▼ *06
特定の女性を自分の操るがままにしたいという歪んだ性癖の持ち主が菫の目の前にはいた。
ベッドに横たわりながら菫は目まぐるしく、だが薬の影響下であまり冴えない頭で思索する。
(この人、きっとアメリカでも、同じ事を……女性を誘拐してた筈。最終的には、女性も見つかってる。それなら、解放はされる?)
薬により個人の秘めていた事柄を暴き、抵抗を封じるというのが男の手口らしい。操り人形を欲していると言う割には、男が誘拐した女性を捕らえたままにしない事を疑問に思うも、順当に行けば無事に帰還できるかもしれないという未来はある。
ただそれは菫には何の追い風にもならない。菫にとって、秘密の漏洩自体が命取りなのだ。
(なにも……言っては、ダメ)
今まさに菫の秘密は暴かれようとしている。それに菫は無意識ながらも抗っていた。
自白剤を盛られている事は理解できた。そしてこんな思考が出来ているという事は薬の掛かりが不完全なのかもしれないとも思う。だがそれでも危うい状況なのは変わりない。
何故なら現在進行形で、頭の中で声高に別の主張をなされている。喋ってしまえと諭してくるのだ。その方が楽ではあった。このモヤモヤしたものを頭に、胸に留めておくのは苦しい。早く吐き出してしまいたかった。
(あぁ、頭がおかしくなりそう。このままずっと、黙っているなんて、出来る訳ない……)
誰かが言っていた事を菫は思い出す。自白剤とは嘘をつくという選択が欠落するのだと。
そして誰かも言っていた。嘘をつけなければ、結局本当の事を告白するしかないのだと。
(私は今、確かにこの人の、人形なんだと、思う)
今の自分はどうしようもなく箍が外れている。尋問に耐える術も知らない。操り手のなすがまま喋り続けてしまう存在に薬のせいで成り下がっている。
(私の秘密だけなら、まだいい)
いざとなれば自分のこの世界に根付くまでの来歴を話してしまってもいいと菫は思っていた。例えこの世界が物語の世界だと話してしまっても、そんな事実は荒唐無稽すぎる。信用するのはなかなか難しい秘密だ。薬による妄想と判断されてもおかしくないと期待は出来た。
(でも私は、他の人の秘密を、知り過ぎてる)
菫が抱えているものは自分の秘密だけではない。むしろ守り通さねばならない他人の秘密の方が多い。真っ先に話してもいいと思える自分の秘密は、今この時点でさほど重要な秘密ではなくなりつつあった。
むしろ本当に話してならない幼馴染たちの任務、正体、それらに関する諸々を口にしてはいけないと思えば思うほど、口から飛び出そうだった。
(何かの拍子に、皆の秘密も、喋っちゃう)
ベラドンナの毒が自分を蝕んでいるのだ。この状況で本当の秘密を隠し通せる自信が菫にはとてもではないが湧いてこない。
(ダメ。ダメだよ。迷惑は、かけられない)
力の入らなかった手を菫はゆっくりとだがギュッと握る。秘密を漏らす危険性が頭に浮かんだ菫の道は自ずと限られていく。ぐるぐると考え込んでいる菫に、男が根気よく声を掛けた。
「――ねぇ、聞こえてる? 君の秘密、教えてよ」
「……」
薬で正常ではないと理解しているからだろう。男は急かす事なく菫の言葉を待っていた。薬の力を借りる男にとって言葉を引き出すのに暴力は必要なく、質問を重ねれば答えに導かれるのだ。
だが菫は焦点の合っていない目で宙を見つめている。人形候補の反応が芳しくない事に男は軽い調子で唸った。
「うーん……薬が効き過ぎてるかな? それとも秘密……なんて聞き方だけじゃ漠然としてるかな?」
菫が案外粘る様子に男は思案し、手を伸ばしてほんの少し菫の身体を揺らすと自分に気を向かせ、今度は具体的に問いかけてきた。
「……そうだなぁ、それじゃ殺したいほど憎い人間はいるかい? 何か罪を犯した事があるとか? 人に知られたくない事とか、どれかはあるだろ?」
その内容は質の良いものでは断じてない。決して表に出せないような誰もが秘めたいと思う事を、無理矢理引き出そうとするものだった。
* * *
「この男、本当に下種だな」
耳を傾けていたスピーカーから聞こえてくる男の声に、景光が吐き捨てるように言った。
「この質問では、菫が傷付く」
零も顔を顰めた。これならば菫が自分たち公安の秘密を漏らしてくれた方がまだマシだとさえ思えたほどだ。
「……僕達の事を口にされたとしたら、それは確かに痛いだろう。方針転換も視野に入れる必要が出てくる。だがこうやって事前に把握できているならば、少なくとも僕らは身の安全を第一に動く事は出来る」
避けられるならば避けたいが、情報が洩れていると心構えが出来るならば致命的ではない。秀一も別の観点から同意した。
「しかもこの男は組織の裏切り者だからな。仮に菫からFBIや公安の情報を掴んだとしても、組織に伝えるかどうか……。伝わったところで組織を抜けようとした男の言葉だ。奴らは疑うだろうな」
「もし僕に疑いが掛かったとしても、組織に置き土産でも残して、打撃を与えて抜け出してみせる」
この場で唯一現役の潜入捜査官である零は今後の自分の行動について算段し始めていた。裏切り者からの情報が組織に共有されたとしても、次善策を講じる余裕がある。組織内で自分への疑念が確信に変化するまでの間も、ギリギリまで組織に食い込み、危うくなれば潜入捜査から手を引く事は可能だと結論付けた。道半ば故に引き際を間違えるつもりはなかった。
だがスピーカーの向こう側の様子では、先んじて大きな痛みを受けるのは零ではない。
『何かないかい? 人を殺したいと思った事はあるかな? 犯罪に手を染めた事は? 知られたくない過去、感情、思ってる事とか、何でもいいんだよ?』
男の質問は人が秘めたいと思うものの中でも最たるものではないかと思われた。決して美しくはないドロドロとしたものである。
打ち明けられる内容によっては人の尊厳が著しく損なわれるだろう。そしてそれを知られたならば――バラすなどと脅されたならば、どんな抵抗も躊躇わずにはいられない筈だ。
「卑劣な男だ。攫った女性にこんな真似をしていたとはな。しかし……」
ようやく見えてきた男の目的、本性に、秀一が呆れと怒りの混じった声で憤る。だが腑に落ちないのか何やら首を傾げてもいた。FBIでも捜査しているためか一通りの事件の知識は秀一にもあるのだが、何か違和感を抱いているようである。
「類似の事件を起こしているアメリカでは、薬で記憶のない女性を短時間で解放していた筈だ。男の人形を欲しているという発言からすると、女性を捕らえたままにしないのは矛盾するな」
「変だよね? 被害者の外見や声は似通っているから理想からは外れてない筈なのに。今の菫さんのような状態にされた被害者なら、心置きなく自分の手元に置いておきそうなものだけど……」
せっかく薬で抵抗を奪った女性を、結局男は手離してきている。まだ少し事件の真相に辿り着けていないようだと全員が考え込むように黙り込んだ。
「……理想が高すぎるのかもしれない」
そしてその疑問に零が口を開いた。
「外見や声の他にも何か条件があるんだ。男の理想足り得ない何かが女性に見られた場合、解放されているんじゃないか?」
「あぁ、ありえそうだ。尋問中にそれを見極めてるのかもな。被害者女性の無意識の行動とかで、条件に合う人形を選出してるって感じか?」
景光も頷きながら自分の考えを述べると秀一もまた首肯した。
「そうだな。長期間囚われた様子のある被害者がいないのは、ただの偶然だと考えるのが妥当だろう」
「それじゃ、菫さんは早期に解放されるかもしれないけど、そうではない可能性も……」
男の分かっている犯罪歴から、被害者は薬を投与はされるが早い段階で解放されると思われていた。だが、男の目的を聞くと単に趣味に合わなかっただけという結論になってしまう。下手に男の御眼鏡に適うとそのまま監禁継続が考えられた。
ただ、目下の問題はほかにもあった。
「あの……ボク達このまま聞いてていいのかな?」
コナンはスピーカーを見やりながら他の三人に控えめに問い掛けた。
男の質問はコナン達のやり取りの間も続いていた。菫は黙り込んだままだったが、男は反応の鈍い相手に対し気長に話し掛け相手をしている。男ののんびりとした口調の尋問は今のところ成功するのかコナン達には判断が付かなかったが、もし菫が何かを喋ってしまうならば果たしてそれを自分達は聞いても良いものかと躊躇いが生まれるのは必然だった。
「菫さんが何か話してしまったら、それはきっと聞かれたくない事だよね? 菫さんもやっぱり秘密は知られたくないと思うんだけど……」
自身が盗聴器で菫のプライバシーを侵害していたからこそ、コナンは今回こそはと菫に対して慮る気持ちが強かった。また杯戸公園からの帰り道で菫も秘密があると漏らしていたのをコナンは聞いている。それを隠しておきたいとも言っていた菫の気持ちを代弁した。
「それは……だけど、菫ちゃんと犯人との会話にはどれだけ有力な情報が詰まっているか分からないから、な」
「菫の話だけを聞かずに済ませられるなら、僕達も勿論そうしたいのはやまやまだが……」
「男がいつ手かがりになる事を漏らすかもしれない事を考えれば、現実的に無理だろうな」
コナンの言い分は三人も理解している。しかし現状ではそれを避けては通れなかった。
犯人と菫の会話がなければ情報の追加はないが、反対に男が望むような会話が繰り広げられるならば菫は後に苦しむかもしれない。そんなジレンマを抱えて苦しげな表情を浮かべるコナン達であったが、男の尋問らしからぬ問い掛けはついに功を奏す。菫がとうとう反応してしまった。
『――ねぇ? 本当に何でもいいんだよ。今まで誰にも言ってない事ってあるだろう? 君が恥ずかしいと思ってる事、罪悪感を抱いている事、懺悔したい事、何かないかい?』
『ざんげ?』
スピーカーから菫の小さな声が聞こえてきて、コナン達は反射的に口を閉ざしてしまった。
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菫は自問自答に没頭していたが、男から何度も繰り返される質問を無視し続けるのはやはり難しい。
意識朦朧の菫には作り話をしよう、話をそらそうとは考えられない。何か返答しなくてはいけないならば、頭に思い浮かぶ事をそのまま垂れ流すしかなかった。言って良い事と悪い事の判断が付いた事だけは一つの幸運だが、それでも追及が続けば菫もいずれ何らかの秘密を漏らしてしまうのは時間の問題だ。
「ねぇ? 本当に何でもいいんだよ。今まで誰にも言ってない事ってあるだろう? 君が恥ずかしいと思ってる事、罪悪感を抱いている事、懺悔したい事、何かないかい?」
「ざんげ?」
男の挙げるキーワードで思い浮かぶものは無数にあるが、菫は人知れず最後の一線を越えぬよう耐えていた。しかし男が言った懺悔したい事……という問いは、今までの問いとは少し趣が異なっている。秘めておきたいと思っている事を暴こうとするものではなく、対象が打ち明けたいと思っている願望をくすぐるものだ。
「……それ、なら、あります」
憚る事なく喋れそうなものは自身に纏わるものだけだと菫は思っていた。幼馴染たちの秘密は死守せねばならないが、コレはそれには該当しない。個人的な事だからこそ幼馴染たちに迷惑を掛ける事はないと、菫の口は軽くなった。
「私の、家族のこと……」
今まで口を噤んでいたのが嘘のように菫の口から言葉がスルスルと零れ出る。
「両親を、忘れたいんです」
「忘れたい? 何をされたの?」
菫は遠い昔の事を思い出す。なるべく考えぬよう心の底に沈めている悲しい記憶だ。
「何も。何も、されてない」
「? どういう事かな?」
「私は、いらない子、だったから」
菫は痛みに耐えるように一度だけ強く目を瞑る。自分で言った自分の言葉に傷付いた。
「育児放棄でもされてた?」
男はあっさりと菫の境遇を大まかにだが想像出来たようだ。声音はさほど興味もなさそうだったが、人形がようやく喋り始めた話であったため掘り下げる。
「君の両親ってどんな人たち?」
「……わからない、です」
「はい?」
「あまり話を、した事が、なくて」
会話も思い出もない家族だった。今ならその理由が分かるが、当時は幸せな家族の情景にひどく憧れたものだ。それも結局夢で終わってしまった。菫はそれが辛く思い出さないようにするしかない。心を守るにはそれしか方法がなかった。
「親の事は嫌いかい?」
「いいえ。不自由なく、育てて、くれました」
「そうかなぁ?」
菫の言葉に男は嘲りと哀れみも含んだ声を返す。しかし菫は気付かず、懺悔を続けた。
「むしろ、私みたいな子供で、本当の両親に、申し訳なかった」
「うん? って事は君、どこかに引き取られたの? 今は別の両親がいる?」
「はい、養子に……」
「ふーん? 今の両親との関係はどう――」
その後、男は菫の現在の親子関係についていくつか問い掛ける。ただ男は質問はするがあまり熱心には聞いていない様子だ。そして質問を終えると男は少し黙り込み、一度は流した菫の言葉を再度聞き返した。
「本当の両親に申し訳ないって、どうしてそう思うの?」
「……だって、私みたいな、愛せない子供の面倒を、見させてしまったから」
菫のその言葉に男は俄かに興味を示す。
「顧みられずに君はいない者の扱いをされて、それを甘受するの? 子を愛さない親は悪くないの?」
「親だけじゃなくて、私も、悪かったんです……」
「自己肯定感が低いなぁ、君。親からの愛は人間が一番最初に受け取るものだと思うけど?」
男としては重要視してはいないが世間に浸透している一般的な考えをあげる。
「親からの愛は文字通り、親からしかもらえないんだよ? 君はそれを与えてもらえなかったんだけどねぇ。まあ、君みたいな性格の方がボクとしては都合がいいけど」
男は笑い、情報をさらに得るために新たな質問を繰り出すのだった。
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ここにはいない二人の会話を伝えてくるスピーカーからコナンは目を逸らす。菫たちの会話は続いていたが菫が一方的に喋らされているだけだ。この状況では監禁場所や男についての情報は恐らく出てこないと思われた。今だけは事件の解決に繋がるとも思えず、そちらにあまり集中しないようにという苦肉の策だった。
居心地悪そうにコナンは他の者に話し掛けた。
「菫さんの家族の事、三人とも知ってた?」
「いや……菫は養子になる前の事は話さないから、聞かないようにしていたよ……」
「俺もだ。何だか聞かないでほしそうだったしな……」
零も景光も首を振る。菫が養子だとはコナンも聞いていたが、かなり繊細な話題である事は男との会話で否が応にも理解した。皆菫が語りたがらなかった過去がどのようなものか想像できてしまい口が重くなる。
「昔、菫を抱き上げてやった事があるんだが……」
そんな中で秀一が躊躇いがちに口を開いた。その内容に零たちが眉を上げるが話を止めようとはしなかった。
「――菫が言っていた。抱っこされたのが嬉しかったと。覚えている限りでされた事がない、とな。今の菫の話を聞いて、親に抱き上げられた事がないのは、きっとその通りなんだろうな、と思った」
「赤井さん、菫さんを抱き上げるって、どういう状況だったの?」
追加された情報も菫の幸せではない過去を裏付けるものだった。だがスピーカーからの音声を完全に遮断は出来ないからこそ、可能な限り菫の話す内容を意識せずに済むようコナンは秀一に水を向けた。それが分かるのか秀一もコナンの雑談に付き合う。
「菫が足を怪我したところに居合わせたんだ。それに抱き上げると言っても、腕に座らせるような縦抱きだぞ? 子供の頃の話だ」
「え、子供の頃? ねぇ赤井さんと菫さんって、いつからの付き合いなの――」
せっかくの二人の試みは間を待たすには至らなかった。あえなく中断する事になってしまう。
『――君は忘れたいって言った。両親は君にとって不要って事だよね?』
会話の切れ目にタイミング悪く耳に障る男の声が響いて、ついコナン達はそれに耳をすませてしまったからだ。
『忘れたい人間の事なんて、恨んでるんじゃないの?』
『恨むなんて……でも』
『でも?』
男はやはり菫から負の感情を引きずり出したいようだ。だが菫の口からあふれ出るのは恨み言ではない。
『悲しかった。お母さんたちに、無視しないで、ほしかった』
菫が心にため込んでいたものは別のものだった。
『愛して、ほしかった。私は二人が、好きだった、から』
どうしても諦められずに求めてやまない、もはや心に染み付いてしまった願望だ。
『――もうやだ。こんなの、忘れたい。苦しい。でも……忘れたく、ない』
そして矛盾した感情だった。コナン達にはそれが小さな子供の泣き声のように聞こえた。悲痛な告白は特に古くからの知り合いである三人の胸をつく。
「菫……」
遠く離れた場所で菫を案じる者がいるのとは真逆に、今最も菫の傍近くにいる男にとってはその告白は特別な感慨を抱くものでもなかったのだろう。手心を加えるなどという優しさは一切なく、淡々と話を進める。
『そんな親、いらないんじゃない?』
『ち、がう。ちがう……』
『違う?』
『いらないのは、お母さんたちじゃ、ない』
『じゃあ何だい?』
『いらないのは、私。親にも、愛されなかった、私、です』
間を置かずに明かされるその菫の痛々しい発言と同時に、コナンは周りの男達が苦しげに呻いたのも聞いた。そんな事を露程も知らない菫は思うままに語った。
『私は本来、いらない人間。いなくても、いいんです』
『自虐的だねぇ。君を引き取ってくれた現在のご両親が泣くよ?』
『……いなくなっても、何も変わらない。私はいない人間だから』
『君って所謂アダルトチルドレンってやつかな? 普通の女性に見えたけど、君の心はだいぶ昔に壊れてたみたいだね』
男の指摘は辛辣だったが、コナンも同意せざるを得なかった。菫の言動は機能不全家庭で育った人間のそれに近い。
「菫さん、子供の頃の傷がまだ癒えてないんだね……」
「心の傷はなかなか治らない。ともすれば一生付き合っていかないといけなくなるくらいだ。完治は難しいんだよ……」
ポツリとコナンが呟いた言葉に、景光も共感するものがあるのか辛そうに答えた。
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誰にも言えずに、胸に痞えていたものを半ば強制的に引き出された事は、菫に少なくないダメージが与えた。懺悔だと思っていた言葉は最後はただの泣き言になっていた。
(なんだろう……自分でも思ってないことが――言葉になってなかった感情が、無理やり言語化された、気がする)
見て見ぬ振りをしていた心の傷が抉られたようで、気分がひどく落ち込む。胸がジクジクと痛んだ。今までこの世界で生きてきて菫は自身がとても恵まれていると日々感謝していた。
それなのに、先ほどの無意識の独白では、自分はいまだ両親の愛情を渇望している。そしてそれはもう永久に手に入れる事は叶わない事も菫は知っていた。この世界で大切なものを見つけても、他のものは満たされても、その部分だけがぽっかりと空いたままだ。どんなに願っても心の空白は永遠に埋まらない。菫はそう思い至ると切なさに襲われる。
(昔のことなのに、今も引きずってたの? 私、気にしてないって、思い込んでたのかな)
自分が考えていた以上に傷が深い事を痛感した。どうしてか寒気にも似た心細さも覚えた菫はぶるりと震える。今すぐあたたかい所に帰りたいと心の底から願った。
そんな菫のことなど気にも留めず、男はさらに追い打ちを掛ける。
「う〜ん……すごく参考になったけど、歯向かわせないようにするには少し弱いかなぁ。他には? あ、そうだ! さっき聞いた事とは反対に、好きな人や大切なものは? ボクみたいな人間に傷付けられたくない、守りたいものとか?」
「大切、守りたい……?」
菫の脳裏に命を掛けて仕事をする人たちの顔が浮かぶ。昔の子供の頃の痛みが水に押し流されるように隅に追いやられた。
これを喋る訳にはいかない――そう思うと、気力がなくなりつつあった菫に力が湧いてきた。
(皆の、邪魔は、できない)
それだけは避けねばならなかった。そして自分ができる事をしなくてはならない。急激に頭が回り出す。
今自分ができる事は何だろうと菫は思うと同時に気付いた。一番最初に考えた指針だ。それが答えだった。
自分は沈黙しなければならない。
(あぁ、そうだ……。私がしなければならない事は、一つだった――)
菫は理解する。今自分がすべき事を。
未来を決定づけたその判断は、ほんのわずかな時間で下される。菫はゆっくりと口を開く。
「私の、大切なもの……」
まともではない思考の下で菫の腹は決まった。茫洋と定まっていなかった視線はベッドの傍らにいる男へと向けられる。
菫を見下ろしているのは組織から逃亡中の男でもあるのだが、生憎その情報を菫は知らない。知っていたところで菫の行動に変化はなかっただろう。
菫は男に問われた事で真っ先に浮かんだ言葉を口にした。
「胸が、苦しいくらい、皆が、好き」
「皆?」
男の不思議そうな声は耳に入っていない。男との短くない会話の間に菫の身体は少しずつではあるが自由を取り戻し始めていた。こわごわとしてスムーズではなかったが、腕や指先が動かせる。
頭も身体も万全の状態ではないが、先程よりも制御はできていた。
(大丈夫。動ける)
今からしようとしている事を実行するには問題ないと思えた。
「私の光、希望なの」
その決意を合図に菫は動いた。
「……だから、足手まといには、なれない!」
「なっ!? おいっ!!」
菫が碌に動けないと思っていた男は全く警戒していなかった。横たわる菫のすぐそばに居た男の慌てた声が動揺を如実に表している。
(これしか、ない!)
菫は男の腕に飛びかかる。そして男の手の中の瓶を菫は奪おうとしていた。
もちろん男は抵抗するが対して菫の方は火事場の何とやらだ。さらに言うなら相手はあまり成人男性の強みを持ち合わせていなさそうな、如何にもひ弱な科学者という痩せぎすの体型であった。菫は不自由な体にもかかわらず、もみ合いの末にそれを我が物とする。
(これさえ飲めれば……!)
男の持つ薬が人を死に至らせられるかは分からなかった。だが薬は毒と紙一重だ。しかもベラドンナから生成された薬だと男は言っていた。突き詰めればアルカロイドの毒薬である。過剰摂取すれば死、運が良くとも廃人だろう。菫にはこの際どちらでも良かった。
(沈黙さえできれば、何も怖くない)
菫はコルクの蓋を外し、それを口元へ運ぶ。これで目的は達せられると、秘密が漏れる事はないと、菫の内心は驚くほど穏やかだった。
「させるか!」
「あっ?!」
しかし、菫は男の妨害に遭う。思いきり身体を突き飛ばされ、菫はベッドヘッドのパイプに打ち付けられた。それに少し遅れて菫の手から離れた小瓶が床に落ち、ガラスが割れる音が広がる。
「っぅ〜!!」
菫は肩からぶつかり痛みに声をあげる。一瞬息が出来ないほどの衝撃で、菫はすぐには身体を起こせなかった。
そして男も床に目を落とし微動だにしない。だが徐々にその頭は項垂れていった。
「はぁ……これ、アメリカから持ち込めなくて、日本に入国してから作った薬なのに。予備なんてないんだよ……」
意気消沈したように男は床の残骸に目を向け、ブツブツと恨み言を吐いている。
(……薬、飲めなかった)
菫も失敗した事に茫然としていた。この後の事を思えば死にたくなる。否、これでは死にたくとも死ねない。
だが、ベッドに沈み込んでいた菫は視線の先に映った黒い無機質な存在に、ハッとした。それに目を奪われる。
(アレ。アレを使えば……!)
菫に再び活力が生まれてくる。まだ道が残されていたのだ。
菫は最後の方法に望みを掛け、男に気付かれぬようそれに手を伸ばした。
「あ〜あ……ベラドンナがなかなか手に入らなかったから苦労したんだよ? やってくれたね――Wow!」
最初は薬が台無しになった事に男は不機嫌そうな声を出していた。床に飛び散った薬と散らばったガラス瓶に名残惜しげな視線を向けていたが、男はふと菫の方を振り向く。そして菫の行動に目を瞠った。
「……本当に予想以上の事をしてくれるなぁ、君は」
起き上がりかけていた菫の震えた手で握られている物に、男はどことなく面白そうな表情を浮かべていた。