Cendrillon | ナノ


▼ *02
バーボン→ブルボン朝が由来、ブルボン→ケルト語「泥」が語源。


「哀ちゃーん、いますかー?」
「菫さん……」

 薄暗い森の中、菫の呼び掛ける声に木の影から現れたのは靴を履いていない妙齢の女性である。

「あぁ、良かった! 哀ちゃんは煙、あまり吸ってない? 大丈夫?」

 菫はホッとしたような表情を浮かべる。哀の全身を上から下へと見つめ、火傷はなさそうだと確認出来たからだ。

「ええ、平気よ。子供達は問題ないかしら?」
「うん。歩美ちゃんも一酸化炭素中毒の症状はないし、元太君や光彦君も元気だよ」
「そう、良かった……。でもどうしてこっちに?」

 小屋から脱出した直後に現れた菫に驚いたものの、ちょうどいいと哀は子供達を託していた。その菫が隠れている自分を探しに来たため、哀も不思議そうに問い掛ける。

「あ、子供達はお留守番してもらってるの。他の大人かコナン君が来るまで、燃えてる小屋から離れた場所でじっとしているようにって伝えてね? 私は哀ちゃんも火元にいたから気になっちゃって」

 菫は形だけ持ち歩いていたショルダーバッグから取り出す素振りで、タオルと水の入ったペットボトルをポケットから取り出し、濡れタオルを即席で作るとそれを哀に手渡す。

「これで顔と足を拭いて? 足の裏とかは怪我してないかな?」
「汚れてるけど、怪我はないわ」
「そっか……良かった」

 菫はタオルを受け取った哀が顔の汚れを落としているのを、少しぼんやりと眺める。
 この子供達が巻き込まれた事件は始まりなのだ。ある出来事へと飛び火する取っ掛かりになるのだ。

(世界が、加速してるみたい……)

 火の上がる山小屋に辿り着いた菫は、自分が完全に事件について思い出していなかった事を目の当たりにする。斧で鍵の掛けられていた扉をぶち破り、子供を抱えて現れたのは元の姿に戻っていた哀であった。
 菫は知っているのに見知らぬ哀のその姿を見て、状況も忘れて茫然とする。必然的に、連鎖的にこれからの未来が思い出された。

(これからもどんどん事件は核心に近づいて行く。皆には、私には、どんな未来が待っているんだろう)

 その先行きの不透明さに、不安が津波のように押し寄せてくる。そして一時的にせよ、この世界のヒーローであるコナン達から敵視される零のその在り方に、菫は泣きたくなるのだった。


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 哀がタオルで足の汚れを落とし始めた頃、菫はふっと我に返る。

「あ……哀ちゃん、足のサイズ何センチ? 私と同じくらいかなって思うんだけど、足も拭き終わったら私の靴で良かったら使ってね。森で裸足は危ないものね」

 燃え盛る山小屋で辛うじて服は亡くなった女性の荷物から代用出来たようだが、流石に靴まではなかったらしく哀は裸足だった。菫はさらにバックからスニーカーを取り出す。哀は汚れを拭き取りながらも、どこか呆れたように菫を見て言った。

「靴のサイズは確かに同じくらいね……。ところで、私は指摘した方が良いのかしら? 靴まで持ち歩いているの……って」
「えへ? 今日は山歩きで汚れるかもしれないかなって、予備も持って来てたの――すみません。指摘はなしでお願いします……」

 哀に冷静な顔で見つめられ、菫は上手く言い逃れが出来なさそうな雰囲気に顔を逸らす。しかし、おずおずと自分がこの場に来た本題を菫は哀に尋ねた。

「でも、あの……時間が経てば哀ちゃん、その姿から変わっちゃうんだよね? それまで私の車に隠れてる? 着替えとかも大丈夫?」

 キャンプする予定だったテントにも隠れられるだろうが、子供達と共用の筈なので念のため別の隠れ場所が提供できる旨を伝えておきたかったのだ。それが菫が子供達から一時的にでも離れた理由である。
 哀は受け取った靴を履きながら考え込み、頷いた。

「そうね……。たぶん江戸川君が確認に来るでしょうから、もう少しここで待つけど、そのあとは場合によっては車をしばらく借りるかもしれないわ。あと着替えはテントにあるから平気よ」
「それじゃあ、車の鍵は渡しておくね? こっちは予備の鍵なの。後日返してくれればいいから」

 鍵を手渡しながら併せてナンバーや車種、色を菫が伝えると哀は、あぁ……とどんな車か思い浮かんだようだ。

「あのクラシカルな外観の車ね? 分かったわ。それと靴もありがとう。裸足のままじゃきっと目立つでしょうし、助かるわ。でも……私がこんな風になっていても、菫さんはあまり驚かないのね?」
「う〜ん……哀ちゃんのそれは許容範囲、かな? この世界は不思議だらけだからねぇ……」

 菫はつい笑いながらそう答えてしまう。ちなみ不思議の最たるは菫自身がこの世界に来てしまった事と魔術の存在だ。薬を飲んで小さくなってしまうという現象も元から知識としてあるせいか驚く事ではない。

「私のこれが許容範囲……私にとっては菫さんが不思議の塊よ?」

 しかし、そんな事など知らない哀は半眼になってポツリと呟く。

「本当に私は違うんだけどねぇ? でも今は反論できない。う〜ん……」
「ところで菫さん。私達は森の中で会わなかった。そういう事でいいのよね? 菫さんは私を追いかけてきたけど、追いつけなかった……」
「そう、だね。私は子供達を助けてくれた女性を追いかけたけど、接触できずに途中で諦めて帰っていく……コナン君にもそう言うね?」
「ええ。これは全てなかった筈の会話よ」

 そんな辻褄合わせをしつつ菫と哀は視線を交わし合い、秘密を共有する者同士だけが分かる含みのある笑みを浮かべた。

「それじゃあ、とりあえず私、先に戻るね?」
「気を付けて戻って」
「うん。哀ちゃんも」

 そして用も済んだ菫は哀から濡れたタオルを引き取ると、子供達の下へと戻る事にした。しかし、そこで菫はふと足を止めてしまう。ある事を哀に確認するためだった。



 * * *



 菫と別れてしばらくした頃、哀は森の中へ自分を探しに来たコナンと合流する。コナンも想像はしていたようだが、APTX4869の解毒薬を飲み、元の身体に戻る羽目になった事を哀は明かした。
 子供達は事情聴取されるだろうからテントに身を隠せとコナンは言うが、哀が気になったのは自分をこのような状況に追いやった元凶である犯人の処遇だ。

「それより……ちゃんとあの殺人犯捕まえたんでしょうね?」
「ああ……写真家の男だったよ……」

 しっかり逮捕されていると聞き哀は留飲を下げる。話はそれで十分だったが、さらにコナンから逮捕に至るまでの経緯を説明され、それを聞きながら哀はまた別な事も考えていた。
 それは直前まで共にいた菫の事だ。菫の様子は少しおかしかった。また菫は去り際、まるで爆弾のような言葉を発し、哀を驚愕させたのである。



 ・
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「――そうだ。ねぇ、哀ちゃん……」
「何かしら?」

 二人で口裏を合わせたそのあと、立ち去るかと思われた菫は一歩踏み出しただけでその足を止め、哀へと振り返る。

「もしかして来週もみんなで旅行に……行くんだよね?」
「ええ。鈴木財閥のお嬢さんがベルツリー急行のパスリングをくれたから。ほら、コレよ」
「……」

 哀が右手に嵌めて今は外せない指輪を見せる。すると菫は何故か表情を曇らせた。一気に老け込んだような、疲れたような空気を纏った。その急激な変化に哀は目を瞠る。

「あの……菫さん?」
「……あ、ご、ごめんね? 何でもないの。旅行、楽しんで、きて?」
「え、菫さんは行かないの? 知り合いなのよね? あのお嬢さんの事だから、菫さんも誘ったと思ったのに」

 知り合いであるという以前に園子が菫を慕っているのは聞き及んでいたため、菫を今回の旅行に誘わない筈がないと哀は思っていた。しかし、菫の口ぶりではこの旅行に参加はなさそうである。

「うん。だいぶ前に声は掛けられてたんだけど、その日は前から予定が決まっていたから断ってたの。だから旅行の詳細も聞いてなくて……。でも、その来週の旅行ってベルツリー急行の、ミステリートレインだったんだねぇ……」

 その時、菫が泣きそうに顔を歪めたように哀には見えた。

「ど、どうしたの? 菫さん……」
「哀ちゃん……」
「な、に……?」

 菫の再びの呼び掛けに哀は困惑したように返事をする。泣きそうな顔はどこか諦めにも似たものへと変わっていた。

「私、今から変な事を言うけど、聞いてくれる?」
「……ええ」

 何を言われるのか予想もつかない。哀は頷くも菫の言葉を戦々恐々と待った。だが、聞いてくれるかと問いながら、菫はしばらく言い淀んでいた。そして何やら葛藤している様子の菫がようやく口にした言葉は、哀を戸惑わせる。

「私はね、ウイスキーが好きなの」
「ウイスキー?」

 脈絡のないその発言に対して哀は一瞬理解が遅れた。それが酒だと気付いて、本当に変な事を言う……と最初は哀も思う。しかしそのあとに続いた菫の言葉に息をのんだ。

「そう。ライとスコッチ、そしてバーボンが好きだよ」
「?!」

 あまりにも自分達に関わりがある単語だった。ただの酒の話である筈がない。思わず哀は掠れた声で聞き返す。

「ライと……バーボン? どう、して?」

 ライ――姉の明美の恋人だった組織を裏切った男。
 バーボン――ライとはライバル関係にあった組織の切れ者の探り屋。

 何故その二人を知っているのか。
 何故よりによってその二人を好きというのか。
 菫は敵ではないのではなかったのかと、哀の胸の内は疑問で一瞬嵐のように吹き荒れた。

「それに……スコッチ?」

 自分も知らない存在に哀の緊張も高まる。それは誰だ、と尋ねたかった。
 しかしそれはできなかった。菫の秘密は不可侵、問い詰めてはならないという姉との約束もあれば、その秘密に値する対価を差し出せない哀は一方的にそれを聞きだせない。
 何より菫のその底の見えない秘密を知る事への躊躇もあった。深淵を覗き込んではいけないと警告音が頭の中で鳴り響いている気が哀にはする。
 それを知ってか知らずか、菫は独り言のように喋り続けた。

「でも、ライとスコッチの瓶は割れちゃった」

 問い質せないならば……と、哀は菫の言葉の意味を探る。ライもバーボンもどちらも忌むべき人間だ。当然スコッチもその仲間だろうと思う。だが菫は、瓶が割れたという。

(ライはお姉ちゃんを……組織を裏切って抜けている。なら、スコッチも似たような脱落者?)

 ライもスコッチも既に組織にはいない事を暗示するのかと哀は考える。ただ瓶が割れたという不穏な表現が哀には気になった。改めて菫の表情を確認し、哀は寒気を覚える。思わずビクッと身体を揺らしたほどだ。
 菫は生気のない目で哀を見つめていた。その瞳の暗さに哀は無意識に一歩だけ後退る。

「菫さん……」
「もう、バーボンだけ……」
「……」

 虚ろで、まるで自分の反応など気にしていないような菫の様子は、どこか機械仕掛けの人形のようで無機質だ。哀はそこでようやく気付く。始めに宣言したとおり、菫はただ聞いてほしいだけなのだと。たとえ自分が言葉の真意を問うたとしても、答える事はないのだろうと哀は菫の表情を見て悟る。

(菫さんは、私に何かを……知ってほしい?)

 そしてこれはある意味、対価を求めていない菫からの無条件の情報の共有なのだとも哀は思った。哀は身構えて身体に入っていた力をゆっくりと抜く。そうしながら菫の伝えたい事に純粋に耳を傾ける。

「今、バーボンに仲間はいない。一人ぼっちなの」

 今まさに組織に属する人間を菫は把握しているらしい。把握、というよりもその人物を案じているような話しぶりだった。

「バーボンはね、私の何より大切なものなの。生きる希望だよ。でも、一人だけであんな冷たくて暗くて、怖いところにいる」

 菫が色々と知っている事は分かっていた筈なのに、あまりにも深いところまで足を踏み入れている事に哀は眉を顰める。

(菫さん、だいぶ内部情報に精通している。危なすぎるわ)

 だがやはり、黒の組織とは本来ならば無縁の人だろうとも再認識する。こんな話をしていても、組織に属するものを察知した時に感じる恐怖が哀には今も全く菫から感じられないからだ。

「……早く抜け出してほしいって思う。でも、まだ出来ない」

 菫は希望だというのに、ひどく悲しげだ。その希望の境遇を憂いている。

「バーボンは泥まみれだよ。でも本当に……本当は、綺麗な人なの。たとえ泥だらけでも、私にとってはなくてはならない、希望そのものなの」

 哀はこのバーボンという人間が果たして自分が知る人物像と同じ人間なのかと疑問に思い始めた。

(菫さんが綺麗と、希望と評する人が、敵……悪なの?)

 綺麗という言葉が何を表すのかが哀には自信がなかった。綺麗とは美しさを示す言葉だ。また、純潔、汚れがない、という意味でもある。この場合は後者だと思うが、組織に属する者としては不釣り合いでしかない。
 何より希望という言葉は組織には相応しくない。

「そして、天使に恋をしていたよ」

 考えがまとまらないうちに、再び菫は気になる言葉を発する。

(天使……? それは、私の――)

 その言葉を意味するところは哀には一つしか浮かばない。

「だから……バーボンは、決して哀ちゃんの事は――」

 そこで菫は唐突に言葉を止めた。口元を手で押さえている。何故か動揺したような焦ったような表情だ。しかし、何となく雰囲気が普段の菫に戻ったような気がして、哀は声を掛けた。

「菫さん?」
「私が……今言えるのは、ここまでだと思う。あとは他の人の秘密だから」

 菫は申し訳なさそうに哀を見つめた。ようやく目が合い、やはりいつもの菫だと哀はほっとする。

「きっと混乱させたね? ごめんね、哀ちゃん。でも、言わずにはいられなかったの。言わないと伝わらないって、誤解されたままだって思ったの……」
「……菫さんの言葉で、私に伝わったものを確認しても良いかしら? 菫さんが伝えたかった事が私に正しく伝わっているかの再確認よ」
「そうだね……聞かせてくれる?」

 哀は考えを巡らせる。ギリギリ深淵に触れず、最大限の成果を得ねばならない。菫にとっての希望は、自分の敵に成り得るのか。最も知りたい事を回収できる一言だ。
 一つ息をつくと、哀は菫を見据える。

「光も飲み込む暗闇に身を置くバーボンは……黒ではない?」

 黒の組織にどっぷりと浸かった人物か否か、哀は率直に問うた。それに菫は困ったように首を傾げる。

「真っ白だよって言いたいけど、難しいね。でも、限りなく白に近い灰色だと私は思ってる」
「天使に――堕ちた天使に恋をしていたとしても……純潔なのね?」
「この上なく純潔で、清廉だよ。闇に身を落としても決して堕ちる事のない、光を秘めた人なの」

 控えめにだが菫は嬉しそうに微笑んだ。自分の質問は正しかったようだと哀は思う。
 果たして組織の闇の中で純潔が存在し得るのかは疑問に残るが、それを知るのは深入りしすぎだと哀はそれらに関しては考えを放棄する。だが続けて菫は言った。

「でも……哀ちゃんは哀ちゃんの思う通りに行動してね。私に遠慮しないで、思うままに行動してほしい」
「……そんな事をしていいの?」
「うん。選択するのはその人の判断であるべきだと思うから。人の意見に惑わされて判断を誤った時ほど、辛い事はないでしょう?」
「そうね……。自分の判断なら諦めもつくけど、他人の言葉で自分の考えを貫けなかったとしたら後悔するでしょうね」

 菫は哀のその言葉に頷く。しかし、それでも菫は正反対の事も言うのだ。

「でもね、どうしても判断に迷った時には、私が言った事も思い出してほしかったの。だから本当は黙ってないといけないのに、言ってしまったのかな。それが事態を好転させるものになるのか、私にも分からないんだけど……」

 菫はここではないどこかを見つめて、物憂げに溜息をついた。
 


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 コナンは今回亡くなった女性のダイイングメッセージは犯人を暴くためのものではなかったのだろうと言う。

「――ただ単に死ぬ時に胸に抱いてたかっただけかも……。最愛の人の形である……ウサギをな……」

 月を見上げながらのコナンのその言葉に、哀は菫を想起する。

(菫さんも希望を胸に抱いている。いえ、傾倒していると言っても良い。組織の幹部に心酔している。警戒すべきなのに、菫さんは清廉だという。そして私に判断を委ねている)

 正直に言えば菫の言葉は、疑問が増えただけで参考になるかは現時点では分からなかった。だがそれでも情報はないよりあった方が良いのだろうと、哀はそれを排除はせず頭の片隅に押し込めた。

「んじゃー、灰原。オレはこれからあいつらの事情聴取に付き合う事になると思う。なるべく時間を稼ぐから、テントで大人しくしてろよ?」
 
 互いに情報を交換し終えたと見て、コナンが哀に今後の予定を告げる。

「ええ。もし小さくなる前にあなた達が帰ってくるようなら、隠れる場所は他にも見当をつけているから気にしないで」
「おお、そうなのか? それじゃオレは博士たちと合流するな。戻れたなら、連絡をくれよ」
「分かったわ」

 コナンに指示され、人の目に触れぬよう哀は設置しているテントまで引き返す。一人森の中を歩きながら、哀は菫と交わされた会話の発端となった来週に控えたイベントに思いを馳せる。

「ミステリートレインで、何か……起こるのかしら」

 菫とのやり取りからして、何かが変わるそんな予感がしている。間近に迫るその旅路に、哀はほんの少し不安を覚えた。



ミストレ編自体はノータッチ。赤井さんも安室さんとの協力関係をコナン君に共有しないため、夢主は帰って来たコナン君にバーボンとの関係を怪しまれるという、とばっちりが待っている。ついでに夢主の車は「ビュート なでしこ」という隠れ設定。

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