あなたが一番哀れでしょうか。そうでしょうか。
これは悲劇なのですか。あなたの悲劇なのですか。

私はそうは思いません。頭の悪いあなたがいけないだけのです。

私は何も悪くありません。私は私の人生を生るだけなのです。



【物語、人魚姫における魔女】



昔々、でもそんなに昔でない昔、1人の魔女がいました。名前をナマエと言い、深い海嶺の入り口に住んでいました。人魚の世界では昔、ほとんどみんなが魔力を持っていました。しかし、歴代の王様が皆にそれを使うことを禁止していたので、魔法を使うことは最大の禁忌の1つとなっていました。そして自然と、その素晴らしい叡智にはカビが生えサビ付いて忘れ去られることになりました。中には、ナマエのように、それを宝の持ち腐れだと思って積極的に研究し使用する者もいましたが、それは異端でした。魔法がとっくに隠されてしまった地上の世界と同じ道を、海中の世界は形こそ違えど同じように辿っているのです。

ナマエは物語に出てくる魔女ですから、そのイメージ通り、いつも大鍋に向かい怪しげな薬を作っていました。おかげで辺りには常に変な匂いが漂い、人魚はおろか魚たちですら寄り付きませんでした。しかしナマエはそれを寂しいとは思いませんでした。何故ならナマエは、愛想笑いをして自分のしたいことを隠して大衆の中で生きることこそ独りでいるより遥かに辛くて苦しいことを十分に知っていましたし、もうずっと長いこと1人だったので孤独が何かを忘れてしまっていたのです。それに、たまに呪いや毒薬、研究を頼みに来る違法人魚や地上の魔法使いたち様子を観察したり一緒に自分たちの研究のことをおしゃべりする楽しみがあったので、そんなに退屈でもありませんでした。

ある日、ナマエがいつもの通り海の中の薬草畑の手入れと収穫を終えて家に戻ってみると、家の前に1人の女の子が漂っているのが見えました。どうやらお客さんのようです。

「あらあらいけない、お待たせしてしまって。」

ナマエがそう言って近寄ると、女の子はビクッと肩を震わせて恐る恐る振り向きました。女の子は驚いたように目を見開きましたが、ナマエはいつものことなのであまり気にしません。

「あの、この海に住む魔女の家を訪ねて来たんですが…。」
「間違いなくここですよ。」
「あの、ではあなたはお妹子さんですか?」
「いいえ、私が件の魔女です。妹子はおりません。取りませんの。もっとも今までに志願者は1人だって来たことはないんですけどね。」

ナマエは他人と話をすること事体とても久しぶりだったので、自分のちょっとした会話のセンスにも不安を感じていたのですが、幸いにして目の前の若い娘さんはそんなことに気を配っていられないほどとても興奮した状態でした。

「え?まさか!」

心底驚いたような素直な表情は本当に新鮮で、ナマエは思わずとも微笑みながら摘んだばかりの海草がぎっしり詰まった籠を家の入り口に置きました。

「あら、不自然に若すぎる?追放されてからもう何十年も経っているのに。」
「いえ、あの…。」
「構いません、皆さんそう仰いますからね。私は今はこの姿を気に入っているのです。さぁさぁ、どうぞ。遠慮なく。」

ナマエは女の子を家の中に招き入れドアにしっかりカギをかけると、奥の六角形の接客部屋へと導きました。部屋に入ると、ナマエはカーテンをピッチリと閉めました。部屋は一瞬にして暗闇に染まり、香の匂いだけが感じられました。女の子は怪訝な顔でナマエを見ました。きっと、何故昼間からわざわざ部屋を真っ暗にするのか分からなかったからでしょう。でも、何も言いませんでした。ナマエも聞かれなくてほっとしました。カーテンを閉めるという行為に、特に意味など無かったからです。

「今灯りを付けますから。」

 そう言って杖を振るって何本もの蝋燭に次々と灯していきました。女の子は目を丸くしてナマエの様子を眺めました。火のことは本で学んで知っていましたが、この水の中、一体どうやって?と目を凝らしてみました。でも分かりません。

「お掛けになって下さい。」
「あ、はい。」

いつの間にかあらわれていたお菓子の良い香りが辺りに漂い、部屋の中に充満していた不思議な香の香りと交わって、気が遠くなるほどでした。女の子は、もしかしたらこの匂いにも何か魔法がかかっているのかもしれないと思いました。

「いいえ、この香りに魔力はありません。私の趣味です。ご心配なさいませんよう。」

女の子はあまりにビックリして、一瞬椅子に座るのを躊躇うほどでした。考えていることが筒抜けで、恐怖したのです。しかしその恐怖はすぐに嬉しさに変わりました。これほどの実力がある魔女ならば、これから依頼する内容もきっと引き受けてくれると思ったのです。

「私の名前はナマエといいます。きっとご承知の通り、この海に住む魔女です。ここをお訪ねになったのならご存知と思いますが、私の生業は現在この国においては非合法です。王、つまりあなたのお父上ですが、あれは私のこの力を許可していません。」
「あ、あの…。」
「あぁ、あなたのことは存じ上げております。王の最後の娘。一番美しく、一番愛らしく、それゆえに一番自信に溢れ、一番輝いている姫。」
「そんな…。」

そう言って頬を染めるルイーズ姫は、若くとても美しいです。ナマエはゆっくりと優しい笑みを浮かべながら、手を伸ばしてルイーズ姫の頬を撫でました。スベスベとしていて、愛されて育てられたことが伝わってきます。

「さ、要件をお聞き致しましょう。長居は、あなたにとっても私にとっても不都合なことが多いでしょうから。」

確かにそうです。ルイーズ姫は様々な稽古を放ってお城を抜け出してきてしまったのです。もしかしたら、探しに来る者があるかもしれません。

「あの、私、私、」
「ゆっくりでいいですよ。それから、そんなに緊張しないで。私はあなたをとって食べたりしません。絶対に。」

ナマエは優しく、とても優しく言いました。ルイーズ姫はバッと顔を上げて勢い良く叫びました。

「わたくしを、ヒトにしてください!!」

姫はてっきり笑われるか驚かれると思っていましたが、ナマエはただ微笑んだだけでした。

「あの、出来ますか?」
「もちろんできますとも。」

ナマエの間髪入れない返事に、姫はとても嬉しくなりました。パアッと笑って髪をさらさらと海に委ねました。

「どうやって?さっそくやってください!」
「契約が必要です。」
「払えるものなら何でも払います。」

何でも、という言葉に、ナマエは気付かれないほどわずかに眉をしかめました。
それは、世間知らずの人にしか言えない言葉だからです。

「お言葉に二言はございませんね。」
「ええもちろん!」
「分かりました。では、奥へどうぞ。」

姫は、地下の洞穴のような場所へ通されました。
そこは上の部屋以上にどんよりとした水が漂っていました。

「さあ、そこへ。」
「はい。」

姫は尾鰭を優雅に翻して部屋の真ん中へと移動しました。その眩しいほどの身のこなしを、ナマエは少しだけ疎ましく思いました。

「両のおみ足代として、貴女の声を頂戴致します。」
「えっ、声、ですか…?」
「はい。嫌なら別のものでも構いませんよ。」
「例えば…?」
「目ですね。その場合は両方頂戴致します。」
「目!」
「嫌なら腎臓の1つでも。ちょうど欲しがっているものがいるのでまけておきましょう。」

声が一番良いに決まっていました。人間の言葉を話せない人魚が丘へ上がれば、野蛮で余裕のない人間のこと、わけのわからないことを喚く気の触れた愛らしいものとして特殊な趣味を持つ人間の慰み者として女郎屋へ売り飛ばされるか、もっと悪ければ嬲り殺されてしまうかもしれません。

でもナマエの優しい思慮深さは目の前のただ美しいだけの姫君には少しも伝わっていないようでした。あまりの対価に目を丸くして、そして恐怖するばかりでした。

ナマエが黙って見詰めていると、姫はようやくゆっくりと顔をあげ、そして頷きました。

「では、声を。」

ナマエは眉を上げて微笑むと、さっと立ち上がりました。

「契約成立です。羊皮紙にサインしていただいたら早速とりかかりましょう。」



そして全ては物語どおり、滞りなく進みました。

姫は泡となり海へ還り、姉姫君たちの髪をも手に入れたナマエは王に追放されながらもその命を握り、数多の追っ手を悠々と交わして姫と同じように同じ海岸へ打ちあがりました。

月明かりに照らされた、持って生まれたのではない尾の鱗がとても美しく輝いていて、ナマエは自分の尾の輝きを見詰めながら満足そうに頷きました。海の中では決して味わうことの出来ない夜風を浴びることは、陸にいたころの小さな幸せを思い起こさせてくれます。大気は甘くて濃い味がすることを、ナマエは海に暮らしてはじめて知りました。

そのとき、大きな黒犬を伴って一人の男性が急ぎ足でやってきました。ナマエを見るなり側へ駆け寄り、そして安堵したようにため息を吐き、その手をしっかりと握ってから隣に腰を下ろしました。

「ナマエ。」
「お久しぶりです、王子。」

2人は立場どおりの言葉遣いで、本来とはまるであべこべの必死さで挨拶を交わしました。

「いいかげん国に戻ってくる気になったか。やるべきことは終わったんだろう?」

岩の上にラフな格好で座したのは物語のキーマンであった王子様です。人魚で、しかも魔女で、面識がないはずのナマエの髪に手を伸ばしながら、恋焦がれた表情でキリキリと深刻に眉を寄せています。

「あらシリウス王子、お言葉でございましょう。あなたのお父上様が私を暗い海の底に追放したのをお忘れですか。」

ナマエが笑いながら言うと、王子は泣きそうに眉を顰めてナマエの濡れた身体を抱き寄せました。足元の犬がくんくんと悲しげな声を上げながらナマエの尾を舐めます。

「老害は排した。」

「あなた様の毒で。」

「ナマエもやるべきことは終わった、そうだろう。」

ナマエは高らかな笑い声を上げると、王子を腕の中から見上げました。

「ええ滞りなく終わりました、今やれることは全て。不自由な高貴の象徴、姉姫君たちの流れるお髪は独り残らず切り落としましたの。流行のお手本になる貴族の女性たちの間に短い髪が流行れば、海の中の民度は飛躍的に上がるのです。あんな髪、日常生活に追われる庶民には真似出来ない。真似出来ることが流行するということの重大さを、王子のあなたはご理解なさらないでしょうね。」

王子は適当に頷きながら、海水で絡んだナマエの髪を丁寧に梳きました。ナマエはちょっと眉を上げると話を続けます。

「シリウス王子様、目に見える身分の差がいかに恐ろしい力を持つかをご存知でしょうか。己が王家以外全ての魔法使いを殺しつくし国中を独裁しようと企んだ父を持つあなたには理解出来ないでしょうけれど。女の髪如き、ざっくりしただけで、国は簡単に変わることができるのです。私ははさみ一本で革命を齎したのです。」

王子はナマエの髪を撫でながら、ゆっくりと頬を寄せて目を瞑りました。ナマエの言葉を噛み締めながら、その意味を懸命に考えないようにしているようでした。

「…ひとつ悪いことをしたのはルイーズ姫ですね。焦がれたお相手があなた様でなかったら、あるいは助ける道もあったかもしれないのですけれど。」

ナマエがふふっと笑うと、王子さまもつられて嬉しそうにふふっと笑いました。そしてようやく顔を上げ、ナマエの鼻先でもう一度笑んで見せました。その笑顔は百万の言葉よりも今海草臭い腕の中の魔女がこの世のどんなものより愛おしく、そして大切だと雄弁に語っています。

ナマエにもそのことはきちんと分かっていましたが、それを表にも裏にも出すつもりはこれっぽっちもありませんでした。理由はさまざまありましたが、そのどれ1つもナマエ自身にだって説明出来ないものでした。両親を殺し、一族を殺し、同朋を殺したものの息子。女に生まれたら誰だってひと目で惚れてしまいそうなほど美しいヒト。それを手の平で転がしている感覚は、誰にも、ナマエにだって言い尽くせない感覚なのです。

「俺は昔も今もナマエしか愛してない。それに本当は海の中の彼の国がどうなろうと知ったことじゃないんだ。お前はそれを分かっているくせに、いつまで俺をあしらうつもりなんだ。」

「そんなに強く抱きしめたら生臭うございます。すっかり染み付いてしまいました。」

ナマエが形だけ王子を押し返しても、王子はそんなことは一切気にも留めずにじっとナマエの目を見詰めたまま興奮で少しかすれた声で囁きます。

「今度こそ、ナマエ。城に上がって欲しい。欲しいものはなんでも揃える。排して欲しいものもなんでも。俺を憎いと思っているならそれでも良い、側で償いをしたいんだ。」

王子の真摯な言葉に、ナマエはただ目を瞑りました。

「お言葉大変光栄に存じますけれど。」

「ナマエ!今更海にも戻れないはずだ。」

王子は必死にナマエの手を握り締めます。ナマエは、ナマエにも実のところ良く分かりませんでした。自分のいったいどこにこれほどまでに美しいヒトを惹き付けるものがあるのか。引く手数多のはずのこのヒトが、なぜ自分ごときにこれほどまでに執着するのか。もしかしたら誰かの呪いかもしれません。それならそれで素敵な発想だとナマエはひとり頷きました。

「シリウス王子、50年です。私は少し長く海中にいすぎました。とっても気に入ってしまったのですもの。もしかしたら私は愛しているかもしれません。」

「俺より?」

「あるいは。」

「本当にナマエは酷い女だな。」

王子はそう言うと、両の手でそうっとナマエの顔を包みました。そしてその淡い鈍色の眼でナマエの視線を縫いとめてしまうと、まるで死の呪いを口にするように、慎重に言いました。

「ナマエ、お願いだ。後生だから。城に上がってくれ。」

ナマエはしばらくじっとその目を見ていましたが、やがて小さく頷くとそっと視線を尾を舐め続けている犬へと移しました。犬は顔を上げるととても愛らしいつぶらな瞳でナマエとご主人を交互に観察しているようでした。

「冗談です。姫を殺して今更海に戻れもしないでしょう。そうですね、少なくともあの国王が死ぬまでは。それまでは行くあても無いことですし、ご厄介になろうと存じます。」

ナマエがわざとらしく言うと、王子はそれでもほうと安堵のため息を吐いてナマエの身体をぎゅうっと抱きしめ直しました。

「じゃあ今度俺は、ナマエを留めておくために不老不死の毒を研究しなければいけないわけだな。長生きさせる毒は、自然死に見せかける毒よりもずっと難しそうだ。」

「私に見せて下さいまし。あなた様の真実を。」

「言われずとも。」

その言葉を聞くと、ナマエはどこからともなく杖を取り出して自分の尾に滑らせ、ついでにさきほどまで不愉快な感触を伝え続けてきた王子の愛犬の身体を宙へ放り上げると、散り散り飛び散らせました。断末魔の一瞬の鳴き声と、血や肉の欠片が飛び散る音は確かに飼い主である王子にも聞こえたはずでした。しかし王子は何も言いません。ただ黙ってナマエをぎゅうっと抱きしめて髪を撫でるだけで、何も言いません。

ナマエは王子の腕の中で考えました。物語とは、誰を主人公にするかで美しくも汚くも面白くもつまらなくもなるものだと。

これがルイーズ姫の物語なら、悲恋かもしれません。ナマエのことも王子のことも良く知らないまま死ぬことが出来たハッピーエンドかもしれません。

では主人公が、魔女ならば。

これは恋のお話なのでしょうか、それとも復讐のお話でしょうか。それともどちらでもないか、あるいは両方なのでしょう。

結末はまだ先です。どう転ぶかはあなた次第よ、と心の中で呟いて、ナマエは美しい王子の強張った頬にそっと口付けました。


End?

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