No.23



【マスカレイドの夜に】



「ふんふん、それから?」

「そしたら蒸して出来上がり。意外と簡単でしょ?」

クリスマス・イヴ前日。普段就活やら試験やらに追われている最高学年生たちは思い思いに明日の衣装や仮面の用意をしたり友人たちと寛いだりしている。

ナマエは、リーマスと2人で必要の部屋にいた。朝ご飯を食べ終えてリリーはジェームズとデート、ピーターは補習、シリウスはチェス大会の予選にそれぞれいそいそと出掛けてしまったのだ。残されたナマエとリーマスは、かねてから計画していたお菓子作りを遂行すべく厨房へ忍んで行ったのだが、明日明後日の食事の用意でてんやわんやの屋敷しもべ妖精に無理なお願いをすることも出来ず、結局ここへ落ち着いたのだ。

「あとは何作ろうか?」

「ザッハトルテでしょ、ダックワーズでしょ、お饅頭。このあたりで良いんじゃない?」

「じゃああとゼリーも作らない?ナマエ好きでしょ?ちょうどオレンジをたくさんもらったことだし。カットオレンジのゼリー寄せでも良いな。」

リーマスは嬉々として計画を練っているが、ナマエはちょっぴり不安だった。ザッハトルテだけでも素人が作るにはかなりの難関なのに、少し欲張りすぎではないかと思ったのだ。その上リーマスは普段食べる専門で作る方はほとんどやったことがないという紛れもない初心者。ナマエの方も、初心者指南者としてはかなり怪しいものがあった。

「ま、あまり気張らず行きましょうよ。じゃあまずはザッハトルテから。」

山のようなチョコレートを刻み湯煎にかけながら、2人は他愛も無い話を次から次へとした。最近読んだ本が全部ハズレだったとか、レイブンクローの誰それと誰それが付き合ってるだとか、天気の話まで。リーマスはのんびりとしているようで本当に聞き上手話し上手だ。ナマエの口は良く回り、まるでご機嫌な呪いにでもかかったようにお菓子作りの手の方も良く動いた。


ザッハトルテを順調にオーブンに押し込んで、ナマエは続いてダックワーズのタネ作りに取り掛かった。リーマスは隣でちょっと危なっかしい手付きでオレンジの皮を剥いている。

「ああ良い匂い。」

アーモンド粉をふるいにかけながらナマエが大きく息を吸い込むのを見て、リーマスもにっこりと笑った。

「とっても良いオレンジだよ。ちょっと味見してみようかな。」

ぷりっと剥かれたオレンジを神経質にお皿に並べていくリーマスを横目でちらっと見ながら、ナマエはわざとむくれて見せた。

「しても良いけど、お砂糖は入れすぎないでね。リーマスはあとで別に甘ーい生クリームをたっぷり別盛りすればそれで良いでしょ。」

「念押さなくても分かってるってば。僕ってそんなに信用無い?」

「さっき私の目を盗んで生地にカップ山盛り一杯砂糖追加しようとしてたのはどなたでしたっけ。」

「その方が美味しいと思ったんだ。」

真面目な顔で肩を竦めるリーマスは、ちっとも悪びれた様子がない。ナマエが目を光らせなければ、悪気の破片も持ち合わせず何度でも同じことを繰り返すだろう。

リーマスが最後のオレンジに手をかける頃、ナマエはダックワーズのタネを、オーヴンシートの上に次々絞り出していた。この形のダックワーズを考え出したのは、実は日本人らしい。それまではケーキの底などに使われていただけだったこのサックリ魅惑的な生地を最中に見立てたのが始まりだとか。いまや世界中でごく当たり前に愛されているこのフランス菓子のダックワーズが実は日本人の発想だったなんて、ナマエは知ったときとても驚き、そしてちょっと嬉しかった。その話をリーマスにすると、「甘いものは国境を越えるね。」と嬉しそうに頷いてくれて、ナマエはますます嬉しくなった。

「そう言えばリーマス。聞いてもいいかしら。」

オレンジを剥いているリーマスを見て最初に思い出したのは、夏の日のシリウスとのひとこま、木漏れ日と可愛い双子。次に思い出したのは、先日言われた言葉だった。

「なんでもどうぞ。」

ザッハトルテのフォンダン用にまたチョコレートを溶かしながらナマエがたずねると、隣で同じくゼラチンを溶かしているリーマスは優しく頷いた。ザッハトルテは上手に焼きあがった。後はいかにたっぷりアンズのジャムを塗り、いかに美しく表面をフォンダンでコーティングするかという問題だ。どうやら無事にお饅頭まで手が回りそうだった。お饅頭とは言っても、中に入れるあんこは母から送ってもらった既製品なのでそちらは簡単に出来上がるだろう。

「リーマスは、狼になってるとき鼻が利くでしょう?気を悪くしないで教えて欲しいんだけど、ヒトのにおいってどんなかしら。」

思いがけない質問に、リーマスは個々のグラスにたっぷり詰めたオレンジの上からゼラチン液を流し込む手をぴたりと止めた。少しの沈黙の後再び手を動かし始めたリーマスは、目の前のオレンジだけを見詰めながらうーんと唸る。気を悪くしたわけではないようだったので、ナマエは少しだけ安心した。

「僕は人狼だから、他の生き物が、例えば犬とかがどうかは分からないけど、僕があの姿に身を窶してるときヒトっていうのは凄く、なんて言ったらぴったりくるか…、そうだな、猥雑なにおいとでも言ったらいいかな。そんなにおいに感じるんだ。」

「猥雑?」

ナマエがリーマスを見ると、リーマスは少し笑って頷いた。

「他の獣の方が臭いで言ったら強いよ、獣臭いって言葉通り。だけど、ヒトのにおいってそれとは全然違って…うーん、なんて言ったら良いのかなぁ。」

「それって臭い?」

ナマエが真剣な顔で聞いてくるので、リーマスはちょっと困惑した。

「誰かに何か言われたの?」

リーマスは、また優しく尋ねる。ナマエは、心の本当に深いところが傷ついたとき、リリーでも母でもなくリーマスを頼ってきた。誰よりも傷付いているリーマスは、絶対に間違えてナマエの傷に触れたりしないことを知っているからだ。ナマエはそれは甘えであるときちんと自覚こそしていたが、自覚したところでこれ以上ないリーマスの優しさに甘えることを簡単には止めることはできなかった。

「フィレンツェではないケンタウルスがね、フィレンツェに言ったの。念入りに水を浴びろ、ヒトの臭いが移れば君はただの家畜ですよって。フィレンツェは帰り際に私に、ケンタウルスは別に鼻が利く生き物ではありませんって言ってくれたけど、私とっても気になっちゃって。」

ナマエが早口に一気に言うと、リーマスは「手が止まってるよ。」と指摘してからまた少し考えた。なんと答えようか思案しているようにも見えたが、手元のゼラチン液の量を均等にするのに躍起になっているようにも見えた。

「…ヒトのにおいって、生き物としてのにおいだけじゃないだろ?シャンプーだったり香水だったり衣類の洗剤だったり、食べ物以外の科学的な物質のにおいが入り混じってる。それは鼻が利くものにとってはけっこう辛いことなんだ。ケンタウルスも森の中で暮らしててそういうにおいとは無縁だからね。そういう意味で言ったんじゃないかな?」

リーマスの言葉は澱みないものだった。ナマエは曖昧に頷いて、それからちいさな声で答えてくれたリーマスにお礼を言った。

「シリウスにも同じ質問を?」

全ての器を冷蔵庫に入れ終えひとまずあたりを片付けながら、リーマスはおまんじゅうの下準備に取り掛かっていた。レシピ通りの分量の薄力粉やふくらし粉を次々とふるいにかける姿は、この短時間ですっかり板に付いたようだ。

「んん。シリウスには言ってない。」

リーマスがにちゃにちゃぐちゃぐちゃと手で皮をこねるのが嫌だと主張したので、粉をふるい終わった時点でナマエと交代した。神経質気味になっているリーマスの方がチョコレートのコーティングは完璧にこなしてくれるだろうと思ったのだ。

「そっか。でもなんだか僕の方がちょっと気になってきたよ。シリウスだって犬になれるからね。今度聞いてみようかな。そう言えばナマエは?カラスになってるときどんな感じ?」

今度はナマエが考える番だった。

「目がね、とっても不思議なんだけど、全く別の色として個々が美しく鮮明に見えるの。私は専門的なことは分からないけど、4色型色覚と言うらしいわ。ヒトは3色型色覚なんだって。カラスは紫色に敏感なの。だから黄色に疎いんだけど。耳も、ヒトでいるときとは違うんだけど、でもちゃんと聞こえるし、鼻も良く利くし、もしかしたらヒトのときより便利かもしれないわ。」

ナマエの説明に、リーマスは興味深気に聞き入った。

「アニメーガスって面白いねぇ。今度ピーターなんかにも聞いてみようよ。」

そのとき、不意にドアが開く気配がして、リリーとジェームズが言い争いながら入ってきた。

「あら、早かったのね!」

ナマエが両手生地だらけのまま振り返ると、リリーはそっぽを向いたまま「まぁね。」と簡潔に答えた。

「なんだい、喧嘩したの?」

リーマスが呆れたように言うと、2人は同時に「だって!」と叫んだ。

「まぁ良いけどさ、2人とも、僕らの作業が全部完璧に終わるまでどっか行ってるか良い子にしてるかしててよ。さもないとさ、酷いよ。」

リーマスに言われ、2人はぴたっと言い争いをやめた。リーマスはにこにこして静かな物言いをするときが一番恐ろしいのだ。



***



「酷い話だ、誰も、ただの一度も、顔すら見せてくれないんだから。」

「チェスは孤独な戦いだって、自分で言ったじゃないか。」

「集中してるとこ邪魔しちゃ悪いと思ったんだ。」

「だってチェスって1試合1試合が長いんだもん。」

「予選通過おめでと。」

ジェームズは箒を磨きながら、ピーターはリーマスが作ったオレンジのゼリー寄せを頬張りながら、リリーは爪を磨きながら、リーマスは自分用に特別砂糖を混ぜたあんこで作ったお饅頭を両手に持ちながら思い思いに適当なことを言った。

「ちぇっ。それでナマエは?」

シリウスが切ない気持ちで最愛の人を見遣ると、最愛の人もまた、友人に頼まれた明日のヘッドドレスの仮縫いをほどくので一生懸命だった。口には大きな棒つきキャンディが咥えられている。

「ふぇっ?」

シリウスが打ちのめされた表情でソファに崩れ落ちると、ジェームズがくすくす笑って「ごめんごめん。」と謝罪しながらシリウスの肩を抱いた。

「だってシリウスきっと予選はさらっと通過しちゃうだろうから、応援は明日すれば良いと思ったの。そんなに寂しがってたとは思わなかったのよ。」

シリウスは弁解がましいことを言うナマエの口からキャンディを奪うと、ぱくりと咥えて悲しそうな目をした。

「いいよ、そうやって恋人を打ち捨ててお菓子を山ほど食べて虫歯になって苦しめば良いさ。後で太ったって嘆いても知らないからな。」

酷いことを言うシリウスを、ジェームズは頭を撫でて慰めようとしたが、シリウスはため息を吐いたまま振り払った。

夕食を終えても音沙汰無く戻って来ず、そろそろ見に行ってみようかと思っていたところに戻って来たシリウスは、不機嫌そうな顔を隠しもしなかった。途中昼食夕食と休憩を挟みながらもほとんど1日中行われたチェス大会の予選は、皆に見届けて欲しかったほどの大活躍だったらしい。今日行われた予選はトーナメントで、明日準決勝と決勝までが行われる。

「ごめんなさい。ゼリー美味しいわよ、食べて機嫌を直して。」

「ナマエは1日何やってたの?」

ナマエが差し出した良く冷えたオレンジを差し出されたシリウスは、ナマエにキャンディを返却してそれを受け取った。

「朝ごはんを食べたらリーマスと2人でお菓子を作って、お昼はそれを食べて、それからはひたすらここでお裁縫よ。明日着る服をどうにかしてって駆け込みの依頼を受けたり、自分のを最終調節したり。ジェームズの仮面も手伝ったわ。」

ナマエは咥え直したキャンディを指差しながら「これはその報酬の一部。」とこともなげに言った。

シリウスはどうやら愚痴愚痴言うのをやめにしたらしい。しかし依然ぶすっとしているには変わりない。どうやっていてもイイ男というのは様になるものだとナマエは暢気なことを考え、そして前からちょっとやってみようと計画していたことを実行した。

「ごめんねシリウス、明日はちゃんと応援するから。」

ソファに踏ん反り返るシリウスの唇の端っこに、自分からキスしたのだ。なるべくみんなの視線が他所へいっている隙にやってみたのだが、ジェームズとばっちり視線が合ってしまったのは恥ずかしかった。

「さぁできた。早くアリスに届けなくっちゃ。リリーはどうする?」

「じゃあ私も戻るわ。2人で明日の為にパックするの。良いでしょう。あなたたちもさっさと部屋に戻って、ちょっとは明日の為に磨きをかけなさい。」

ナマエが立ち上がると、リリーもそれにならった。

2人が早々におやすみを言って談話室を立ち去ると、ほんのり顔を染めてゼリーを頬張るシリウスを、親友3人がにやにやした顔で見ている奇妙な光景だけが残った。



***



「去年はほんと、朝から死にそうだったわよね。」

「嘘ばっかり、リリーってばなんだかんだ言って余裕だったじゃない。」

皆で連れ立って朝食に赴くと、話は自然と去年の思い出話になった。息苦しいほどの緊張感とプレッシャーは思い出すだけでも吐きそうになるが、一番になった思い出は何にも変えがたかった。

「今年も歌ってって頼まれてるんでしょ?」

ジェームズが言うと、ナマエとシリウスは同時に苦笑いした。

「一昨日付け焼刃で練習したの。惨憺たるものだったわ。」

「なんとか3曲は形にしたけどな。まぁ適当にやるよ。」

「シリウス大忙しだね。準決勝は何時からなの?」

ピーターが聞くと、シリウスは腕時計をちらっと見てから「9時。」と答えた。

「上手く勝ち残れれば3時から決勝。順当に終われば間に合うけど、でも延長になったらなぁ…。」

「シリウス、イヴなのに可愛い彼女を放って置くんだから、絶対勝たなきゃダメよ。」

リリーが怖い声で言うので、シリウスは真面目な顔で頷いた。

「さっさと負けた方が一緒にいられるんじゃない?」

リーマスの不穏当な言葉は聞かなかったことにして、シリウスは軽めの食事を早々におしまいにした。

「もう行くの?」

ナマエが驚いて尋ねると、シリウスは頷いてビーツを生のまま頬張るナマエの頬を突っついた。

「対戦相手の昨日のスコアを見ておこうと思って。これがすごい女の子でさ。スリザリンの6年なんだけど、ちょっと面白い試合になりそうだよ。」

ナマエは正直なところチェスにはそこまで興味があるわけではなかったが、ここまで楽しそうに話すシリウスを無碍には出来ない。会場になる教室を聞いて、またあとでと手を振って別れた。

「ねぇジェームズ君ジェームズ君。」

シリウスの姿が完全に見えなくなると、ナマエはぼりぼりむしゃむしゃやっていたビーツをようやく飲み込んでテーブルの上に乗り出してジェームズに向き合った。ジェームズはゴブレットに並々注がれたかぼちゃジュースを舐めながら面白そうに頷いて見せる。

「なんだい、ナマエちゃん。」

「私、正直チェスってよく分かんないわ。どこがどんな風に面白いの?20文字以内で分かるように説明して。」

「分かんない人には分かんない面白さ。以上。」

「すごい、まる入れてぴったり20文字!」

少しも考えずに言ったジェームズに感心するような声を上げるピーターを横目で睨みながら、ナマエは黙って椅子に座りなおした。

「寂しいなら素直に一緒にいてって言えば良いのに。」とリリーが呟いた言葉は聞かなかったことにして、ナマエも席を立った。

「あらナマエ、どこに行くの?」

最近ビタミン不足だなと思っていたナマエは、立ち上がり際にサラダのビーツをもう1個口いっぱいに頬張った。

「お散歩。」

「チェス見に行かないの?」

「あとで行くわ。じゃあね。」

ひらひら手を振るナマエの後姿を見て、リリーはおかしそうにくすっと笑った。

「なにがおかしいの?」

ジェームズが尋ねると、リリーは得意気に頷いて見せた。

「可愛くないところがなんて可愛いのかしらと思ったの。」


大広間を出て、ナマエは真っ直ぐにふくろう小屋へ向かった。山ほど書いたクリスマスカードはとっくに郵便局に預けたが、それとは別に書いた手紙を届けてもらおうと思ったからだ。1通は定期的に送っている母への手紙。それは明日帰るとしても絶対に欠かすことの出来ないものだ。そしてもう1通はセブルスへの手紙。セブルスは最近、ナマエが手紙を書いても返事をくれなくなっていた。今どこにいるのかホグワーツに残っているのかそれとも帰ったのか、それすらナマエには良く分からなかった。ホグワーツにいても彼は食事のときすら滅多に姿を見せなかったし、7年生になって合同の授業が1つも無くなってしまったのでそれは無理もないことだった。

「手紙を届けたら、あなたはもうあっちにいれば良いわ。オッケー?」

愛梟を撫でると、エルシーは優しい声を上げてすぐに飛び立った。外は雪がちらついているが風はそれほど吹いていない。今日の予報はイギリス全土に渡って1日穏やかな曇りということだったので、無事に辿り着けるだろう。

ナマエは飛び立ったフクロウを見送ると、今度は手近にいる学校のフクロウを見繕って斑の大きな1羽の足に手紙をしっかりと括り付けた。

「返事を寄越さないようなら、頭の上で糞をしてやって。いい?」

灰色のフクロウは「斯様に下品な命令承りかねる」とでも言いたげな眼差しでナマエを睨み付けてから飛び立った。

セブルスのことをリリーに聞いても、リリーは黙ってしまうだけだった。しかしナマエはセブルスがリリーには時々手紙を書いていることを知っていたので、リリーが黙ってしまうたびに酷くイライラした。リリーが返事を書かずに放置しているのを知ってからは益々イライラした。自分がイライラしたところで何にもならないと理解しているからこそもどかしく、そしてまたやり場の無い気持ちが膨らんでいくのだ。

大きなため息を吐いてフクロウ小屋を出ようと踵を返すと、その場でばったり、思いがけない人に会った。ブロンドに色素の薄いくりくりの大きな目。かの日の忌まわしき立役者、ルーシー・ジェラルディーンその人だ。

ナマエが無表情を装い無視して小屋を出ようとすると、ルーシーは気にも留めない様子でフクロウに手紙を括り付けながらきっぱりと言った。

「ねぇ、暇なら一緒に歩かない?」


校内はクリスマス・イヴで浮き足立った生徒たちが時々急ぎ足で過ぎ去るほかは、人気も少なく静かだった。家に帰ってしまった生徒も1人や2人ではなかったし、残っている生徒も夜のパーティに備えて寮にいるのだろう。そんな中を押し黙った少女が2人、黙々と歩き続けるのは少し奇妙な光景と言えた。

「さっきの手紙、」

どちらからともなく、冷え切った廊下の途中にあるベンチに腰を降ろしたところでルーシーはようやく口を開いた。

「誰宛だと思う?」

「そんなの分かるはずないわ。」

ナマエがもっともな事を言うと、ルーシーはちょっと笑って「それもそうね。」と小さく頷いた。ひとつひとつの動作が同性のナマエから見ても愛らしく視線を奪い、ナマエは少し落ち込んだ。逆立ちしたって目の前の女の子の愛らしさには敵わない気がしたのだ。

「あれ婚約者宛だったの。私、卒業したら結婚するのよ。」

ナマエは目を瞠るほど驚いた。結婚、私たちの年で、婚約者、さまざまな単語がものすごいスピードで脳内を駆け巡り、そしてルーシーが勝手に続きを喋りだしたことで落ちついた。

「相手は魔法省に勤めてる人なの。10歳も年上なのよ。」

「素敵じゃない。おめでとう。」

言った後で、ナマエはちょっと嫌味っぽかったかなと反省した。彼女にされた仕打ちを考えれば、こんな嫌味の1つや2つ足元にも並べられないほど可愛いものだとすぐに思い返したので、もちろん口には出さなかったが。

「本当は今日もう帰ってるはずだったの。だけど彼が、私にとってはホグワーツ最後のクリスマスじゃない?しかもパーティもあるし。だから明日で良いよって言ってくれたのよ。」

ルーシーが何故こんな話を自分に向かってしているのか、ナマエには分からなかった。「そう。」とだけ言って、あまりの寒さにローブをしっかり身体に巻き付けなおすと、ルーシーも同じようにした。

「…私が謝るって、あなたそう思った?」

唐突に、ルーシーは小さな声で囁いた。

「思わない。あなたは悪いことしたって思ってないもの。だから私も許さないし、シリウスもあげない。」

即答したナマエをまじまじと見て、ルーシーはまた前を向いた。

「あなたって、何ていうか本当に素敵ね。うっかりすると惚れちゃいそう。」

「言われ慣れてるわ。」

さらりと言い返すと、ルーシーはまた少し笑った。彼女は笑うと本当に可愛いとナマエは思った。

「私たち、友達になれるかしら。」

「どうかな。でもそれってちょっと素敵じゃない?ねぇルーシー、男の子にモテるだけが人生じゃないと思うのよ、私。」

ナマエが軽快に言うと、ルーシーはますます微笑んで「そうね。」と言った。

「それに私たちが友達になったら、シリウスの度肝を抜けるわ。」

ルーシーは綺麗にピンクに染まった自分の爪をじっと見詰めていたが、視線をナマエの唇にうつした。ナマエは、ぷっくりうるうるした唇の持ち主であるルーシーに見詰められて居心地の悪い思いをした。こんなことなら、朝からきちんとグロスを引いておけば良かったと反省もした。ルーシーはいつでも完璧なのだ。

「彼と喧嘩したの?」

「ううん、なんて言ったら良いかしら。ちょっと反抗期?」

「反抗期?倦怠期じゃなくて?」

ナマエは頷いて、勢いよく立ち上がった。そしてルーシーのピンクの爪先をぎゅっと握って促した。

「度肝、抜きに行ってみない?」

「いいわね!」


再び歩き出した2人は、今度はさっきよりもずっと近い位置を歩いた。言葉が必要なときもあるが、必要が無いときもまた、同じくらいあるのだ。

「彼、イヴなのにあなたを放って何してるの?」

「女王様にご執心なの。私たち2人で会いに行ったら、たぶん動揺して負けちゃうでしょうね。」

何でもないように肩を竦めるナマエは、打って変わって明るい笑顔でルーシーを見た。

「ねぇ、許婚の話聞かせてよ。」

ルーシーはちらっとナマエを見て、それから床を見て、またナマエを見た。どこから話そうか思案しているようだった。

「去年の夏に、卒業したら結婚しようって言われたの。お父さんの知り合いの息子でね、私が生まれた時からの知り合い。すごく優しくて、そんなに格好良くは無いけど、私をすごく大事に思ってくれてる。」

「あなたは?」

「最初は正直そんなに乗り気じゃなかったわ。私はまだ若いし美人だし卒業してからたくさん恋愛して色んな世界の色んな男の人を知って、結婚なんてそれからでも遅くないって思ってた。でも上手に絆されちゃって。」

「絆された?」

「彼ね、「君は確かに美人だし君の言ってることももっともだ。じゃあこうしよう。僕は絶対にないと言い切れるけど、君が君のこれからの人生において僕より自分を幸せに出来ると思う男を見つけたら、そのときは潔く別れる。だからとりあえず結婚しておこう。」って言ったの!ばっかみたいでしょ?でも私、なんだか…とっても素敵な気分になっちゃって。」

「素敵じゃない!」

ナマエが熱っぽく言うと、ルーシーは初めて照れくさそうに笑って、それから「そう?」とまた照れくさそうに瞬きをした。

「1年後も20年後も50年後も、彼の隣でなんだかんだ言いながら笑ってる自分を想像出来るの。前の私はそんなの退屈だって考えてたけど、近頃の私はそれこそが幸せなんじゃないかって思うのよ。」

黙っているナマエを見て、ルーシーは花のように微笑んだ。薄い日光でもキラキラと輝く瞳やブロンドはどこまでも軽やかで美しく、ナマエはまた少し劣等感を味わった。


「あなたって、人の心が分かるのね。どれだけ傷ついているかとか偽っているか捻くれているか磨かれているか。分かって、それから接してくれるから皆あなた…、ナマエを憎めない。」

ルーシーは少し先を歩き、振り返りながら言葉を続けた。

「ナマエの隣で屈託無く笑うシリウスを見てるとね、私、あなたのようになりたいって思うの。これからは彼のためにもナマエのように生きたいわ。」

こんなにキラキラしている人にこんな風に言われて、ナマエは何と言ったら良いか分からなくなって俯いた。シリウスに愛される前なら同じことを言われても自信の無さから卑屈になって素直に受け止められなかっただろう。だけど今は少し違った。嬉しい、と思えるようになったのだ。

「ありがとう。」

ルーシーは全身をキラキラさせたまま「どういたしましてっ」と声を弾ませた。

「結婚式に招待しても良いかしら。彼と2人。」

「もちろんよ。とっても嬉しいわ。」


引き攣った間抜けな顔を2人の少女に晒しながら、彼ことシリウス・ブラックは試合中以上に死ぬほど脳みそを回転させていた。いったい何がどう転んだらこんなことになるというのか、全く理解できない。いや、したくないと言った方が今のシリウスの心情にはぴったりだった。

「ふふっ、大成功ね。」

「あら。でも誤算もあったじゃない?女王様はシリウスに微笑んだ後だったわけだし。」

まるで長年の友人のようにケラケラと笑いあう2人は、確かに自分の彼女であるナマエと元彼女のルーシーのはずだ。

「貴重なものが見れて楽しかったわ。じゃあまた今晩ね。」

「ええ。あなたのために歌うから楽しみにしてて。」

ルーシーはシリウスを見て「ナマエを放って置くから、こんな恐ろしい目に合うのよ」と我が物顔で会場を一瞥して去っていった。翻したブロンドは相変わらず毛先まで完璧に手入れが行き届いていて、隙や油断の1つも無いと言った感じだった。

「決勝進出おめでとう、シリウス。また見逃しちゃった私を許してくれる?」

ルーシーにひらひらと手を振っていたナマエは、くるりとシリウスを振り返った。ルーシーそっくりの笑みを携えて。

「あの、さ、」

「ああ何にも聞かないでダーリン。女同士って色々と思いがけないものなのよ。私にだって良く分からないんだから、シリウスに分かるはずもないの。」



***



決勝戦は、ギャラリーが思いのほか多くなってしまった為に個室で行われることになった。どうしても観戦したい熱心なチェスファンの為に大きめのチェス盤と魔法で動く駒が別室に用意されたが、ナマエはリリーと連れ立って早々にグリフィンドール寮に引き返してきてしまった。

「パーティまであと2時間とちょっとよ。急いで支度を始めないと。」

シャワーから上がったリリーがてきぱきと言うので、ナマエはこくりと頷いた。先にシャワーを浴びたナマエは、リリーが出てくる前に髪を乾かしてしまっていたので先に髪を作ることにした。今日の衣装は、卒業までに1度はやってみたいと密かに計画していた袴だ。歴史がありすぎるほどあるホグワーツ城に袴はきっと映えるだろうとナマエは前々から考えていたのだ。
クリスマスに着るなら日本では雪待ちの柄が一番だろうが、ホグワーツではわざわざ纏わなくても雪なら山のようにあるので、ナマエは大ぶりな梅の柄の中振袖を選んだ。地の色は平安時代今様として持て囃された極薄い紅色で、枯れた木とそれを彩る紅梅が目にも鮮やかな古典着物。ナマエが特に気に入っているのは袖の部分に刺繍であしらわれた鷹と山鳥だ。袴は濃い京紫の無地で、半襟は顔を白く見せる為だけに裏葉色を選んだ。リリーなどは分かっているのかいないのか、「これが日本の美なのね!」と騒いでいたが、ロクに勉強していないナマエから見ても古式ゆかしい色合わせかどうかは怪しいところだった。

「じゃあ私は先にメイクしてるわね。」

「うん。」

髪型は、前髪に大袈裟で無い程度ヴォリュームを持たせたごくシンプルなハーフアップにとどめた。というのもナマエの場合仮面が派手だったので、それでなくとも和装は一人だし、髪まで派手にしたら目立ちすぎると思ったのだ。ハーフアップの部分は小さな珊瑚の揺れ飾りがついた銀の簪1本できつく捻って結い上げればもう完成だ。念のために崩れてこないように魔法をかけ、毛先に椿油で艶を出せば後はメイクに取りかかれる。

鏡台に向かっているリリーの隣に腰を降ろして、ナマエは並んで化粧をし始めた。化粧水を叩き込んだ後、手のひらで下地にコントロールカラーとオイルを混ぜ顔中に伸ばしていく。コントロールカラーは最近、色むらが整う薄い黄緑色がお気に入りだ。

「そう言えばリリー。」

隣でアイシャドウに取り掛かっているリリーに向かって、ナマエはのんびりとした声を出した。

「なあに?」

リリーは去年と同じドレスだったが、ナマエの手伝いによって色と裾のデザインを一新させたので、誰も同じものとは気付かない出来栄えに仕上がっている。去年は緑色だったが今年は燃えるような赤色で、裾だけに同色のフリルとレースでたっぷりとヴォリュームを持たせた。歩くたびに炎のようにゆらりゆらりと揺れるシルエットがなんとも古風だが斬新で魅力的だ。

「アレがちょうど終わって本当に良かったわね、お互い。去年と一緒でついてたわね。」

ナマエが何気なく言った一言は、リリーを唖然とさせるのに十分な威力を持っていた。

目を見開いて自分を凝視するリリーを見て、ナマエは一瞬わけがわからずポカンとしたが、すぐに自分が言ってしまったことの重大さに気付いた。

「ちがっ、ちがう!ちがっ、私、こんな衣装でトイレ行くのって大変だから、汚したらとか、別に、それだけの意味で…っ!」

パニックになって顔を耳まで真っ赤にして否定すると、リリーも顔を赤くしながら「そ、そうね。」と頷いた。

「うん、そうなのよ。うん。」

2人の顔の火照りが少し冷めてくると、リリーはビューラーでぐいぐいまつ毛を上げながら「ねぇナマエ。」と囁いた。ナマエがリリーの方を向くと、リリーもビューラーの手を止めてナマエの方に向き直った。

「リリー、その、はじめてのときって、どんな感じだった?怖くなかった?」

リリーが何か言う前に、ナマエは目線を逸らして鏡台の上の化粧水の瓶をじっと見詰めた。

「そうね、一言じゃ言えないわ。まるっきり怖くなかったって言ったら嘘かも。実際結構痛かったし。だけどねナマエ、その時はそんなことあんまり考えられないの。たぶん、初体験なんてみんなそんなもんなんじゃないかしら。冷静だったらとても出来ない気がするわ。」

リリーの赤裸々な話を、ナマエは注意深く拝聴した。そんなもん、なのだろうか。以前エトバスのメンバー皆で夜通しおしゃべりをしたとき、みんなも同じようなことを言っていたのを思い出した。

「それにね、だいたいエッチなんて頭でするものじゃないでしょう?この人なら身を任せられるこの人なら信じられると思えば、あとはなるようになるだけよ。」

ナマエはまた顔を赤くしながら、こくりと1回頷いた。いつになく素直なナマエを見て、リリーはにっこり笑ってビューラーを持ったままの腕でやんわりとナマエを抱きしめた。2人とも下着同然の格好だったので、素肌の温もりがいつもよりもじんわりと伝わって、少し官能的と言えなくも無かった。

「シリウスが優勝したら、あなたをプレゼントにしたら良いわ。シリウス泣いて喜ぶわよ。」

「そんなのって…悪趣味よ。」

リリーの言葉にナマエは泣きそうになりながら笑ったが、リリーはいたって真面目な顔で「絶対そうするべきよ。」と答えた。


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