Cendrillon | ナノ


▼ *05



 杯戸公園でFBIと接触し早い段階で離脱していた零は、ベルモットから急遽呼び出されていた。

「――FBIは裏切り者の居場所までは掴んでいないようです」
「そう、FBIが掴んでいる情報もその程度……」

 当初は零に取り付けられていた盗聴器でFBIとの会話は共有されており、このように再度顔を合わせる必要はなかった筈だった。だが、故意に零がその盗聴を所々阻止していた――コナンとの際どい会話を聞かせたくなかった――ため、ベルモットに十全に情報に伝わっておらず、その抜けを補う必要が生じたのだ。

「ええ。ですが組織から逃亡中である事や組織の自白剤製造の関係者、という事は把握しているかもしれませんね」

 零はジョディやキャメルとの会話で気付いた事をよどみなく報告していく。その内容にベルモットはさほど気にした様子はなかった。

「今更それがFBIに知られたところで痛くはないわね。裏切り者の手が入っているとはいえ、自白剤に関しては文句のつけようのない実績があるし」
「おや。自白剤は使用中止にはしないんですか?」
「自白剤は男の初期の成果で、問題も見つかってないわ。改竄されてた研究データと違って、製造法も組織ですでに確立されてるものなの」
「そうですか……」

 裏切り者だとしても自白剤の有用性は揺るがないようだ。今後も継続して利用はされていくのだろう。
 零とは違ってベルモットは、そんな事よりも……と、他の事に関心を示した。

「ところで、貴方に取り付けた盗聴器で聞いていたけど、時々ノイズが入って聞き取りづらかったわよ。結局あなたとこうして会う事になって、二度手間で意味がなかったわね」
「何か調子が悪かったようで……。報告は以上です。この盗聴器もお返ししますよ」

 自分が故意に引き起こした不具合だと悟られぬよう零は素知らぬ顔でやり過ごす。不要になった盗聴器も早々に返却する事にした。

「調子が悪いなら捨てて構わないわ。あぁ、そうだわ。裏切り者の男なんだけど、姿を確認出来たみたい」
「おや。男の居場所がもう掴めたんですか? ちなみにどうやって見つけたんでしょう?」

 公安でも念のため足取りを追っていたが、組織の方が一足早かったようだ。どの線から尻尾を掴んだのか零は探りを入れる。可能ならば公安が先に男を確保するのも良いだろうと思っての発言でもある。

「薬剤の調達で動くだろうと、ブラックマーケットのその手の売人を監視してたのよ。他に協力している仲間がいないかの裏付けが取れ次第、始末するらしいわ」
「薬の原料の入手ルートでしたか。しかし、裏切り者にとっては束の間の自由だったようですね」

 男を憐れむ言葉を吐きながらも、非合法の薬物密売ルートを洗い出すかと、零は淡々と自身に仕事を課すのだった。



 * * *



 組織の仕事が終われば、息つく間もなく公安の仕事に取り掛からねばならない。先程得たばかりの情報を元に、景光にアンダーグラウンドの薬物取引を洗うよう移動の車中で依頼し零は仕事場に戻った。
 しかし、警視庁に足を運んだ零は風見から全く予想もしていない事を聞かされる事になる。

「――何、菫と連絡が付かないだと? 電話は? 繋がらないのか?」
「はい、降谷さん。ずっとコール音でメールも返信がありません。そもそも菫さんから腕時計が壊れたようだと警察庁の公安部に連絡があったそうで、そのまま修理のために担当の者と会う約束をしたようなんですが……」
「約束した時間に菫が来てないっていうのか? おかしいな……。遅れるにしても、約束が無理になったとしても連絡はする筈だが……」

 零の言葉に風見も頷いた。この非の打ちどころのない上司の協力者なだけあって、菫もまた真摯に仕事に取り組む人間だと風見をはじめとする関係者には思われていた。約束を反故にする事はおろか、これまで時間に遅れた事なども一度としてない。それ故、最初から事件性があるとは思われてはいなかったが菫の行動の異変は確認という名の下に、警察庁から警視庁へと速やかに共有された。

「こちらの公安部で何か菫さんを引き止めたりしてないかと確認が入った次第です。しかし菫さんはこちらへ今日いらしましたが、すぐに帰られましたし……」

 風見は確かに菫と本日データの引き渡しで顔を合わせている。だが、菫は用があるのだとすぐに警視庁をあとにしていたと零に報告する。零もそれには頷いた。

「ああ。杯戸公園でFBIの捜査官と共にいるのを見たよ。江戸川コナンというFBIの協力者の少年に呼び出されたようだ。……時計が壊れたという話だったが、発信機はまだ生きている可能性があるだろう? 追えないのか?」
「既に確認していますが反応なしで、発信機も壊れているようです。なので、僭越ながら公安で把握している菫さんのスマホのGPSで、位置確認をしています」

 先程から申し訳なさそうな風見の理由が知れる。越権行為だと思ったのだろうが、零は気にしていないと首を振った。

「いや、そういう事なら仕方ない。それで、現在地は分かっているのか?」
「ええ。ですが、同じ場所から全く動く様子がないんです。外にいる部下に様子を見に行かせているので、そろそろ報告があると――」

 風見の言葉を遮るように、コール音が鳴り響く。正にその連絡が風見に届いたようで、零の首肯で風見は電話を取る。だが風見は部下の報告のその内容に顔を青くした。

「ふ、降谷さん、菫さんのスマホの入ったカバンを見つけたようですが、本人の姿はないと……。それと、女性の靴が片方だけ近くに落ちていたようで……」
「靴? ……サイズは何センチだ? 色と形状は?」
「いえ、そこまではまだ……か、確認します!」

 その問いで電話の向こう側の部下に風見は同じ質問をぶつける。そして風見は部下の返答をオウム返しで零に伝えた。それを聞いて、スッ……と零の顔から表情が消える。

「公園で会った菫が履いていた靴と合致する」

 鞄を忘れて移動する事はあり得るだろう。だが靴を片方だけ残してその場を離れる事は何か問題でもなければ説明できない。異常を察知した零の行動はそこからが早かった。

「すぐにその近辺の監視カメラの映像を精査しろ。あと病院に女性の搬送がないか調べてくれ。僕は念のため菫の家を確認してくる」
「わ、分かりました!」

 矢継ぎ早に指示を出すと、零は風見の返事を聞かずに駐車場へと向かう。

(大丈夫だ。きっと何かの間違いで、菫は無事だ。そうに決まってる)

 冷静にそう自分に言い聞かせるが、零は心のどこかで疑っていた。波が押し寄せるように悪い予感がしていた。それが現実にならない事を祈りながら素早く愛車に乗り込み、幼馴染の家へと車を走らせる。
 その道すがら景光に連絡を入れようとスマホに零が手を伸ばしたところで着信音が鳴り響いた。

「チッ! こんな時に! ……しかもこいつか」

 出鼻をくじくような遮りに舌打ちが漏れた。その上スマホの画面に表示された名前がさらに眉間に深いしわを刻ませる。電話の主は年上の気に食わない男だ。零は憚る事なく苛立ち混じりに応答した。

「……赤井! 今は忙しい! 後に――」
「緊急事態だ。菫の家にすぐ来てくれ。菫が攫われた。君たちの協力が必要だ」
「はぁ?! 貴様何を知っている!!」

 今最も知りたい情報が、よりにもよってその年上の男からもたらされた。聞きたい事は山のように浮かぶ。
 しかし秀一が菫宅へ来るようにとわざわざ最初に言った事を考えると、確かに電話越しでは何においてもロスがある。元々向かうつもりであったが、男の言う通りにしないといけない事も、自分にはない有力な情報を掴んでいるらしいという事も、何もかもが零にとって腹立たしい。

「……ああ〜くそっ!! すぐ行く! そこで待ってろ!」

 湧き上がる不愉快さを隠す事も出来ずに零は秀一に向かって怒鳴りつけ、車のスピードをさらに上げるしかなかった。



 * * *



「ねぇ、赤井さん? さっきの電話の相手って……。ここに、菫さんの家に呼び出したって事は、菫さんの家知ってるの?」

 菫宅のリビングでそれぞれソファに腰を下ろしながら、コナンは秀一に呼びかける。秀一は隠されていた鍵で頓着した様子もなくさっさと施錠されていた扉を開け、あっさりと家の中へと入り込んでいた。だが、そのあとをついて入ったコナンは家主のいない、しかも女性の家に無断で侵入とあって居心地が悪そうだ。

「そうだな。だが詳しくは彼が来てからにしよう。ところで、盗聴器から新たに音は聞こえてこないか?」
「ううん。今は特に。車は止まってどこか目的地に着いたみたいだけど、特徴のある音は何もないんだ」

 相手が移動を続けて距離が離れるならば、いずれ音も拾えなくなるかもしれなかったが、どうやら盗聴電波を拾える範囲にアジトがあるようだ。現在もコナン達は盗聴器からの情報を元に、菫の居場所を探っていた。

「菫の意識はまだ戻らないようだな」
「戻ってないね。意識のない菫さんは多分どこかに閉じ込められて、今は一人だけなんだと思う。誘拐犯の男が遠ざかっていく感じの足音がしたし、近くにはいないみたい。でもこの男、仲間もいないんじゃないかな? ずっと会話はなかったから……」
「単独犯か……」

 話し声などの手掛かりになるものは何も聞こえてこないが、不規則に生活音のようなものは届いている。それでも場所を特定するには至らない些細な物音だ。菫の反応などが聞ければまた得るものもあるのだろうが、生憎菫はまだ目覚める様子がない。
 それでも秀一は、こちらからできるアプローチはあるのか? とコナンに再確認した。

「ボウヤはさっき博士に連絡していたようが、何か分かったのか? 盗聴電波の傍受が出来たという事は、あまり離れていないと思うが?」
「博士に頼んで何か情報はないか返事待ちだけど、発信機ではないから場所の特定は難しいと思う。それに今回の盗聴器、試作品のせいか挙動がおかしいみたいで」

 通常ならば電波の拾える短距離の範囲でしか音が聞きとれない盗聴器なのだが、阿笠が手を加えた試作品はどうやら製作者の意図しない動作をしているらしい。当初はそこまで広範囲な盗聴が可能だと想定されていなかった。

「でもちょうど同型の試作品を、追跡用の発信機と一緒に動物に取り付けて確認したら、実は隣町の音も拾えてたって言うんだ。理論上はそんな遠距離の音は拾えない筈なんだよ」

 コナンには詳しく共有されてはいなかったそうだが、事前の実験で盗聴器と発信機の両方を野良ネコに取り付けてみたところ、かなり離れた距離でも電波を傍受できたそうだ。現在の状況では想定範囲外から盗聴している可能性を捨てきれないという。

「あと今も雑音が聞こえるのもいつまで続くか分からないみたい。電池が切れたらどうしようもないって……」
「盗聴器の恩恵は限りがあるという事か。ボウヤ、博士が認識しているだけでこの盗聴器は半径何キロが――」

 秀一がそう言い掛けたところで車のエンジン音がした。車が停まって間をおかずに玄関から物音があり、コナンは緊張したように動きを止める。そして焦りを如実に伝える足音が近づいてくると、リビングの入り口に目を向けた。

「赤井!! いったいどういう事だ! 菫が拉致されたと何故知っている!!」

 足音の主は鬼の形相でリビングに飛び込んできた。菫の家へと急行してきた零である。掴みかからんという勢いで秀一に荒々しく迫った。

「待て、事情を説明する。落ち着いてくれ――」
「今回の菫の誘拐にFBIが関係しているのか!?」
「ちょっ! 赤井さん、安室さんに名前が……っていうか正体バレてるよ?!」

 声こそ機械越しではない素の声だが見かけは沖矢のままの秀一に向かって、零が名前をあげ怒気を発しながら詰め寄ってくる。この場に安室が来るであろう事は電話から漏れ聞こえた声で予想は出来ていたが、普段のクールな安室しか知らないコナンは目の前の光景に目を丸くした。また沖矢として安室を呼び出したのかとコナンは思っていたのに、二人のこの様子ではそれはなさそうだ。

「ちょっと待ってよ二人とも! どういう事なの? ボク達は敵対関係だったよね?!」

 零の剣幕に怖気付きながらもコナンは口を挟む。その場違いとも言える子供の声に零が少し我に返った。

「……コナン君もいたのか。赤井、何故巻き込んだ?」
「そもそも菫の拉致に気付いたのが、ボウヤなんだ」

 秀一の言葉に零は眉を寄せ、コナンを見下ろす。FBIではなくコナンが事件を嗅ぎつけた事に懐疑的なようである。

「コナン君? 何故今回の件、気付けたんだい?」
「あ、えっと、菫さんに盗聴器を仕掛けてました……」

 分の悪い指摘にコナンは罪の意識からか俯く。

「ホォ……菫に盗聴器ね……」
「ごめんなさい――って、安室さん、菫さんの事呼び捨てにしてるの?」

 低い声で零はコナンの言葉を復唱した。言い訳しようのない自分の行いにコナンは居た堪れなくなったが、普段とは違い零が菫の名前を敬称を外して呼んだ事に顔を上げた。

「あぁ……それは――赤井、どこまで話している?」
「守秘義務で君達の事は何も話していない。ついさっき、菫は俺の協力者だと明かしたくらい、ボウヤは菫について知らないぞ」
「え? 守秘義務って、安室さんとの事だったの? じゃあ、もしかして……」

 FBIの秀一を公的に制限できるほどの相手でなければ守秘義務は課されないだろう。となれば、やはり安室は自分が予想をしていた通りの人物なのではないかと、コナンは公安が関連しているという思いが強くなる。
 その自分の予想を本人に問い質そうとした時、またもや外から新たな来訪者の合図があった。敷地内に車が入ってくる音に、零がポツリと呟く。

「ヒロか……」
「ヒロ?」

 今まで聞いた事もない名前にコナンは首を傾げた。コナンはついもう一人の同席者を見やると、秀一が、あぁ……と反応した。

「ボウヤも知っている人間だ」
「ヒロなんて人、知らないよ?」

 思い当たる人物はなく、コナンは疑い深げに目を細めた。しかし玄関のドアが開き、先ほどの零と同様な足音を立てながら現れた人物はリビングに入るなりその場の人間に問い掛けた。

「ゼロ! 赤井! 菫ちゃんの安否は? 詳しい事は分かったのか?」

 顔を青くして駆け込んできた人物に、コナンは再び目を瞠る。

「景光さん?! え、どうして――って、あ! ゼロって……」
「うん? コナン君が何でここにいるんだ?」
「ヒロ、コナン君が菫に盗聴器を仕掛けていたから、この事件にいち早く気付けていたようだ」

 零が端的に説明したがその後の景光の反応は、先程の零がコナンに向けたものと同種であった。

「へぇ……菫ちゃんに盗聴器……」
「ご、ごめんなさい!」

 抑揚のない声の景光から無機質な瞳で見つめられ、寒気に襲われたコナンは間髪入れずに二度目の謝罪をした。


 ・
 ・
 ・


 最初こそ不機嫌そうだった零と景光も、最終的にはコナンの盗聴器の有用性に目を瞑らざるを得なかった。仕方なしにそのまま双方情報の共有が行われる。
 秀一とコナンは盗聴器から得た情報による推測を、零と景光はこれまでに公安で収集出来ているカメラなどによる映像データからの情報を提供した。残念ながら互いに菫の現在地を示す情報としては貧弱なものばかりである。

「――あー、それで、盗聴器の受信機はどれだ?」

 景光が気を取り直したように、頼みの綱でもある盗聴器からより詳しい情報を得ようと着手した。

「あ、コレだよ。ボクのメガネなんだけど、鼓膜を刺激して音を伝えるから、掛けてる本人にしか音が聞こえないんだ」

 コナンがメガネを外し説明する。景光は口元に手を当て考え込むと、すぐにある事を提案した。

「それじゃ録音の機能とかもなさそうだな……コナン君、メガネ貸してくれるか? ちょっと手を加えれば音声を増幅させてスピーカーで聞けるようにできるかもしれない」

 景光は持ち込んでいたカバンからパソコンやタブレット、ケーブルやコードといった様々な機材を取り出し、渡されたコナンのメガネに繋いでいく。しばらく試行錯誤していたが、ジジ、ザザッ……という音がパソコンのスピーカーから聞こえてきた。

「よし、成功だ。このまま録音するぞ? あとで聞き返せるようにしたいしな」

 長いコードが取りつけられたままのメガネは身に付けるには不便だったため、コナンは景光が設置した機材のそばに置いておく事にした。

「コナン君、この盗聴器は盗聴できる距離が定まっていないっていう話なんだよな?」
「それでも隣町までは範囲内という認識は間違ってないかい?」

 景光と零の質問にコナンははっきりと頷いた。先程掻い摘んで説明した事をさらに詳しく話す。

「うん。もう一つある試作の盗聴器に発信機を付けて距離を確認してみたら、バラツキがあるけど大体5キロ以上10キロ未満の範囲は盗聴可能距離だと思うって。でも博士は稼働するのは半径数キロ程度だと想定していたみたいだけど」

 飛躍的に機能が向上している理由は阿笠本人にも不明で首を傾げていた。しかし今はそこは重要ではない。秀一がこれまでの情報を大まかにまとめる。

「博士からの情報を元に、菫が杯戸町で拉致され、先程犯人のアジトからも音が届いていたという状況を考えると、監禁場所はこの菫の家から最大半径10キロ圏内か。現時点で監禁場所がある程度分かっているだけでも幸運だとは思うが……」

 その言葉に景光がテーブルに広げられていた地図の該当範囲に円を描く。しかしその表情は晴れない。景光も秀一と同じ事を考えていた。

「ああ。盗聴電波が拾える範囲だという情報は有益だ。だが半径10キロは捜索するには広大過ぎる。もっと絞れないと動きようがない――それにしてもなんだって、腕時計が使えない今日に限ってこんな事に……」

 景光が片手で顔を覆い項垂れている。それには零も相づちを打った。

「菫の発信機が壊れていなければな……。思えばマグカップが割れたのも、あれは菫の事を暗示していたんじゃないか?」
「あぁ、あれって俺達の事じゃないな。菫ちゃんの事だったんだ」
「まさかマグカップが割れた張本人の未来を暗示していたとは、誰も思わないからな」
「え、赤井さん、マグカップってなに? どういう事? それに安室さんも発信機って、菫さんにそんなの付けてたの? なんで――」

 景光と零が疲れたような声と赤井のため息混じりの言葉に、三人だけに通じる何かがあったようだとコナンが疑問を口にしたその最中だった。

 突如それまでのノイズだけではない違う音が紛れ込み始める。身じろぎした時に発せられるような軋む音や衣擦れの音だった。皆一斉にテーブルの上のメガネに繋がれたスピーカーに目を向けた。

『ぅぅ……』

 遅れて盗聴器から微かに菫の声が聞こえてくる。コナンが思わず声をあげた。

「菫さんが意識を取り戻した……!」

 どんな些細なものも聞き逃さないと、男達は口を閉ざし耳をそばだてた。



 * * *



 ふわふわと意識が浮上してきて、菫は薄っすらと目を開ける。
 霞んだ目に一番最初に映ったのは白い壁だ。眠気が纏わりついているかのようで体が怠い。病院で使われるようなパイプのベッドに菫は寝かされていた。

 自分はいつの間にか眠っていたようだと気付きはしたが、それ以上の事が考えられない。自分の置かれた状況に特に疑問を抱く事もなく、菫は寝返りを打つ。何とか身体の向きを反対にしたその枕元に黒い物体を見つけた。

「? これ……」

 ベッドの端に無造作に置かれていたのは銃だった。それが余計に現実感を菫からなくさせた。日本では日常的ではない代物である。

(モデルガン?)

 本物を見た事はないが、その形状はドラマや映画でよく見かけるものだ。菫は好奇心の赴くままに、躊躇なくそれに手を伸ばそうとした。
 だが、頭が思うほど身体が付いて行かない。寝起きだけでは片付けられないその反応の鈍さは異常であるのに、それでも菫はそれが異常であると認識できなかった。頭にまるで靄でもかかっているようで、何かが思考の邪魔をしていた。
 菫がじれったい程ゆっくりとした動きで掴もうとしたそれは、直前で手の届かない位置に押しやられる。

「あ……?」
「おっと。ダメだよ、これは危ないから」

 そばに誰かがいる事に菫はそこでようやく気付く。いきなり視界に入って来た男性の手から順に目で辿り、その腕の先の人物を菫は見た。

「……だれ、ですか?」
「……」

 男は答えない。しかし菫も尋ねた割にはさほど気にも留めていないのか、その次に思い浮かんだ言葉をそのまま投げかける。ただ身体同様、思った通りには口もまわらず途切れ途切れだった。

「ここは、どこ、です?」
「ボクの隠れ家だよ?」

 今度は返答があったが、親切な答えではなかった。菫はぼやける目を細め声の主をジッと見る。
 20代にも30代にも、もしくはそれ以上にも見えるどことなく不思議な印象の男だ。浮世離れしているというのか、あまり生気を感じない人物だ。

(知らない、人、だよね?)

 頭はぼんやりしているが知り合いではないと菫は思う。しかし菫はそこから発展して物事を考えられなかった。何故見ず知らずの男と共にいるのかとは思い至らない。まるで生まれたての赤ん坊のように、ただ男を見つめ返した。

「……?」
「早速だけど君の名前は?」
「鳳、菫、です…………え?」

 何も考えずに菫は自然にそれに答えてしまう。だが、ここでようやく疑問が生まれた。この訳の分からない状況で名前を聞かれ、すんなりとそれに応じてしまった事に、菫は我が身の事ながら違和感を覚える。普通ならばそんな警戒心の低い事はしてはいけないと思う筈だと、ブレーキのようなものが掛かった。

(私、あれ? なにか、おかしく……ない?)

 身体に力が入らない。夢から抜け出せないような変な感覚だ。
 自分の身体なのに自由がきかない。これでは身を守れない。

(……え? 私の身に、何か起きてる……?!)

 それを菫は理解すると、身体はいまだ動かないままだが頭だけはほんの一瞬、覚醒した。
 だが、その一瞬の鮮明な思考は、瞬く間に纏わりつく怠さで濁っていく。

(ぅ……この状況は……なに? 私、どうして?)

 伏し目がちに男を窺いながら、菫は懸命に頭を働かせ続ける。
 今、自分は誰かも分からない男と共にいる。その上自分は身動きが取れずに意識もはっきりしていなかった。それは進行形で変わらないが、現状に疑問を覚えたのは幸いだった。多少の追い風だと菫は思う。

 この事態は恐らく目の前の男が原因だ。
 それならば、今は自分の意識が徐々にではあるが戻りつつある事を男に知られない方が良い。無警戒の男が何か情報を漏らしてくれる事を菫は期待した。――そのような事を菫はもっと拙く散漫な思考で考える。

 しかし、菫をこの状況に陥らせた男も一筋縄ではいかない。

「……これ、見て」

 男は菫の顔の前で液体の入った小さな小瓶を揺らす。透明な液体がちゃぷちゃぷと揺れるのを、菫は言われるがまま見つめた。

「?」
「これは君が思った事を心に留めておく事が出来なくなる薬だ」

 菫は男が何を言っているのか理解できずに、ベッドに横になったまま首を捻る。男は菫のその様子に嬉しそうに話し続ける。

「うんうん、薬が良い具合に効いてるね。つまり君にこのベラドンナの薬を投与したって事さ」
「ベラドンナ……それ、毒……」
「ああ、知ってるんだ? でも大丈夫。しっかり量は調整しているから、昔の貴婦人みたいに亡くなるなんて事はないからね? 死なせたら意味ないし」

 ベラドンナの話はつい最近聞いた気がした。催眠術師が関わっていたのではないだろうか、と菫の頭に断片的に記憶が甦る。

「あなた、昨日の、事件の、マッド、ヒプノティスト?」
「へぇ? それをここで聞く事になるとは思わなかった。それ、ボクのアメリカでの呼び名だよね? ボクも有名になったのかな?」

 そうは言うものの、知名度がある事にさして興味がなさそうに男が呟く。また菫も疑問を思ったまま、恐れも知らずに口にした。

「な、んで? こんな、事、するの……」
「お喋りしたいから……だね。理想のお人形を探してるんだ。君もなかなかボクの理想に近いよ」
「にん、ぎょう……」
「でも、何でも言う事を聞いてくれる人形を作るには、色々下拵えが必要なんだよね」
「したごしらえ?」

 菫の反復するだけの言葉に男は律儀に答える。

「そうさ。下拵えというよりは、下調べ、かな。操り人形に言う事を聞かせるにはこれが必須だ。ご主人様に歯向かわないようにね。弱みを握るとも言うね」
「よわみ……」
「そうだよ。ボクは君をお人形にしたいのさ。だから君の秘密、教えてよ」
「ひ、みつ……?」

 菫は頭が働かないながらもあまり良くない状況なのではないかと、顔には出ないが本格的に焦り始める。ジワジワと恐怖が浸透してきた。そして問われた事に対し、いくつもの声が浮かび上がってくる。


(喋ってもいいの?)
(聞かれたなら、答えなきゃ)
(ああ、帰りたい)
(話す方が楽でしょ)
(こわい)
(何を話すの?)


 頭の中に何人も人がいるように感じる。そのそれぞれが別々の事を同時に主張するのだ。
 どうすればいいのか菫には分からなくなってしまった。しかし、歯止めを掛けるようなある声がした。


(ダメ! 話しちゃダメ!)


 その瞬間、咎めるような声が他の何よりも強かった。菫はそれを指針にすべきだと思う。その声に、想いに従う事にした。

(そうだ……私は絶対に、沈黙しなきゃ、ダメなんだよ――)

 それが間違った判断である可能性を、この時菫は考えつきもしなかった。





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