Cendrillon | ナノ


▼ *災い転じて福となす *01


 誰に聞かせるつもりでなく菫は呟いた。

「いつの間にか始まってて、いつの間にか終わってた。訳が分からない……」

 目覚めたばかりのようにどこかポヤンとしている。菫自身もこれが現実なのか少し分からなくなっていた。

「いつの間にか夜だしねぇ」

 菫は窓から見える闇色の空を一瞥する。窓とベッドしかない部屋を抜け出した時はまだほんのりと明るかった気がした。
 杯戸町の民家の少ない地域にある廃病院が菫の囚われた場所だった。そこから慌ただしく連れ出された菫は今、警察病院の一室にいる。起き上がれてはいるものの、ベッドから降りれるほどは回復していないため本日は検査入院が早々に決まっていた。

「何だか白昼夢でも見たような気分」

 まるで空気の抜けかけた風船だった。何もない宙を見つめる菫には張りがない。この場所がどこよりも安全な場所なためか、警戒心も皆無で無防備に見えた。

「菫さん……それは菫さんが救出されてまだ間もないからだと思うよ?」

 それに控えめに進言する人物がいる。他の面々の手が空かないため付き添い兼お目付け役のコナンだ。

「あまりにも色んな事が起き過ぎると、心が受け止めきれなくなるから身体が物の感じ方を鈍化させるんだ。そうやって心を守ってるんだよ」

 本人に自覚がないだけで、事件の発生から救出までの間に菫は無意識に心を張り詰めさせていた。今はその反動のようなものである。コナンはさすが事件に関わる事が多いだけあってかそう言った知識にも精通しているのもあり、菫の状況を説明してやった。

「そう――なのかな?」
「うん。徐々に感覚は戻って来るけど、それに反比例して犯罪に巻き込まれた人は事件後にPTSDに悩む人が多くて……」

それでも菫には首を傾げられ、不安を感じさせるその様子にコナンが心配そうに注意をした。

「だからね、菫さんも例外じゃないと思うんだよ……」
「そうかなぁ? 私今、怖い夢を見てすぐに目が覚めたって感じなの。しかも目が覚めて夢をどんどん忘れていくみたいに、ついさっきの事もなんだかもう朧げで……。忘れちゃった夢ってそのまま思い出せない事が多いよね?」
「そうだったらいいなってボクも思うけど……やっぱりしばらくは気を付ける必要があるよ?」

 しかし菫はというと自分の状態が異常だとは気付けていないため他人事のような発言である。

「多分、大丈夫だよ? 怖かったのも犯人の男の人と顔を合わせた時くらいだし……」
「怖いって思ったのは確かなんでしょ? しばらくしてからフラッシュバックする可能性があるんだ。それは忘れないでね」
「でも私、早い段階でコナン君達と連絡が取れたでしょ? コナン君とはずっと電話で繋がってて、ジョディさん達と透さんが助けに来てくれるまでの間も話し掛けてくれてたから、あまり不安を感じるような事がなかったの。本当に一瞬みたいな出来事で怖いっていうのも、もう忘れちゃったかも……」

 菫の事件に関する記憶は現状、監禁場所で目覚め、犯人の男と多少会話をしたくらいのものだ。男はすぐに立ち去っているので一人の時間の方が多かったくらいなのである。救出も迅速だったため、菫にとっては短時間の出来事だった。

 だが、その菫の発言にコナンは内心眉を下げる。コナンが菫に説明した通り、人は受け入れ難い状況に陥った時に、それによる不安を軽減しようとする無意識な心理的メカニズムが働く。菫は正にその一種で記憶を忘却しつつあるようだ。つまり菫が心に多大なストレスを受けたという事に他ならない。 

(菫さん、まだしばらくは麻痺……解離状態だろうな)

 本人は事件の被害者だという実感がまだあまりないらしいが、コナンは菫に取り付けていた盗聴器により事件の全容を知る立場にあった。結果的には命を脅かされる事はなくとも、男に監禁された事実、菫自身の褒められない行為はまともな状態であればそれが後にどれだけ精神に悪影響を及ぼすものか想像は難くない。

(意識がある状態の記憶も薄れつつあるのに、その上菫さんは薬の影響下の記憶もない。二重で記憶を封印している状態だ)

 正直これらは何かの拍子にいつ思い出されても不思議ではない。そしてこれらの精神的苦痛は思い出せば碌な事はないだろう。菫はある意味二つの爆弾を抱えているようなものなのだ。

(直前の犯人と対峙していた時の恐怖は、心の麻痺が解けたらすぐにでも思い出すかもしれない。仮に思い出さずに済んでも、そもそも人間の身体は繊細だ。記憶がなかろうと菫さんが体験した事、実行した事はすでに精神に何らかの負担になっている可能性がある)

 まずは差し迫ってこの逃避状態が解けた時に何か異変が現れないか注視しておかねばならない。それ以降も姿を見せずに隠れてしまった記憶が菫にどのような形で傷を残すのかと思うとコナンは罪悪感を覚える。そしてそのような事態にさせてしまったのが自分自身である事に内心落ち込んでいた。
 しかしそんなコナンに菫の深刻さを感じさせない声が話し掛けた。

「コナン君、あまり心配しないでね? たぶん平気だと思うんだよね。ほら私、男の人に捕まった時、話題になっていた薬を使われてるんでしょ? 聞いていた通り、何にも覚えてないの。だから少なくとも薬が効いていた間の事は思い出さないと思うし……」

 菫は犯人に投与された様々な薬物の影響で、他の被害者同様、拉致直後から二度目の目覚めまでの空白の時間の記憶が今のところはなかった。だが永遠にそれが戻らないと誰が言えるだろう。コナンには失われた筈の記憶が菫に今後付きまとう事になるのが申し訳なかった。

「今は大丈夫でもこれからは分からないんだよ。その薬は犯人が作った未知のもので、何が起きてもおかしくないんだ。だから異変を感じたらすぐに教えてね」
「う〜ん……うん……。分かった。何かあったら伝えるね?」

 硬い表情のコナンに菫も空気を読み話を合わせるようにして返答する。たださほど不安を抱いていない菫としては今一つ真剣に受け止めきれずにいた。

(コナン君、心配性だなぁ……。私、本当に起きてからさっきまでの事、夢の中の話にしか感じられないんだよねぇ? むしろはっきり覚えてる事の方が少なくなってきちゃったかも。今の時点で覚えてる事って何だろ?)

 頬に手を当て伏し目がちにそのまま菫は断片的な記憶を遡り始める。
 そんな物思いに耽っているかのように見える菫をコナンはしばらく見守っていたが、スマホに一件の連絡が入った。

「……菫さん、少しここを離れるね? すぐ戻って来るから」
「あ……うん。いってらっしゃい?」

 コナンは座っていた椅子から立ち上がり退室する旨を告げると、菫は一拍遅れてそれを了承する。反応の鈍い菫にコナンは後ろ髪を引かれつつその場をあとにした。



 * * *



「もしもし、赤井さん?」
「ボウヤ、悪いな。……菫はどんな様子だ?」

 コナンは菫の入院する事となった個室を離れ、秀一へと折り返しの電話をかける。菫に事件に関してだと悟られぬよう抜け出してほしいというメッセージを受けていたからだ。

「菫さん、ぼんやりしてる。まだ正気に戻ってないって感じだね……」
「そうか……致し方ないだろうな」
「でも、菫さんに気付かれないように……って、どうしたの?」
「犯人の男は組織によって殺された。頭を撃ち抜かれていたらしい」
「なっ?! ……もう殺されたの?」

 菫を救出したあと、ジョディをはじめとするFBIが科学者の男を追う事にしたとは聞いていたが、一足遅かったようだ。秀一は公安から得ている情報をコナンへと共有する。

「ああ。つい先ほど日本警察が男の遺体を確認した」
「公安――安室さん達ではなく事情を知らない警察が、だね?」
「そうだ。今はまだ身元不明の遺体が見つかったという程度の認識で、杯戸町の事件の犯人とは特定できてはいないが、防犯カメラの映像などが残っているそうだ。犯人だとわれるのは早いだろう。零君や景光君は警察内部でこの件に変に深入りしないよう、裏から手を回すのに忙しそうでね。俺がボウヤへの連絡を買って出たんだ」
「組織の関与を示す証拠はないの?」

 人気のない廊下でコナンは辺りを見回し、人がいない事を確認しながら尋ねた。

「零君の話では、犯人のアジトには組織に繋がる情報の痕跡はなかったらしい。遺体からもそういった物は見つかっていない。組織に先手を打たれては表沙汰になりようがないんだ」
「仮に犯人が何らかの組織の情報を持っていたとしても、アジトになければ肌身離さず持ち歩いていたって事だよね?」
「そしてジンならばそれを見落とす筈もないし、他殺を疑わせる物証も残さない。もはやこの事件は薬学に精通した異常者の誘拐事件で処理されるのではないかな? 拉致女性が続けざまに解放された理由は警察に知る由はなくとも、最後の被害者の菫はFBIに助け出された。捕まるのも時間の問題と悲観し自殺――という見立てが一般的だろう」
「組織の人間を闇から引きずり出すのは容易じゃないね。今回は人命救助を優先したから組織の事は二の次だったけど……」

 菫の一大事という緊急事態ではあった。だが黒ずくめの組織に僅かであっても辿れる可能性があったのだ。今回その尻尾を捕まえるには至らなかったのは全て終わって見てみれば絶好の機会を逃したとも言える。
 取り返しのつかないような人的被害を出さずに済んたからこそ、組織の捜査にも進展があれば尚良かったのに……とほんの少しだけ欲が顔を出してしまった。
 悔し気なコナンに秀一はさらに口を開く。これまでの話は長い前置きで、菫に知られぬようにして連絡を入れた本題はこれからであった。

「それでだ。ボウヤに連絡したのも、この事件には組織の関連性が一切ない、という結末になると思われるからだ。零君達と話し合ったが、今回は菫に組織の関与があったとは伝えない事で一致した。犯人が組織の裏切り者だとは伝えないでほしい」
「え? 赤井さんはそれでいいの? 菫さんにも必要最低限の情報は必要だって言ってたよね?」

 公安の二人と違い、情報共有の重要さを説いていた秀一の発言とは思えなかった。秀一の無機質な声が電話越しに響く。

「菫は死にかけただろう? 自らの手によって」
「あぁ、うん……」

 嵐のように衝撃を残して過ぎ去った、まだそこまで時間の経っていない出来事を思い出しコナンは暗い声を返す。

「催眠状態……薬の影響とはいえ、菫は自殺しようとした。今は記憶がなくとも、その無意識の心に蓄積されたであろうストレスは計り知れない。それならばその件を無理に思い出させる事はしなくてもいい、というのが俺達の結論だ。特に景光君が強くそう願っている」
「景光さんが?」
「ああ。もちろん彼らだけでなく俺もその意見に異論はない」
「それは僕も賛成だけど、組織の件を伝えないのはまた別の話じゃないかな?」

 菫の精神衛生上、記憶が飛ぶ自白剤の作用している間の痛ましい出来事を伏せるのはコナンとしても反論はない。だが、関係者である菫に今回組織の人間が動いていたもう一つの事件についても秘める理由にはならないとコナンは思うのだ。秀一は三人の総意を代弁した。

「今日の菫の行為は情報を漏らす事を恐れての事だ。ひいては俺達と密接な関係にある組織の事が脳裏に浮かんだ筈だ。菫は自分の行為と黒ずくめの組織をリンクさせているのではないかと俺達は考えている」
「そっか……この事件の犯人の男に組織の繋がりがあるなんて菫さんに伝えたりしたら、連鎖的に自分がしようとした事を思い出してしまうかもしれないからなんだね?」

 コナンも病室で菫の様子を観察していた時に感じたものと重なる推論である。尚更異論を唱える余地はなくなりコナンは納得したように一人頷く。

「そうだ。菫は頭のどこかで、心の奥底で覚えているだろう。この事件に組織が関連しているという情報を呼び水にして菫の記憶が甦るのを避けたい」
「でも、犯人は捕まったのか? とか、意識のない間に何が起きていたのか? とか、菫さんも気持ちが落ち着いたら聞いてくると思うよ? それに菫さんは昔の家族の事も話してたでしょ? その件については……どうしよう?」

 組織に関与には触れない事で話はまとまったが、それ以外に問題はあった。男の尋問に促されるようにして語った菫の過去だ。これを菫に話すべきか、それとも知らぬ振りをすべきかコナンには判断ができなかった。

「それなら零君や景光君とも話したんだが、今回の件で菫にどの程度真実を打ち明けるべきか――……」

 抜かりのない三人はその点もしっかり想定していたようだ。秀一は今後の方針をコナンへと告げ、さらに話を詰めていくのだった。



 ・
 ・
 ・



 コナンが秀一との密談を終えて病室に戻ってみると、ベッドの上で何やらソワソワと落ち着かない様子の菫に出くわした。ドアを開けたコナンに気づいた菫が勢いよく静けさを破る。

「あ! あのあのコナン君! 聞きたい事があるんだけど!」

 病院に運び込まれてから覇気のなかった状態だったそれまでとは対照的に、感情豊かな菫のその様はまるで糸の切れた人形に息が吹き込まれたかのようだった。




続く! 終わる終わる詐欺ですみません!

[ back to top ]



×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -