロンドでも、甘い声を上げるわけでもない。ただじっと、終始身体をかたくしてひたすらにシリウスの行為を受け止めるだけ。それなのに、この関係はもう半年も続いていた。



「ナマエちゃん、ナマエちゃん。」

翌日、ナマエが洗い上がった洗濯物をかごへ移していると、女中長のメリンダが声をかけてきた。

「はい。」

ナマエはエプロンでサッと手を拭いて、すぐに側へ寄った。

「はいこれ、いつもの魔法薬。」

メリンダはそう言ってナマエのポケットに小瓶を押し込んだ。

「すみません。いつもありがとうございます。」

ナマエは布越しにそれをギュッと握ってメリンダにお礼を言った。

「いいのよ。でも、ねぇナマエちゃん、本当は毎回きちんと飲んだ方が良いのよ。危険日前後だけじゃ、毎回飲まないのと一緒なんだから。貴女、ただでさえ不順な方でしょう?」

メリンダはナマエの手をそっと握って優しく言った。

「はい、でも、薬は高価ですから。」

「だからね、私も少しなら、」

急き込むように言葉を繋げるメリンダを、ナマエは首を振って遮った。

「調達してもらえるだけで十分です。私なら大丈夫です。」

はっきりと言い切るナマエを眉を寄せて見るメリンダは、あからさまな心配を隠しもしない。メリンダは年老いているが、とても素直で良い女性だ。ナマエは今まで何度もメリンダの優しさに救われてきた。

「そんなこと言って、妊娠でもしたら大変よ。貴女だけが酷く傷付くことになるのよ。この仕事だって続けられないわ。」

「でも、メリンダさんにこれ以上迷惑はかけられません。」

これ以上話す気は無いと言外に示して、ナマエは作業に戻ろうとした。

「じゃあ、他に頼れる人は?いないの?…その、ご両親の友人、とか。」

メリンダは言い難そうにそう口にした。ナマエはメリンダの目を見て、キッパリと答えた。

「いません。公爵だった父の友人は、どなたも私を助けてはくれませんでした。ただ、父と親しかった旦那様だけが、情けをかけて私を雇って下さったんです。ですから、」

ナマエは一端言葉を切って大きく息を吸い込んだ。そして大きく吐き出すと、小さな声で言った。

「若旦那様が私に何をしようと私には物言う権利は無いんです。たくさんのご恩を、少しでも報わなければならないですから。」

メリンダは益々悲しそうな顔をして、ナマエを見た。

「旦那様は友人の娘を下働きにするようなお方よ。自分の息子が慰み者にするのを黙認するようなお方なのよ!?」

ナマエはもう一度首を振ってメリンダの言葉を遮った。

「いいえ。温かい食事とベッドを与えてくださっただけで私は感謝すべきなんです。屋敷が全焼して何もかも失った時点で、私はどのみち似た様な道を歩んでいたでしょうから。」

ナマエはそう呟くと、今度こそ仕事に戻った。背中にメリンダの視線が刺さったが、精一杯無視した。優しさだけでは解決できないこともあることを、ナマエもメリンダも良く知っていたからだ。



虎視眈々とシリウスの座を狙っている人ばかりの中で、シリウスが唯一心を許している人物がいる。その人は今日もシリウスの邸宅を訪れて来た。

「やぁシリウス。」

「やぁジェームズ、良く来たな。」

ジェームズが訪れることもあれば、シリウスが会いに行くこともあった。話すことと言えば仕事の話、社交界の話、哲学に理念、そのほか多岐にわたった。

「今日は縁談を持って来たんだ。」

「縁談?」

シリウスは眉を顰めてジェームズに椅子を勧めた。シリウスほどの地位と家柄を持てば、生まれながらに婚約者がいることは珍しくない。もちろんシリウスも例に違わず婚約者がいたのだが、何年も前に流行り病で亡くしていた。

「冗談だろ?」

「君にじゃない。」

ジェームズは真面目な顔をして、メイドの注いだお茶には目もくれずにシリウスを見た。そして周囲にいた使用人たちを払って、シリウスに囁くように言った。

「ナマエにだ。それも一件じゃない。」

シリウスは、お茶と一緒に動揺を飲み込んだ。

「前々からしつこかったボールディング家なんて、週に2回は僕に手紙を寄越す!君が徹底的に無視するから、交流のある僕に頼ろうってわけさ。あわよくば、僕の家で養女に取れって言うんだ。表向きはかの公爵に世話になったから、なんて言ってるけど、ナマエが目当てなのは言うまでもない。子息が駄々をこねてるらしい。」

ジェームズは少し荒々しくそう言った。

「最近じゃ、こうまで言うんだ。あの火事の後、本当は自分たちがナマエを引き受けるつもりだった、公爵にもそう頼まれていた。だけどブラック家が権力にものを言わせて奪ってしまった!って。しかも養女か、花嫁ならまだしも…ナマエは、その、」

珍しく尻すぼみになったジェームズは、お茶を濁すことに決めたらしい。シリウスは、ジェームズがどこまで本当のことを知っているかは知らなかったが、おおよそのことは知っているのだろうと検討をつけた。

「なぁシリウス、ナマエをどうするつもりなんだ?僕は、個人的には彼女に対する話なんだから、君に揉み消す権利はないと思ってるんだけど。」

「ナマエは使用人だ。今は俺が主人だ。権利はあるよ、十分にね。」

「そういうの、低俗な言葉で独占欲って言うんだよ。」

「なんとでも言え。」


シリウスは恐れていた。ナマエの世界が広がってしまうこと、ナマエが自分の手からすり抜けてしまうこと、ナマエが別の誰かのものになってしまうこと、全てを恐れていた。自分でも驚くほどその恐怖は大きなもので、1人の力ではどうしようも無いほどだった。ゆえにシリウスは権力に頼ったのだ。

「結婚すれば良いじゃないか。」

それこそ、シリウスには出来ないことだった。権力に頼ったところで、人の心は動かせないことはシリウスが一番良く知っていた。例えば結婚と言う制約でナマエを縛り付けたところで、一生苦しめることになるだけだ。しかし、今まで散々酷いことをしてきた自覚のあるシリウスには、正々堂々と申し込んで受け入れてもらえる自信など欠片も無かった。

「僕が協力するよ。」

「そうしてもらい時がもし来たら、その時は宜しくお願いする。」

シリウスだって、このままで良いとは少しも思っていなかった。ただ何となく、ナマエが妊娠すれば、と思っていた。妊娠さえすれば、それはブラック家の大切な跡取りだ。ナマエは自分から逃げ出したりしなくなるかもしれない、老いて病がちの父親を、なし崩しに説得できるかもしれない、と淡い期待を抱いていた。



ギリギリの均衡を保っているということは、ほんの些細な瞬間崩壊するかもしれない危険を孕んでいるということだ。ゆらゆらと揺れていたひびだらけの関係性は、大きな音を立てて崩れた。それも、一瞬で。


普段から食が細かったナマエが、食事を全く摂らなくなった。青い顔をしてふらふらと歩き、時に辛そうに胸を押さえてしゃがみこむことがあった。自分の雇い主との関係を知っていたメリンダには、事態を理解するには十分すぎる現象だった。

ある日の朝一番に、まだ寝巻き姿のままでナマエの部屋を訪れると、ナマエは簡素なベッドの上にうずくまって涙を流していた。

「…ナマエ。」

「メリンダさん、私、わたし、」

「何も言わなくて良いわ。急いでこれからのことを考えましょう。」

考えに考え抜いたメリンダの提案は、ここを逃げ出すことだった。そして、ブラックではない、父親の旧友の誰かに救いを求めるというものだった。

「お金さえあれば、母親1人だって子供は立派に育つわ。前例がいくつもあるから。もし誰からも助けてもらえなくっても、あなたには教養という立派な武器があるんだから。家庭教師でもすればきっと育てられる。でもここにいては駄目よ。赤ちゃんは殺されてしまうわ。」

それだけは絶対に嫌だった。父親が誰であれ、どういう経緯であれ、自分のお胎に宿った小さな命は、自分の子供だ。今のナマエにとって、唯一の家族でもあった。なによりかけがえの無い、守るべき大切なものだ。堕胎するという考えは、最初からこれっぽっちも芽生えなかった。

「私…わたし、どうしたら?」

ナマエの心に、決意という名前の小さな炎が灯った。何があっても、この炎だけは絶やしてはいけないと思った。

「病気だとか何とか言っても、きっと悟られてしまう。」

ナマエはごくりとつばを飲み込んだ。

「じゃあ、黙って逃げるってことですか?」

「それしかないわ。」

メリンダは深く頷いて、それからナマエの両手をギュッと握った。

「早い方が良い。今日の仕事はお休みして、荷造りなさい。」

「そうします。」

「夜中までに、当分のあてを探しておくから。その身体で野宿なんてとんでもないし。それから問題はお金だけど…。」

「それは大丈夫です。いざという時の為に、母の宝石をいくつか持ってますから。子供を1人産むくらいは工面できます。」

「そう。ごめんなさいね、力になってあげられなくて。」

「いいえ、メリンダさんにはすごく感謝してます。まるで母のように思っています。」

ナマエは心の底から言った。

「あなたは優しい人ね、ナマエ。あなたと会えなくなるのは寂しいけど…お腹の子と、2人の幸運を祈ってるわ。」

メリンダはナマエの部屋の片隅に置いてあったトランクを引っ張り出して部屋の真ん中に置くと、もう一度ナマエの手を握った。

「大丈夫、きっと何もかも上手くいく。」

その時だった。ノックもなしにドアが開いたかと思うと、かつてシリウスの教育係で今は秘書兼世話係をしている男が入ってきた。ナマエとメリンダは目を白黒させて彼を見たが、彼は何も言わずにナマエに近づいた。

「悪いがナマエ、それは出来ない。君がブラック家の跡取りを産むことは出来ない。」

「…ど、どうして、」

ナマエは急な展開に動揺して、メリンダの手を握ったまま少し後ずさりした。メリンダも呼吸を乱している。

「旦那様のご意向だ。」

「わ、若旦那さまも…?」

「ご存知では、ない。」

世話係は曖昧な言い方をした。そしてグッと腕を伸ばすと、ナマエの細い手首を掴んだ。

「嫌!放して!!」

「聞き入れろ!手荒なまねはしたくない。」

「なぜですか、どうしてですか。それならどうして若旦那様に避妊をさせなかったんですか!」

たまらず、メリンダが叫んだ。その男はナマエの手首をしっかりと掴んだままメリンダを一瞥したが、すぐにナマエに視線を戻した。

「その子は産まれてきてはいけない子だ。不幸の子供なんだ。」

「だったら!せめてナマエに」

「そんな議論は、もはや何の意味も持たない。」

冷静に言い放つと、眉を寄せてもがくナマエを見遣った。

「君は本当に良く働いてくれた。旦那様は退職金を弾まれるだろう。」

「そんな、そんなことって!彼女は普通の生まれじゃないわ!私達なんかよりもずっと上の…!」

「メリンダ、君も解雇されたいのか!」

ナマエは全てを悟った。このお腹に宿った小さな命の終わりも、この先の自分の運命も。しかし、それは受け入れるにはあまりに惨すぎることだった。どうしても抗いたかった。誰を怨めば良いのか、誰のせいでこうなったのか、ナマエには分からなかった。ただ、両親を火事で亡くしたあの時に感じた絶望と、似て非なる絶望を感じているだけだった。



その日、いつもの時間にナマエを見かけなかったシリウスは酷く動揺した。部屋に呼ぼうと思っても、普段取り次ぐはずのメリンダの姿も見えない。言いようの無い恐怖にかられて、真夜中を待って部屋を抜け出した。使用人の部屋は屋敷の一番暗くてじめじめした場所に集められている。普段は絶対に近づかないその場所は、雰囲気そのものが主であるシリウスを拒絶しているかのようだった。薄暗い廊下を早足で抜け、ようやく辿り着いたナマエの部屋。小さく薄汚れたドアの向こうに、彼女がいる。そう思うと、この汚らしい壁も美しく見えるから不思議だ。その時、窓の向こうに目をやったシリウスは驚いた。外出用のローブを身に纏ったナマエが、裏庭のケヤキの木の下に立っているではないか。それも、こんな時間に。シリウスは慌てて勝手口に向かった。


ナマエは、木の幹に手を当てて1人静かに涙を流していた。その眼は虚ろで、確かに何かを見ているはずなのに、なんの光も帯びてはいなかった。

「…ナマエ?」

小さな声で名前を呼ぶと、ナマエはようやく自分のテリトリに誰か入って来たことを知ったようだった。シリウスは、ナマエはどんなに具合が悪くても体調不良でも、自分に会ったら丁寧にお辞儀をして鎮立するものと思っていた。シリウスが主人なのだ。そうすべきだし、そうあるべきだと思っていた。しかしナマエは、まるでシリウスを無視するかのように顔を背けると、虚ろな眼でぼーっとするばかりだった。

「何をしてるんだ、こんな時間に。」

「そっくりそのままお返しいたします。」

次の問いには、ナマエは間髪入れずに答えた。

「見張らずとも、今夜中にお暇を頂戴いたしますのでご安心を。」

「…暇?」

シリウスは我が耳を疑った。ナマエは今何と言ったのか。


「この木は、変わらずここにあるというのに。」


ナマエは酷く寂しそうな声を出して、ケヤキ特有のざらざらとした木の幹に触れた。まるで我が子にするように、慈しむ手つきで撫でた。

「わたくしたちは、シリウス様、こんなにも変わってしまいました。」

また一粒、ナマエの目から涙が零れた。シリウスは混乱していた。ナマエの身の上に一体なにが起こったのか、検討もつかなかった。

「もう覚えておいでではないでしょうが、わたくしたちがまだ幼き頃、この木の下でお会いしたことがございました。」

忘れてなどいるものか。シリウスは口まで出かかった反論をどうにか飲み込んだ。

「素晴らしく退屈なパーティを抜け出して、わたくしは1人この木の下、同じように退屈から抜け出してきたシリウス様にお会いしたのです。」

シリウスはゆっくりと1歩、ナマエに近づいた。

「わたくしは、シリウス様があの日の約束を覚えておいでだと信じて、今日まで生きて来ました。両親を火事で喪い、こちらの御屋敷にお世話になると決まった時、わたくしはこれからの人生に一筋の光が差し込んだと思ったのです。」

ナマエはシリウスよりも素早い動きで、シリウスから2歩遠ざかった。

「全部わたくしの思い違いだったのでしょうか。憐れで惨めな女の妄想だったのでしょうか。使用人になり、思いもよらない辱めを受け、それでも守り信じてきたことは全て幻だったのでしょうか。」

ナマエは夢見るように言った。

「ナマエ、」

「名前を呼ばないで!」

ヒステリックに叫んだ声は、小さかった。シリウスは動揺を隠せなくなり、咄嗟に杖を抜いて構えた。

「その杖で、私をどうするつもり。また下劣な娼婦に堕落させるつもりなの!」

「いつから俺にそんな口がきけるようになったんだ。」

「さっきです!ついさっき!私はここをクビになった。もうあなたなんか雇い主でもなんでもないの!ただのキチガイ貴族よ!」

「誰もお前をクビにした覚えは、」

「知らないなら教えてあげるわ、世間知らずの伯爵代理。世界はね、あなたが思っているよりもずっと汚くて薄汚れていて醜いものなのよ!道徳なんてあったものじゃないわ。あなたが私への縁組を揉み消していたように!!」

シリウスは倍ショックを受けた。

「お前、知って…?」

「知っていました!私はあなたが思いもよらない長い耳と大きな目を持ってるのよ!」

ナマエは興奮気味に続けた。目には涙が飽和ぎりぎりまで溜まっていて、まばたき1つしたら零れ落ちそうだった。

「最後の希望も潰えた。驚くほどあっけなく。」

ナマエは自嘲すると自分のお腹に手を当ててシリウスを一瞥した。

「名前さえつけてあげられなかったのよ!」

「まさか…そんな、」

「とぼけないで!こんな、こんなひどいことをするなら…、 どうして、どうしてっ!?どうして、どうして、どうして!」

ナマエはワッと泣き崩れて、その場にしゃがみこんだ。シリウスは慌てて駆け寄ったが、伸ばした手はナマエに触れる前に振り払われてしまった。

「触らないでって言ったでしょ!」

「良いから立て。」

ナマエは勢いよく立ち上がると、青い顔に冷や汗を滲ませた。問うまでもなく、体調が良くないことが見て取れた。

「私は今宵生まれ変わったの。我が子を殺すという決して犯してはならない罪を犯して、魔女から悪魔になったの。もうなんにも恐くないわ。ここを出て、自由に生きる。」

「どこへ行くって言うんだ。」

「どこへでもよ!ご立派な変態貴族様に愛でられていたこの身体を売って、どこへでも行くわ!」

「お前、本気で言ってるのか。子供なんて、」

「子供なんて!本音が出たわね!子供なんて!!あなたにしてみれば子供なんてでしょうよ、ブラック伯爵代理。だけど私にとっては誰の種でもたった1人の大切な家族だったの!!」

そう叫ぶと、ナマエは裏門めがけて走り出した。

「待て!」

シリウスはほんの4歩ほどでナマエに追いついた。掴んだ手首はあまりに細くて頼りなかった。

「放して!」

ナマエは血相を変えて叫んだ。

「違う、そういうつもりでは、」

「やめてやめてやめて!やめて、やめてよ!私はもう使用人でもなんでもない!あんたなんかと二度と会わないわ!私の人生をめちゃくちゃにして!嫌い、嫌い、大ッ嫌いよ!!!」

「っ!」

爆音が響いた。一瞬のことだった。

あとに残ったのは、深い後悔とナマエの抜け殻だけだった。



「おじいさま…?」

突然涙を流し始めた祖父を見て、マーガレットはうろたえた。

「違う、そんなつもりじゃなかった。あんなことをするつもりはなかったんだ。私は本当は知っていた。彼女が、ナマエが私を信じて待っていてくれたことを。私が彼女に想いを打ち明ける日を、独り耐えて待ってくれていたんだ。それを知っていて、私は。とんだ卑怯者だ。彼女の優しさに甘えて、あんな、酷いことを。子供のことだって。」

シリウスは、マーガレットをぎゅうっと抱き締めたまま、言葉を続けた。

「私は最低の臆病者だ。」

「おじいさま。」

シリウスは、優しい眼差しを向けているマーガレットに気取られないようにそっと杖を抜くと、彼女のやわらかな髪に杖先を突きつけた。そして無言のまま呪文を唱えた。途端にマーガレットはトロンと目を緩ませて、それからぱたりと眠りについてしまった。

「マーガレット、君がこの記憶を取り戻すとき、私もナマエも老いに負けて死んでいるだろう。フロックスも、あるいは。その時どうするかは、成長した君に考え決めて欲しい。私の墓につばを吐いても良い。ナマエを想って涙を流しても良い。だけど、」

シリウスが言いかけた時、重厚なドアが開く音がして、車椅子に座ったナマエとそれを押すフロックスが入ってきた。

「お父さま。」

「ああ、お帰り。」

シリウスは慌てて目元の涙を拭った。

「お母さま、今日は調子が良いみたいよ。」

「そうかい。」

「だってね、お庭を見てたら口元がほら、少し緩んだりしたの。たぶん嬉しいんじゃないかしら。」

「それは良かった。」

「でもお父さま、本当を言うとね、私、一度で良いからお母さまに名前を呼んで欲しいの。フロックス、って。一言で良いから。」

最近フロックスはこうして母親を責めるような言動をするようになった。シリウスはきっと、この行為を通じてフロックスが自分の罪を勘繰っているのだと理解していたが、あえて無視し続けてきた。ここまで隠し通した己の罪を、今更自分たちの一人娘に打ち明けるつもりはなかった。フロックスは案の定シリウスを探るような目で見たが、すぐに視線を剥がした。

「マーガレットが、ほら。眠ってしまったみたいだ。」

「そうね。昨日は夜更かししてたみたいだったし。」

誰が言いつけたでもなく、メイドがやってきてフロックスをシリウスの腕から抱き上げた。そして、また別のメイドがナマエの車椅子を押そうと手をかけたが、シリウスがそれを制した。

「じゃあお父さま、また夕食に。」

「あぁ。」

シリウスはナマエを部屋まで運ぶと、そっと抱き上げてベッドに寝かせた。ナマエは虚ろな目をしたまま、天蓋を見詰めていた。

「ナマエ、」

髪に触れても肌に触れても、ナマエは叫ばない。笑みもしないし、照れもしない。

「ナマエっ。」

シリウスはまた涙がこみ上げてくるのを感じた。

「私は、なんて酷いことを君にしてしまったんだろう。君から君自身を奪っておいて、自分は可愛い娘と孫にさえ恵まれて。君に産ませた。何も分からない君に。」

ナマエはたらりとだらしなく涎をたらした。シリウスはそれをそっと拭って、それからナマエの横たわるベッドに額を擦りつけた。

「そうやって私を責めてるのか、ナマエ。」

すっかり衰えた腕をぎゅっと握り締めて、声を絞り出した。

「すまない、本当に酷いことをした。君の人生を丸ごと奪ってしまった。本当にすまない。できることなら、許されるのならナマエ、君の手で私の人生を終わらせて欲しい。」

その時、何か温かいものがシリウスの頭にふれるのを感じた。シリウスは、動揺のあまり自分のからだが大きく震えていることにも気付けなかった。恐る恐る、ゆっくりと顔を上げると、そこには見る影もなく老いたナマエが残酷な笑みを浮かべていた。その口が何十年ぶりに言葉を紡ぐ様を、シリウスは生まれたての小鳥のように無垢な目で見詰めた。


「今すぐ殺るわ。杖をちょうだい。」



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