No.14



【可愛い水の精】



クリスマスの朝、多くの生徒は家族とクリスマスを祝う為に急ぎ実家へ帰ったが、シリウスは例によってホグワーツに残っていた。シリウスは、もう何年も冬休みは家に帰っていない。窮屈な家より、学校の方がよっぽどましだからだ。シリウスは、一緒に残ると言ったジェームズ、リーマス、ピーターを説き伏せた。気持ちはありがたかったが、クリスマスは普通家族で過ごすものだと思っていたし、皆も当然そうであって欲しいと思っていた。それにシリウスには、誰にも邪魔されずゆっくり考えたいことがあったので、静かな談話室を謳歌できることはむしろありがたかった。今年グリフィンドールで残っているのはシリウスだけだったので、シリウスは今日も朝食が済んだらすぐに暖炉の前を陣取っていた。明日からまた学校が始まる。それまでは誰もいないのをいいことに、自分で淹れたコーヒを啜りながらぼふっとソファの上に足を投げ出している。ぼんやりと空中を眺めた後、シリウスはカップを握っていない方の手をゆっくりと口元へ持って行った。そして、何度も何度も指で自分の唇をなぞってはにやにやと笑った。

「あー…。」

シリウスはこの動作を休みになってから数え切れない程繰り返していて、唇は今や荒れ気味になっていた。しかし、シリウスはそんなことは気にせず、ゆっくりと回想をはじめた。ナマエの唇は、信じられないくらい柔らかかった。女の子の唇は、みんなあんなに柔らかいものだっただろうか。ナマエを好きになる前のことを、何もかも忘れてしまったような気がした。それでも、シリウスは今までに感じたことのない充実感を味わっていた。あんなに幸せな瞬間は、他に無い。浮かれてふわふわと意識を浮上させていたシリウスに、突然、もう1人のシリウスが耳打ちをした。

でも、ナマエは泣いていたじゃないか。

途端に、凄い勢いで醒めていく心。身体までが、暖炉の熱も届かない吸魂鬼の側かのようにぞっと冷えた。コーヒのカップを握り締めたまま、シリウスはぼんやりと宙を眺めた。

ナマエは、泣いていた。
薄い肩を震わせて、睫毛を濡らして。何とか落ち着いた頃には、パーティもすっかり架橋を向かえていた。ナマエをグリフィンドール寮まで送って行くと、ナマエはシリウスに一度だけ謝って、それからおやすみを言って振り返りもせずに女子寮へ消えていった。シリウスはナマエに気の利いた言葉の1つも言う事が出来なくて、ただその背中を見送った。自分に、ナマエの隣にいる権利すらない気がして恐ろしくなった。自分の愚かさや、浅はかさを突きつけられた気がした。

「はぁ。」

嫌になる。シリウスは、空になったカップをテーブルに置いて、置いてあったペーパーウエイトを持ち上げた。しっとりと重い純銀で出来たそれは一目で上質なものだと分かり、使えば使うほど味が出そうだった。ひっくり返すと、12.25.1976 Merry Christmas Dear Siriusと刻印されていた。自分の名前を彫らないところが、ナマエらしい。再び浮上してきた気持ちを抑え、シリウスはまるでナマエを撫でるかのようにそっとそれを握った。そして、また何度も考えたことをもう一度反芻しだした。

自分は、ナマエとどうなりたいのか。

もちろん、恋人同士になれれば、それが一番だ。いつでも、人目をはばからず合意の上で手が繋げるしキスも出来る。もちろん、それ以上だって。だけど、ナマエの過去を知った今、それが実現する可能性は太陽が西から昇るくらいの確率では無いかと思い始めているのも事実だった。それなら、いっそのこと、ずっとこのままの方が良いのではないか?友達以上、でも、恋人という肩書きはなし。きっとナマエだって気負わずにシリウスと接するだろう。時々なら、2人っきりになれるチャンスもあるかも知れない。

「…冗談じゃない。」

シリウスは呟いた。そうなのだ。シリウスは、そんなのはごめんだった。堂々とナマエは自分の恋人だと宣言したかったし、肩を抱いて歩きたい。クリフのようにナマエを見詰める男がいれば、見ている目の前でキスしたい。ナマエのことなら何だって知りたいし、自分のことも何だって知ってほしい。それにシリウスは、中途半端をこの上なく嫌う男として自他共に認められているのだ。友達以上、なんて関係が耐えられるはずも無かった。

「ナマエ。」

ナマエの名前を囁くと、急に泣いているナマエの顔が浮かんで、また振り出しに戻った。この堂堂巡りを、シリウスは休みの間中続けていた。シリウスが大きな溜息をついた、その時だった。突然談話室のドアが開いて、マクゴナガル先生とスラグホーン先生が入ってきたのだ。

「せ 先生。」

シリウスは慌ててソファから足をおろした。マクゴナガル先生は、頬を酷く紅潮させて荒い息をしていた。スラグホーン先生も同様で、視線を慌しく動かしていた。

「…先生?」

そのただならぬ様子に、シリウスは恐る恐る口にした。だいたい、休みの間に教授が談話室に来ることなど、普通なら有り得ないことだった。しかしマクゴナガル先生はそれには答えずに素早くシリウスに歩み寄ると、真っ直ぐに見据えてきっぱりとこう告げた。

「今すぐ外出の用意をして私の事務室へいらっしゃい、シリウス。」



***



ナマエは、ロンドンの街中をバスで移動していた。煙突飛行も良かったが、ナマエはロンドンの街並みを殊更に好んでいた。日本の都会とは違い、騒然とした中にもどこか趣がある。石畳の道に古い街灯、まるでシャーロック・ホームズが生きた19世紀を今に伝えるものが現代の行き交う人々に違和感無く溶け込んでいて、思わず見惚れてしまうほどだ。イギリス暮らしが長いとは言え、ほとんどホグワーツでの生活だったので、ナマエはまだまだ物珍しそうに街並みを眺めた。休みも終盤ということもあって、街は午前中から観光客や家族連れで賑わっている。朝のうちなら混雑を避けられるだろうというナマエの目論見は、綺麗さっぱり外れたのだ。ナマエの今日の予定は、母親の治療薬を病院に取りに行き、その帰りに街を歩いて買い物を楽しむこと。本当は母親と一緒に来る予定だったのだが、あいにく昨日から軽いせきが出るので、今日は外出を控えて家で安静にしていることになった。

「魔法薬剤師の人に頼んだら、トローチも処方してもらえるかしら?」

父方の祖父母からお餅やしめ縄と一緒にたくさんのお年玉が送られてきていたので、今日のナマエはかなりリッチだった。お使いが済んだらまずどこへ行こうか、あれを買おうかこれを買おうか、と考えながら小さく鼻歌を歌い、最初の目的地である聖マンゴ魔法疾患障害病院へと向かった。


ナマエはバスの運転手にお礼を言って、足取りも軽やかにバスを降りた。途端に襲ってくる冷たい空気に、ナマエは少し身を縮めた。切り替えの無いデザインの真っ赤なケープに黒いお気に入りのショートブーツの踵を鳴らして、大きなデパートを目指した。道のりは容易ではなかった。街が朝一番でタイムセールをしている量販店やこれから駅へ向かう人、バスに乗り込もうと躍起になった人で溢れかえり、揉みくちゃにされてしまったからだ。やっとのことでパージ・アンド・ダウズ商会と書かれた看板の下に立った。はあっと白い息を吐きながら、誰にも気付かれないようにそっとショーウィンドーに近づいて、埃塗れの緑色のマネキンにひそひそと話しかけた。

「ケイコ・ミョウジの薬を取りに来たんだけど。」

マネキンは今にも取れそうな睫毛を危なげに揺らしてパチンとウインクすると、手招きに導かれるままガラスを通り抜けた。ひやっとした感触に身震いする暇も無く、ナマエは受付の前に立っていた。外の喧騒よりもさらに騒がしい待合室には多くの患者がひしめき合っていて、ナマエは閉口した。こんなに混んでいるとは思わなかったのだ。院内に併設している薬局の受付に並ぶと、ケープを脱いだ。ナマエの順番が来て、魔女に母親から預かった処方箋を出すと、魔女は乱れきった髪を振りながら忙しなくそれを受け取って杖で仕分け箱へぶっ飛ばした。

「今ちょっと立て込んでるから、いつもより待ってもらう事になると思うわ。」

ナマエは首を傾げて魔女に尋ねる。

「あの、何かあったんですか?」

「あら、あなた朝刊を読んでないの?説明してる時間が無いから、待合室にある新聞を読んで。」

魔女はそう言うと、ナマエを押し退けるようにして次の患者を手招きした。

ナマエは番号札をポケットに滑り込ませながら、待合室のいたるところに置いてあるマガジンラックの1つから日刊予言者新聞を抜き取って、適当に腰をおろした。すると、まず目に飛び込んできた見出しがこうだった。

【無差別犯行か!?賑わうマグルの繁華街で大型呪い大炸裂】
【マグルの怪我人多数。魔女、魔法使いも】
【その場にいた一般の魔女、魔法使いの勇気ある行動に拍手を!】

などなど。記事を読むと、ロンドン郊外のとある繁華街で昨日の22時過ぎに大きなテロがあったと書いてある。犯人は複数だが計画的な犯行では無い為、闇の陣営の犯行かどうか、今調べが進んでいるところらしい。その場にいた目撃者の証言は、例のあの人を見ただとか緑の髑髏マークを見たというものだったが、いまひとつ信憑性に欠けるものだとも書いてあった。ナマエは心底驚いてはーっと溜息を吐きながらもう一度新聞を眺めた。細かい字で負傷した人の名前が書かれている。ほとんどがマグルだが、中にはその場に居合わせた魔女と魔法使い数人の名前も書いてあった。未だに身元不明の人もいるという。そして全部で40人以上いる負傷者全員が、聖マンゴ魔法疾患障害病院に運ばれて治療を受けている。だからこんなに混雑しているのだ。通常の業務が滞っているのだろう。この建物の中にも、犯人がいるのだろうか?ナマエがうーむと唸っていると、突然、ナマエの隣に座っていた老爺が声をかけてきた。入院着を着たその老爺はひどい悪臭を放つ紫色の植物のようなものを体中から生やしていて、にたにたと厭らしい目でナマエを見ていた。

「その事故が気になるのですかな?」

丁寧な口調とは裏腹に、老爺は無遠慮にナマエをじろじろと嘗め回すように見た。

「えぇ。」

ナマエは新聞を畳みながら曖昧に相槌を打った。何日もお風呂に入っていない酔っ払いの匂いを何十倍にも強くしたような、ごみ収集車のような、とにかく嫌な匂いだった。

「大方、ニューイヤーパーティのつもりだったのだろうね。マグルを虐めて憂さ晴らしだよ、憂さ晴らし。」

老爺がさも当然だという口ぶりでそう言うので、ナマエはちょっとだけ眉を顰めた。

「憂さ晴らし…ですか?」

ナマエが解せない、と言外に滲ませてそう言うと、老爺は驚いたようにナマエを見た。

「おや、お嬢さんは純血だろう?マグルの事が気になるのかな?」

ナマエが目を見開いてその老爺を見詰め返すと、老爺はちょっと笑って「ワシは純血は匂いで分かる。古き善き匂いがするから。」と答えた。ナマエはくじけそうになる心に鞭を打って、シャンと背筋を伸ばした。

「私はまだ学生ですが、私の学校にはマグル出身の人も大勢います。教授も先輩も後輩も皆、血は気にしません。」

ナマエがきっぱりと言うと、老爺は、ナマエがまるで生意気を言うおませな少女のように、にっこりと優しく笑いかけた。

「お嬢さん、可愛いお嬢さん、君も知っているのではないですかな?」

「何を…、」

ナマエは言いかけて、うっと言葉を詰まらせた。老爺が節くれた皺くちゃな人差し指でそっとナマエの頬を撫でたのだ。

「この象牙のように滑らかで美しい珠のような肌の下にながれる緋色の液体ことで、辛い思いをしたことがあるんじゃろう。」

ナマエは急に憎しみが湧いて来るのを感じて恐ろしくなった。今の動作で、何か魔法をかけられたのかもしれない。何て不注意なことをしてしまったのだろう?ナマエは自分の愚かさが頭に来た。

「そう怯えるでないよ、ワシは何もしていないから。」

ナマエは立ち上がって、老爺を見据えた。老爺の身体の植物はいつの間にか花開いていて、もう悪臭はしなかった。人を惑わすような、甘い香りが漂っていた。ナマエは今度こそ何か魔法の気配を感じて、跳ね返せるように強く意識を保った。

「やれやれ、君はとても強い魔力を持った、賢いお嬢さんのようだ。ただねお嬢さん、これだけは言っておくよ。」

ナマエはポケットに手を突っ込んで杖をぎゅうっと握り締めた。ナマエが恐がれば恐がる程、老爺は喜ぶようだった。



「君が若さゆえの正義感だけで行動すると、世の中や真実が見えなくなる。真実とは往々にして、正義側にあるとは限らないのだよ。」



「…私には、お爺さんの仰っていることが良く分かりません。」

ナマエはそれだけ言うと、新聞を元に戻して場所を変えようと歩き出した。震える身体に鞭を打って、なるべく背筋を伸ばした。


「君もいつか知る時が来るだろう、生きていられればの話だが。」


いつまでも甘い匂いが纏わりついているような気がして、ナマエはトイレに駆け込んだ。手を洗い、冷水で冷え切った手で顔を覆った。ひんやりとしたそれは痺れたような頭をすっきりとさせてくれて、ナマエはいくらか落ち着きを取り戻した。落ち着いて調べてみても、特に呪いがかかったような痕跡は無い。ひとまず安心して、ほっと息を吐いた。2度とこんな失態をおかさないようにしなければ、とナマエは強く思った。知らない人に触れられるなんて、不注意にも程がある。今の時代、昨日良い隣人だった人が今日は敵になることだって有り得るのだ。あの老爺がもういないことを祈りながらトイレを出て廊下を歩いていたら、ナマエは思いもかけない人物の姿を目にして、驚きのあまり手に持っていたコートとバッグを落としてしまった。


「シリウス!」

廊下の端で癒者と深刻な顔をして話しをしていたのは、間違いなくシリウスだった。外出用の上等なローブを脱ぎもせず、靴は雪解けの水で濡れていた。癒者はカルテをいくつも抱えていて、ライム色のローブのあちこちにインクが飛んだ跡があった。シリウスは「だから、」と言ったあの口のままで不意を突かれたようにナマエを見た。

「あ、あのシリウス、私、何かまずい事を?」

「ナマエ…。」

シリウスはそう呟いたままふらっとナマエに歩み寄って両肩をしっかりと掴むと、ナマエの肩口に顔を埋めた。

「シリウス!ちょ、ねぇ、どうしたの?」

ナマエは自分で自分のケープを踏み付けてしまったが、そんなことはどうでも良かった。シリウスの胸を押し返そうとしたが、とてもかなわない。廊下を行く人が、何事かと2人を見ていたが、ナマエはシリウスの頭が邪魔していたので、何も見えなかった。

「シ、シリウス?」

シリウスはナマエの肩を掴んだまま「姉さんが、」と言った。その目は酷く動揺していて、ナマエまで不安な気持ちになった。

「姉さん?お姉さん?」

「アンドロメダが、従姉なんだけど、昨日の事件に巻き込まれて…、」

シリウスはそこまで言うとナマエをぎゅっと抱き締めた。ナマエはシリウスの背中をぽんぽんと叩いてから、もごもごとくぐもった声で質問した。

「…重傷なの?」

シリウスは小さく頷いた。

「ご家族は?シリウス1人なの?」

「夫と、まだ小さい娘がいる。」

その言葉に、ナマエはシリウスの腕の中から首を回して周囲を探そうとしたが、シリウスが遮った。

「連絡したんだけど、まだ来ない。きっとどこかで迷ってるか検問に引っ掛かってるかしてるんだ。」

「検問?」

「事件のあと、死喰い人かどうか調べる検問があちこちに布かれてて。ナマエ知らなかった?」

ナマエは2度も頷いた。同時に、マグルの交通手段なら簡単に逃げ果せるのでは、と不安にもなった。自分はここまで来るのに一度も検問にはあわなかったからだ。その時、そばで苛立たしげに書類の数々を捲っていた癒者がキッとシリウスを見据えた。

「ブラックさん、治療室に、」

言いかけると、シリウスは弾かれたようにナマエの髪から顔を上げ、背筋を伸ばした。

「でもテッドがまだ、」

「困ったわ。アンドロメダさんは今、大変な困難と闘ってらっしゃる。こんな時に独りなんて望ましくないことです。」

それを聞いたナマエは、突然閃いたというようにシリウスの腕をばしばしと叩いた。


「じゃあ私が探してくる!」


「え!」

癒者は驚いてナマエの顔をまじまじと見た。シリウスもちょっとだけ腕を緩めてナマエの顔を覗き込んだ。

「きっともうすぐそこまで来てると思うし。」

「それはそうだけど。」

「じゃあ私が探してくる。早い方が良いわ。」

ナマエはそう言うと、しゃがんでケープとバッグを抱えた。

「でもナマエ、」

「大丈夫よ。この辺りなら良く知ってるし、あちこちで検問をやってるなら逆に安全でしょう。」

「俺も一緒に行く。」

心配そうにナマエを見るシリウスに、ナマエはわざと明るく笑って見せた。

「シリウスは病院にいて。その方が良い。私にはアンドロメダさんが助かるように心から祈ることは出来ないけど、お使いなら出来るから。」

ナマエは早口に言い切った。

「ではミス、これを。」

いきさつを聞いていた癒者が、ナマエに小さな羊皮紙の切れ端を握らせた。

「今回の事件に巻き込まれた人の関係者だということを簡単に認めたものです。聖マンゴの正式なサイン入りですから、もし検問に引っ掛かった時、少しは役に立つでしょう。」

「分かりました。」

ナマエはそれをバッグのポケットに大切にしまうと、シリウスに物言う間を与えず、くるりと背を向けてダッシュで走って行ってしまった。あまりの行動の早さにしばし呆然と後姿を見ていたシリウスと癒者だったが、癒者は突然意識を取り戻してシリウスの方へ向き直った。

「アンドロメダさんなら大丈夫よ、治療はきっと成功するわ。さ、治療室の前まで案内するから。」

「はい。」

シリウスが、早足で歩いて行く癒者の後ろを慌てて追おうとした、その時だった。後ろから聞きなれた足音が聞こえた気がして振り返ると、ナマエが物凄い早足で戻ってくるのが見えた。

「ナマエっ?」

「シリウス、シリウス、はいこれ。」

ナマエが息を切らせながらそう言って握らせたのは、紙コップに入った、見るからに甘そうなミルクティだった。

「これ飲んで待っててね。落ち着くから。大丈夫、すぐに見つけて帰ってくるわ!あ、アンドロメダさんの苗字は?」

「トンクス。」

「旦那さんの名前は?」

「テッド。」

「髪の色は?瞳の色は?」

「明るい茶色。」

「ついでに子供の名前は?」

「ニンファドーラ。」

「なんて素敵な名前!」

ナマエはそう言うと、紙コップごとシリウスの両手を強く握って「大丈夫、きっと大丈夫よ。」と笑った。

「ミス、もし捕まるようだったら魔法タクシーを使って。お尋ね魔法使いを探すことにかけては、ロンドンのタクシー運転手は世界一だから。」

ナマエはしっかりと頷いた。そして、今度こそあまり軽快とは言えない足取りで走り去ってしまった。

「ブラックさん、」

「なんでしょうか。」

「頼りがいのあるガールフレンドね。あなたがとても羨ましいわ。」

「……。」

長い髪を揺らしながら廊下を駆けて行くナマエの後姿を見て、シリウスは根拠も無く大丈夫かもしれない、と思った。



ナマエは息を切らして病院から転がり出ると、受付で借りてきた地図を片手に路地裏に滑り込んだ。地図には、法律に則って日が暮れる前でも姿現わしをしても良い地区とそうでない地区が細かく書かれていた。しかしナマエはまだ免許を持っていないので、どちらでも同じことだ。とりあえず地図に書かれている通りにタクシーを呼ぶ呪文を唱えてみた。すると、地図上に今タクシーがいる位置、そして大まかな待ち時間が表示された。待ち時間は20分となっている。

「20分…。」

じっと待っているには長い時間である。

とりあえず順番待ちにエントリーすると、もう病院の近くまで来ているかもしれないと仮定して、魔法で隠された道路を中心に歩いて探してみることにした。コートの下で杖をかざせば、するすると溶けるように道路が現れる。ニューイヤーで賑わうマグルの道路と違って、閑散としていた。ナマエは明るい茶髪に小さな女の子を連れた男性がいないか注意しながら、早足で街並みを過ぎて行った。それにしても、とナマエは思慮を巡らせた。さっきの自分のあんな態度、シリウスは変に思っただろうか。ナマエは激しい自己嫌悪に陥った。

自分は、逃げてきてしまった。

偶然遭遇してしまったあの場の空気から。動揺しているシリウスから。また会うかも知れない、恐ろしい老爺から。本当なら自分は、どうしたら良かったのだろうかと考えてみた。あの場に留まり、シリウスの手を握って無責任な「大丈夫。」を繰り返せば良かったのか。そんなはずは無い。たぶん、これが最善だ。自分に出来ることをする。しかし、逃げてきたのも事実だった。例えばあの場に留まって、もしもアンドロメダさんが今よりもっと危険な状態になったりしたら、万が一亡くなってしまったりしたら、自分には何も出来ないことが突きつけられてしまう。もちろん、それはシリウスも同じだろう。でも悲しみの大きさが違う。誰か、愛する家族を失って打ちひしがれる人を、ナマエはもう見たくないと思っていた。だから逃げてきたのだ。

「そんな風に、考えるんじゃ無い。ナマエ。」

ナマエは小さく呟いて自分自身を叱責すると、自分の脳内から考えることを追い出すように周囲の情報を積極的に取り入れた。しかし明るい茶髪の男性も幼い女の子も見つけることが出来ずに、時間は過ぎてしまった。そして、ちょうど10分が過ぎたころ、大きな機械音と共に魔法タクシーがナマエの目の前に姿を現わした。愛想の良い初老の運転手がにこにことナマエに笑いかけている。ナマエはぱっと開いたドアに滑り込んだ。

「嬢ちゃん偉いねぇ、1人で来たのか?おじいちゃんとおばあちゃんの家に行くのかよ?」

ナマエはこんなこともう慣れっこだったので、「テッド・トンクスのところへ行って下さい。ちなみに私は17歳です。」と早口に言った。ナマエはミラー越しにナマエを見詰めるタクシー運転手を睨みつけた。

「急いで!」

「分かったよ、お嬢さん。」

欧米人に、日本人はとかく年齢より幼く見られることが多い。若く見られる、と言えば聞こえは良いかも知れないが、ナマエはコンプレックスの1つだと思っていた。タクシーの運転手は軽快に鳴っていたラジオのボリュームを下げつつ、車を滑らせた。ここでナマエはふと気になったことを口にしてみた。

「テッド・トンクスをご存知なんですか?居場所は分かるんですか?」

「彼はマグルかい?」

質問を質問で返されて、ナマエは少しむっとしたが、首を横に振った。

「じゃあすぐに見つけられる。フクロウが届け先を間違えないのと同じ類の魔法さ。」

ナマエは分かったような分からないような顔をして、頷いた。運転手はバックミラー越しにちらちらとナマエを見て、それから口を開いた。

「17歳ってことは、お嬢さん、ホグワーツかい?」

「そうです。」

ナマエはにこりともせず、慎重に頷いた。

「俺はイタリアの魔法学校出身なんだ。この界隈で長いこと運転手をやってるけどよ。」

「テッドさんのところまで、あとどのくらいですか?」

運転手の自己紹介を綺麗に無視してナマエが質問すると、運転手はにやっと笑って車を止めた。

「乗せたお客をお待たせしないのが俺のポリシーでね。」

そう言って指差された窓の外を見ると、突然現れたタクシーに目を白黒させている男性と、その腕に抱かれた小さな女の子がこちらを見ていた。ナマエは転がるようにタクシーから降りると、急いでテッドに駆け寄った。

「あ、あの、ミスター・トンクス?テッドさんですか?」

ナマエがそう言うと、テッドは訝しがりながらも頷いて、ナマエの様子を伺った。

「私はナマエ・ミョウジと言います。ホグワーツの学生です。あの、シリウス君、シリウス君はご存知ですか?アンドロメダさんの従弟の、」

ナマエが言いかけると、テッドは表情を強張らせたまま激しく頷いた。

「あぁ、もちろん知っている。シリウス。」

「良かった!そのシリウス君の友人です。ナマエと言います。はじめまして。」

そこまで言うと、テッドはようやくナマエを信頼したようで、娘を片腕に乗せると腕を差し出してナマエと握手を交わした。

「トンクスさん、私はあなたを探しに聖マンゴから来ました。詳しい話はタクシーの中でするので、とにかく乗って下さい。」

ナマエがそう言うと、テッドは大体のことを察したのか、娘を抱えなおして一目散でタクシーに乗り込んだ。

「聖マンゴまで。」

助手席に乗り込んだナマエが簡潔にそう言うと、運転手は黙ったまま音も立てずに車を発進させた。

「アンドロメダは大丈夫なんだね?」

テッドはいきなり、口にすれば事実になると言わんばかりに言ったが、ナマエは首を横に振った。

「私は詳しい話を何も聞かずに大急ぎでトンクスさんを呼びに来ましたから、何とも…。」

ナマエが正直に伝えると、テッドは何度か頷いて唇を噛み締めた。

「取り乱してすまない。ところで君の名前を、もう一度いいかな。さっきは混乱していて。」

「ナマエ・ミョウジと言います。シリウス君の同級生で、グリフィンドール生です。今日はたまたま聖マンゴに薬を貰いに来たんですが、そこで偶然シリウス君と会いまして、それで。」

「ナマエさん。そうか、シリウスの。」

テッドは、組んだ両手の指を忙しなく動かしながら、早すぎる車窓に目をやった。

「アンドロメダさんには、シリウス君がついています。今はたぶん、治療中だと思います。」

ナマエがそう言うと、母親の名前が出たことに反応したニンファドーラが父親のコートの袖口を引っ張った。

「ねぇパパ、ママは?」

「これから会いに行くんだよ。」

「どこにいるの?」

「ちょっと…、ドーラの知らないところさ。これから行く場所だよ。」

ニンファドーラは「ふぅん。」と言った後、テディベアを抱き締めたままナマエに話しかけた。

「ねぇおねえちゃん。」

ナマエは首をひねってなるべくニンファドーラの顔が見えるような体勢を取った。

「なあに?ニンファドーラちゃん。」

「おねえちゃん、シリウスのおともだちなの?」

「そうよ、シリウスの友達。」

「魔女?」

「魔女よ。」

「ママと一緒?」

「一緒よ。」

ニンファドーラは矢次に質問すると、「そうかぁ。」とおしゃまに呟いた。しかしナマエには今までこんなに小さな子供と話す機会が無かったので、この子がませているのかそうでないのか判断出来なかった。


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