ジェームズさんの大きいらしい御屋敷の隅っこに、私のおうちがある。ううん、お部屋がある。物置の隣だけど、ちゃんとしたお庭が見えて、私はとっても気に入っている。どうしてここに住んでいるのか、教えてくれた人は誰もいない。私と話をしてくれる人は、ジェームズさんとお手伝いのおばさんだけだから、その人たちが教えてくれないのなら、私は知る術を持たないのだ。それでも私は物心ついたときからこの空間に1人で住んでいて、しかもそれなりに満喫している。親、と呼ばれる人には会ったことが無い。別にそれを寂しく思ったことはないけど、会って見たかったなぁ、と思ったことはある。私がどうして親という存在を知っているかというと、ジェームズさんが持ってきてくれた本に書いてあったから。この大きいらしい御屋敷から出たことの無い私は、外の世界を何も知らない。だから自分の唯一の世界であるこの御屋敷についても、“らしい”という曖昧な表現しか出来ないのだ。それは、この世に存在している一個の生き物としてはとても情けないことだと思う。私の世界の全ては、ジェームズさんとおばさん、それにジェームズさんが気まぐれで運んで来てくれる本。
それで終わり。それが全部。

いつ死んでも未練もない私だけど、もし願いが1つだけ叶うなら、私は海が見てみたいと思う。絶対、ジェームズさんにもおばさんにも言えないけど、私は心の中でいつでも思っている。海、海、海。お庭にある池なんかよりもずっとずぅっと大きいんだろうな。どのくらいだろう。本で読んだ限りでは、海は大きくて広くて、この空くらいも広くて、青くて、別の世界に繋がっているそうだ。多くを望むことを許されていない私だけど、海だけは見てみたい。夢の中でもいいから、行って見たい。



「ナマエ。」

ジェームズさんだ。ジェームズさんが来た。私はジェームズさんが可愛いと褒めてくれる顔をして、お辞儀をした。

私が生きている間で恐ろしいことは、ジェームズさんに厭きられて見捨てられてしまうこと。ジェームズさんが私のところへ来てくれなくなってしまったら、私は生きていけない。

「また空を眺めていたの?」

「はい。」

「ナマエはいつでも空を見ているね。」

「はい。空を眺めるのはとても素敵なことです。」

海を思い浮かべられるから。言わないけど。

「そうか。久しぶりに、僕の部屋に来る?」

「宜しいんですか?」

「もちろんだよ。今日は母上もいないからね。おいで。」

「はい。」

ジェームズさんは私の手を引いて私のお部屋から連れ出してくれた。大きな、私とは違う手。男と女。私は知っている。その違いを。

「今日はね、ナマエに贈り物があるんだ。」

ジェームズさんは、嬉しそうに言った。私は、苦しくなった。贈り物を受け取るたびに恐ろしくなる。ジェームズさんが贈り物を下さる時は、たいていその後ずっと会いに来てはくれないからだ。いつか、いつの日かジェームズさんが私のことなんてきれいに忘れてしまう日が来る。それがとてもとても恐ろしくて、私は苦しくなる。

「どうしたの?」

「ジェームズさん、私とっても恐い。」

「恐いことなんかあるものか。さ、お入り。」

私に拒否権は、ない。どんなに嫌でも、はい、といい子の御返事をしなくてはいけない。襖を開けて、部屋に入ったら、色とりどり極彩色の着物がたくさん置いてあった。

「ジェームズさん。」

私がジェームズさんの顔を見上げると、ジェームズさんは笑っていた。私が困った顔をしているのを見て、ちょっと困った顔をなさったけれど。

「すごいだろう?全部ぜんぶ、ナマエの物だよ。」

「そんな。」

見たことも無い着物の枚数。私が今持っている全ての着物よりも多かった。こんなに頂いてしまったら、今日からどのくらい待たないとジェームズさんに会えないのだろう。そう考えて、また恐ろしくなった。

「さあ、どれでも手に取って、羽織って見せて。」

「そんな、ジェームズさん、出来ません、私。」

「遠慮はいらないよ。どれ、僕が着せてあげよう。」

ジェームズさんは私を手招きすると、奥の屏風の向こう側まで連れて行った。帯を解かれる間、私はおとなしくおしとやかに思慮を巡らせた。これは、いよいよかもしれない。ジェームズさんは、もう二度と私に会ってはくれないのかもしれない。そんなつもりなのかも。それで、私が騒ぎ出さないようにたくさんの綺麗なものを私に与えて、黙らせるつもりなんだ。私はどうしよう。泣いてはいけない、騒いでもいけない、ただ笑って、うなづく。いい子の御返事をする。これだけだ。それ以外の何も、私に認められてはいないのだから。

「これがいいだろう。どう?」

「月のものみたいな色。とても素敵です。」

「月のものなんて言ってはいけないよ。これは朱。」

「はい、ジェームズさん。」

最後なのに、間違えてしまった。夕焼けみたいな色、って言えば良かった。どうして私はこんなに馬鹿なんだろう。私がこんなだから、ジェームズさんはこんななんだ。

「思った通り、すごく素敵だ。」

ジェームズさんは、魔法を使わず、手ずから無駄の無い動作で私に着物を着せ終わると、満足げに眺めて頷いたりしていた。泣いてはいけない、泣いてはいけない。私は心の中で、呪文みたいに繰り返す。

「ありがとうございます。」

「うん。そこへ立って、くるりと回ってちょうだい。」

「はい、ジェームズさん。」

私は言われた通りにくるりと回って見せた。ジェームズさんは益々笑みを深めて、また私を手招きした。

「おいで。」

私を腕で包むと、ふうっと息を吐かれる。温かい。人という生き物は、こんなにも温かいものなのだ。炬燵とも火鉢とも違う温かさ。これを知れただけで、私は幸せと思わなければならないのかもしれない。

「…どこか、」

「ん?」

「どこか、遠くへ行かれるのですか?」

聞いてしまった。私はいけない子だ。ジェームズさんが尋ねられた時だけ、答えればいいのに。

「行かないよ。おかしなナマエ。」

「ごめんなさい。」

「ただ、」

嫌な予感が止まらない。心臓が壊れたみたいにどくどく言った。


「もうナマエには会えなくなるかもしれない。」


やっぱり。

「僕はね、結婚するんだ。奥さんをいただくんだよ。分かるかい?」

「それでは、ジェームズさんは親になられるんですか?」

「ゆくゆくはそうなるだろうね。」

「この御屋敷を出て行かれるんですか?」

「いいや、僕は嫡子だからこの家を継がなければならない。」

あぁ。それでは、私が出て行くのだ。

もしくは、あるいは、無。


私はいよいよ恐ろしくなって、震えが止まらなくなった。こんな私でも、終わりが恐ろしいのだ。多くのものがそうであるように。ジェームズさんは、そんな私の震えを止めるように腕に力を入れた。

「ナマエ、何か欲しいものはある?食べたいものは?」

「な にも、ございません。」

「遠慮せずに言ってごらん。」

「なにもございません。」

二度目ははっきり言うことが出来た。ジェームズさんは少し悲しそうな顔をして、でもすぐに隠してしまった。

「言ってごらん。そうだ、ここにある本を全部あげよう。それから、ナマエが好きな金平糖を用意させよう。それから、」

「着物も本も金平糖も、ナマエは望みません。」

「では何が欲しいの?あまり僕を困らせないで。」

困らせてしまった。でも、本当に欲しいものを言ったらジェームズさんはもっともっと困ってしまう。だから私は嘘をつく。自分に正直になったことなんて、人生で一度だって無いのだから、それはひどく今更な話だけれど。

「ナマエ。」

「はい。」

「ナマエ、僕と会えなくなったら寂しい?」

「もちろんです。」

「そっか。ごめんね。」

「はい。」

奥さん、奥さん、奥さん、奥さん、奥さん。私からジェームズさんを奪ってしまう人。私の世界、つまり、ジェームズさんとおばさんと本、それから空。その大部分を占めるジェームズさんを奪ってしまう人。どんな人なんだろうか?物語に出てくる姫君のような人なんだろうか?

「ナマエ、僕に何か言いたいことがあるなら言って御覧。何でも構わないから。」

「では、奥さんになられる方のことをお尋ねしても?」

「あぁ、僕の奥さんになる人?リリーって名前でね、ナマエと違ってすらりと背が高くてね、ナマエと違って緑色が良く似合う人。」

「リリー、さん。」

「そう。僕はナマエが知っている通り、ナマエくらい小さい方が好きだしナマエみたいに赤が似合う人が好きなんだ。だけど、」

聞きたくない。私は笑って顔を背けた。ジェームズさんは、そんな私を察してくださったのか、それ以上何も言わなかった。

「ナマエ、他には無いの?」

「聞いて下さるのでしたら。」

「もちろんだよ。」

どうしようか、言ってしまおうか、言ってしまおうか。

「本当に何でも聞いて下さいますか?」

「何でも。何時間でも。」

言ってしまおう。

「ナマエは、本当は全部知っていました。私がジェームズさんのお父さんの隠し子だといことも、お母さんが私を生んですぐに死んでしまって、だから仕方なくここへ引き取られた迷惑の子だということも、ジェームズさんが本当は半分お兄さんだということも。全部全部、ジェームズさんのお母さんが教えて下さいました。ナマエはずっと海が見てみたいと思っていたのですが、やめておきます。私なんかに、海も眺めて欲しくは無いでしょう。空には、毎日謝っていました。だから許してくれるとは思いますが。私は空を眺めながらいつも眺めてごめんなさいって言っていたんです。ご存知でしたか?」


私はジェームズさんの腰にささっていた杖を抜いた。ジェームズさんは何も言わないし、何の動作も起こさない。あぁ、何て下らない人生だったんだろう?死に対する今この瞬間ですら、生を請われることすらなく。もっと早くに終わりにしてしまえば良かったんだ。それなのに、僅かな、希望とも呼べないものに縋って、醜態をさらして。なんて、惨めな、わたし。

「ナマエ、」

「一度でいいから、一緒に町を歩いてみたかったです。一度でいいから、お兄さんと呼んでみたかったです。一度でいいから、」

もう、何も言うまい。

ジェームズさんの重荷になってしまうだけだ。
もう何も言わず、黙っていこう。


「ジェームズさん、さようなら。」

私には似合わない、緑色の閃光、それが私の世界の終わり。



さようなら、ジェームズお兄さん。


【一度でいいから】


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