【神様のシエスタ】 5年生・冬



ガラリとドアを開けた。埃と汗とマーガレッタの安っぽい香水の匂いが混じり合って鼻についた。吐き気をもよおしそうな匂いだった。私は、実際に少しの嘔吐感を飲み込んだかも知れない。

濃い闇に包まれた教室に誰が入ってきたかなんて、独り壁に寄りかかって座っているシリウスにはあんまり関係ないことみたいだ。驚いたことに。先生だったらどうするつもりだったんだろうと一瞬思ったけど、彼にしたらたぶん本当にあんまり関係ないことなんだろう。シリウスはこう見えてもすごく優秀で有能で頭が良くて狡猾だから、まぁ妥当なこと。私にしては珍しく、えらく素直に彼を評価したけど、これは決して過大評価なんかじゃない。

そのシリウス様は私なんかには目もやらずに、シャツをだらしなく肌蹴させたままぼんやりと私が入ってきたドアのあたりを眺めていた。その目には月明かりどころか生気すら宿っていなくて、少し恐かった。シリウスがこのまま死んじゃうんじゃないかと思うくらいには。彼が生きているかどうか確かめる手段はあれこれあるけれど、私は今、そのどれもする気が起きなくて、ちょうどシリウスを見下ろす位置に立って足を止めた。ここまでくると、最近強くなったシリウスの香水の匂いがする。マーガレッタの香水の匂いと混じって、本当に最悪だった。頭が痛くなりそう。

ちなみにマーガレッタというのは、ホグワーツで一番胸が大きいと名高いレイブンクローの才女だ。成績優秀、品行方正、真面目で先生受けが良いって評判だったのに、あっけなく、あまりにあっけなくシリウスの毒牙に捕らえられてしまった。たったの1ヶ月で、ホグワーツで一番娼婦の雰囲気を醸し出している女子生徒になってしまったのだ。私はそれが「許せない!」と騒ぐほどマーガレッタのファンでも友人でもないけど、まぁ人並みの嫌悪感はある。

こいつ最低ー、くらいには。

「シリウス。」

私が小さい声でシリウスの名前を呼ぶと、シリウスは微かに空気を吐き出して答えた。

「風邪ひくよ。」

それでもシリウスは何にも言わない。私はふぅと息を吐いて、そばに落ちていたシリウスの大きなローブをバサリと膝の上に落とした。ふわふわと埃が舞って、まるで聖書に出てくる未確認物質のようにキラキラと輝くのを見た。こんなものを吸い込んだって、御加護どころかクシャミかせいぜいせきが出るだけなのに。

「今何時?」

ようやくシリウスが口を開いたかと思うと、今まで行っていたであろう行為の名残を払拭するようにシャツのボタンをきちんと閉めはじめた。胸元整えれば全て整う。着付けをするときの合言葉だ。首から胸は、顔よりもむしろ人の目が行くところだからきちんとしていなきゃいけませんよ、って意味らしい。

「1時ちょっと前。ねぇ唇が真っ青。」

微かに上げたシリウスの顔は、先ほどの恐ろしさなんて足元にも及ばないくらいに恐かった。だって透き通って消えてしまいそうなほど真っ白で、むしろ青かった。もちろん美しかったけど、それ以上に恐ろしかった。そう感じた次の瞬間、考える前に身体が動いてしまった。両手を伸ばして触れたシリウスの頬は氷のように冷たく冷え切っていた。まるで今の彼や私の心そのままのように。

「お前も、手、冷たい。」

シリウスはそう言うと、それでも私の手を振り払うような真似はせずにそのままじっとしていた。

「シリウス、マーガレッタは?ちゃんと送った?」

「知らない。気付いたら居なくなってたから。」

何と言う言動。開いた口が塞がらないというのはこのことだろう。私はシリウスの頬を包んでいた両手を急いで剥がしてローブの中にしまった。酷く汚いものを触ってしまったような気がしたし、自分が酷く醜い同情心に似た感情をこの男に抱いてしまっていたような気がした。そんなもの、値しない男だ。シリウス・ブラックは、それだけ非人道的な所業を行っていると断言出来る。

「シリウス、自分が何言ってるか分かってる?」

「なんとなくは。ねぇマギー、そんなことより今のもう1回やって。」

シリウスはちらりと私を見上げた。

どうしてシリウスがそんな目をしているのか、私には分からない。たくさんの女の子とたくさん色んなことをやって、それでどうしてそんなに寂しそうなんだろう。私は何度も何度も、たった1人を大切にする方がずっとずっと効率的に温まれる方法だと思うんだけど、どうにもシリウスには理解出来ないようだ。

成績だってシリウスの方がずぅっと良いのに。変なの。

「今のって?」

「手、こうやって。」

「嫌だよ。」

シリウスはまた少し悲しそうな顔で私を見た。

「なんで?俺きたない?」

「うん、そうだね。」

私がはっきり言うと、シリウスは「そっか。」と頷いた。

ねぇシリウス、あんた間違ってる。

「なぁマギー、マーガレッタのこと見た?」

シリウスの今度の質問の意味はすぐに分かった。ここへ来る途中に会ったかという意味じゃなくて、変わってしまった姿を見たかという意味だ。

「見たよ。」

「あれ、どういうつもりなんだと思う?」

「シリウスのことが大好きだから、自分の気持ちに見合うだけシリウスにも自分を好いてもらおうと努力した結果だと思う。」

もう何度、あと何回、このやりとりを繰り返すんだろう。まるでお芝居の稽古みたい。分かっててやってる私は、きっと誰より滑稽だ。

「俺ってあんなに馬鹿げた女が好きだと思われてるの?」

「ホグワーツの大多数の女の子にね。」

「あんな娼婦もどきみたいなのが好きだって?」

「いかにも。」

シリウスははぁぁ、と溜息を零した。溜息を零したいのは私の方なのに。シリウスを見ているとつくづく嫌な気持ちになる。例え私がシリウスを愛していたとしても、この気持ちは払拭できない。

「マーガレッタなら大丈夫だと思ったんだけどなぁ。」

「今度こそ、って?それ何度目?」

「分かんない。体中の指を使っても数えられないことは確かだけど。」

シリウスは、本当に哀れだ。哀れで愚かで惨めだ。

「シリウス。」

私は、精一杯大切に彼の宝石のように輝く名前を呼んだ。シリウスは「うん。」と言って私を見る。きらきらと輝かない瞳がこちらを向いている。すごく嬉しい、嬉しいけど、憎い。

「マギー。」

シリウスに名前を呼ばれると、私の心は勝手に躍りだしてしまう。抗えない。どうやっても。

「…うん。」

やっとのことで返事をすると、シリウスは私の手首を引っ張って私を抱き寄せた。広くて大きなこの胸を、一体何人の女の子が知っているんだろう。髪を撫でる大きな手も、耳をなぞる繊細な指先も、虫歯になりそうな甘くて苦い声も、一体何人の女の子が。

「抱かせて、マギー。」

いつの間にか羽織っていたローブは冷え切っていたけど、でもやっぱりシリウスは生きていた。その他大勢の女の子と同じように、やっぱり私の耳を触りながらそっと囁いた。鳥肌が立つ。背筋がゾクゾクして、気が狂いそうになる。シリウスの指先は、ベッドの上で何度も何度も想像したものよりずっといやらしかった。

「俺、マギーとなら上手くやれる気がする。」

「無理だよ。」

私がすぐに答えると、シリウスは驚いたように私の顔を覗き込んだ。断られたことなんて、きっと片手で数えるくらいしかないんだろう彼ならではの驚き方だった。

「何で?マギー、俺のこと嫌い?」

「大っ嫌いだったら、あるいはシリウスの言うように上手くやれたかも。」

「…どういう意味?」

「私がシリウスを愛してるって意味。」

私が素直に言うと、シリウスはちょっと嬉しそうに微笑んだ。そんな顔するなら、私だけを見てよ。私だけを見て、私の名前だけ呼んで、私の唇にだけキスして、そして私だけを抱いて。私の葛藤なんて我関せず、シリウスは私の首筋にそろりと舌を這わせた。途端に背筋を奔る恐怖。私は確かにシリウスを愛してる。感じないって言ったらそれは嘘だ。でもそれ以上に、恐れ慄き渦巻くものを持っているのも確かだった。

「やめて。」

ぐいと肩を押しても、シリウスは顔を上げなかった。

「どうして?」

済し崩しにやるつもりなんだ。そう悟ったら急に悲しく悔しく虚しくなった。

「やめて。」

さっきよりも随分冷たい声を出したら、シリウスが急に弱ってしまった。

「きたないから?」

「ちが…、そうじゃない!」

ちいさな声でそう尋ねるシリウスは本当に哀れで、私は少しだけ罪悪感にまみれて泣きそうになった。でも泣いたら駄目だ。ますます他の女の子と一緒になってしまう。

「そうじゃない、けど、シリウス、駄目なんだよ。だって私はシリウスが大好きだもん。マーガレッタや、その他大勢の女の子と何にも変わらない。」

「マギーはマギーだ。」

「それは、まだ抱いたことないからだよ。それをしちゃったら、たぶん、私はあの人たちと一緒になって私はシリウスに捨てられないように必死になる。そしたらシリウスの中にある私の思い出の引き出しが、学生時代にヤった女の1人、に分類されちゃって、きっと顔も思い出してもらえなくなって忘れられるんだよ。私そんなこと耐えられない。そんな風になるなら、今の立ち位置のままでいたい。」

シリウスが大好きだから。愛してるから。

出掛かった言葉を飲み込むと、シリウスは私の首に顔を埋めたまま本当に悲しそうな声を出した。

だけど、否定はしなかった。

シリウスはきっと寂しいんだ。大きくて立派な花壇の一番真ん中で手に余るほどの大輪の花をいくつも咲かせているのに、根っこはスカスカ。そんな草が、シリウス・ブラック。だからいつでも不安定で、自分を支えてくれる確かな何かを探してる。その何かを持っているのが、どうして私じゃないんだろう?この人の空虚を埋められる力が欲しかった。考えたってしょうがないけど、それが堪らなく悔しい。

私にだって、って思ったことが無いわけじゃない。だけど、どう頑張ったって努力の限りを尽くしたってシリウスがもっと荒んで行くのは目に見えてた。だから決めたんだ。私がシリウスの最後の砦になる。絶対に抱かれてあげないし、キスもしてあげない。私は私のやり方でシリウスを愛するし、守ってみせる。

少なくとも、これ以上凍えてしまうことは無いように。私の幸せは、その後新たに探したって遅くはない。

「じゃあ俺はどうすれば良い?本当に辛いんだ、すごく。マギー、」

それ以上聞きたくなくて、私は大きく首を振った。重たいシリウスの体をなんとか離して、氷のように冷たくて大きなシリウスの両手を握った。せめて、一瞬でも温めてあげられたら。

「大丈夫、きっと大丈夫だよ、シリウス。」

シリウスは自分の手と私の手を見詰めて、それから私を見上げた。シリウスは子供みたいに無垢に泣いていて、私は思わず少し笑ってしまった。なんて可哀想、だけどとっても可愛い。手を解いて涙を拭って、それから両手でシリウスの眼を塞いだ。大丈夫だよ、シリウス。きっと大丈夫。

「シリウス、神様は今、お昼寝してるんだよ。もうすぐ目覚めて、それで可哀想なシリウスを見つけて、救って下さる。」

シリウスのとろとろと温かい涙で、私の両手がしとどになった。このまま浸透して、私の一部になってしまえ、涙。

「これはさ、今のこれはさ、シリウスがあんまり美しく生まれてきたことへの対価なんだよ。美しい顔や優秀な脳みその分、あがき苦しんで思考の海で溺れもがきなさい、って。」

私がそう言うと、シリウスはあきれたようにちょっとだけ笑った。

「それで昼寝しちゃったってわけ?あんまりだ。」

「そうだね、あんまりだ。」

だから私も、一緒になって少しだけ笑った。シリウスの眼は今私が塞いでいるから、シリウスには絶対に見えないから、私は同時に少しだけ涙を流した。

「だけど、ううんだからこそ、もうすぐ苦しんだだけの幸せがやってくる。こんなことがいつまでも続くわけないよ。」

色んな意味で。
だって、シリウスは自分の周りでどれだけの人が傷付いてるか知らないから。

「そうかな。」

「そうだよ。シリウスは確実に最低だけど、まだ辛うじて最悪じゃない。」

「…。」

見えてないけど大きく頷いた。笑いながら泣く私に、シリウスはきっと気付いていたと思う。だけどわざと大きな声を出して笑って、無視してくれたんだ。ありがとう、シリウス。大丈夫だよ。

「さぁ涙を拭いて、寮に戻ろう。本当に風邪ひいちゃう。」

「うん。」

急いで涙を拭って、2人で立ち上がった。繋いだ手はまだ涙で濡れていたけど、手を放して、おのおの寮に戻る前には乾いてしまうだろう。そしたら私は丁寧にこの時間を全部残らず夢にして、神様に届けるのだ。


シリウス、美しい人の名前。

どうぞお昼寝中の神様、彼の名前をお見知り置き下さい。


End?

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