Cendrillon | ナノ


▼ *仔犬と幼馴染と


 いつも同じ時間に起床する菫は、朝一番に目覚めの熱いお茶を飲む。その日も起き抜けの頭を覚醒させようと、キッチンで行儀は悪いが立ちながらお茶を口にしていた。空腹を感じなかったため、今日は朝食は抜きにしようかなどとぼんやりと考えていると、その時間帯には珍しく零から電話が掛かってきた。

「おはよう菫。朝早くから電話して悪いな。寝てたか?」
「ううん。おはよう零くん。私はさっき起きたところなの。でも、どうしたの?」
「急なんだが、頼みたい事があるんだ」
「頼みたい事? あ、もちろん私ができる事なら、何でもするよ?」

 用件も聞かずに安請け合いする菫に、電話口で零は一瞬苦い表情を浮かべる。これは赤井だったならばどうなのだろうと、不愉快な想像をしてしまったからだ。しかし、今はそれを追及している暇はなかった。気を取り直して零は菫に用件を告げた。

「実は仔犬を拾ったんだ。飼う事にしたよ」
「え?! 仔犬? 本当?」

 その零の言葉に覚醒しきっていなかった菫の頭が一気に目覚めた。菫の声から喜色の色を感じ取ったのか、零は苦笑している。それが機械越しでも菫に雰囲気で伝わってきたが、全く気にならなかった。

(もしかしなくてもハロ!)

 零と仔犬の取り合わせと言えば、あのモフモフの白い仔犬しかいないだろう。

「あ、という事は、その仔犬の事で零くんは何か用事があるのかな?」
「そうなんだ。昨日拾ったばかりだったから、今日は僕の住む部屋に慣れさせるついでに、一日傍にいてやろうと思っていたんだ。でもついさっき外せない仕事が入ってね……」

 仔犬と仕事で、仕事を選ぶしかなかったのだろう。いかにも苦渋の選択といった声が聞こえてきて、今度は菫が電話口を押さえて軽く笑ってしまった。咳ばらいを一つしてから菫は返事をする。

「えっと……拾われた翌日にいきなりお留守番は可哀そうだね?」

 あの賢そうな仔犬に留守番が出来ないとは思わないが、新居で二日目となると心細さなどの点で少し不安かもしれない。

「今後は基本的に留守番をさせる事になるだろうけど、僕もせめて今日くらいは……って思ってたんだ」
「それじゃあ、零くんの頼み事って……」
「あぁ、手が空いているなら、うちで仔犬の面倒を見てもらえないか?」

 思った通りの零の願いに、菫は一も二もなく頷いた。

「もちろん良いよ! ちなみに、名前はもう決めた?」
「いや、まだだな。そのうち決めるよ」

 やはり名前は未定らしい。うっかりハロなどと呼ばないように気をつけなければならないと、菫は気を引き締めた。そこに申し訳なさそうな零の声が聞こえてくる。

「……悪い。僕はもう家を出ないといけないんだ。安室の部屋としての合鍵は菫に渡してあったよな?」

 零は仕事関連のセーフハウスをいくつか所持しているようだが、菫は合鍵を持つのは安室の部屋と零の部屋のものの二つだ。菫が景光のセーフハウスに足繁く通うのと同様に、菫の家には零が足を運ぶ事が多い。そのため、菫自身は滅多に使う機会がなかった鍵である。

「うん。預かってる」
「それを使って入ってくれるか? 部屋では何をしても構わないよ。仔犬はまだ寝てるから、うちに着いて起きていたら、餌をやってくれるか?」
「了解です。あ、でもその仔犬、知らない人間が部屋に入ってきたら驚かないかな?」

 当然ながら、菫は仔犬とは初対面である。ハロと会えるという事で喜びが先立ったが、飼い主である零が不在のところに、見知らぬ自分が行くのだ。せめて零の仲介があればと思うが、今日は確実に無理である。仔犬が拒否反応を見せるのではないかという懸念が菫には沸き上がった。

「そうだな……でも人懐っこいし、菫なら大丈夫だろ」
「え、そんな……ちょっと適当だよぉ、零くん……。警戒されでもしたら私、悲しい……」
「そんな事ないと思うぞ。菫ならすぐに仲良くなれるさ」

 零にしては根拠のない発言に、菫は若干不安を覚えた。



 * * *



「……お邪魔しまーす?」

 安室の自宅であるMAISDN MOKUBAに、菫は零との電話を終えてから準備や移動などを含めて一時間ほどで到着した。室内に入ると生き物の気配を感じる。どこにいるのだろうと見回して、菫はある場所でそれを見つけた。

「まだ、眠ってるのかな?」

 菫の予想通り、仔犬は零のベッドの上でブランケットに埋もれてスヤスヤと眠っていた。菫は起こさないようにゆっくりに床に座りこむ。
 菫の住む洋館には和室がないため、滅多に来ない部屋ではあるが畳敷きの部屋にどこか懐かしさを感じた。

「うちは洋室しかないもんね。畳の部屋、良いなぁ……」

 畳を撫でながら、うちも一室くらいは和風にリフォームしてもいいかもしれないと、菫は取り留めもない事を考えていた。すると、ベッドの上の小さな生き物が身じろぎし始めた。起きそうな雰囲気である。

「あっ、もうすぐ起きるかも? ……大丈夫かな。私、嫌われないかな……」

 実は菫はこの世界に来る前は動物に好かれない体質だった。吠えられたり、噛まれたりという事はないのだが、菫が近寄ると露骨に避けられた。これも以前の世界との相性の悪さ故かとも考えられたが、それは定かではない。

 何故ならその悲しい体験があるせいか、菫はこちらの世界で暮らすようになっても自ら動物には近寄った事がないからだ。相性が原因か、元から動物に嫌われる性質なのか、現在まで確かめられていなかった。悲惨な結果を目の当たりにするくらいならば不明のままでも良かったのだ。

 しかし、今回は零の珍しい頼み事という事もあって、それを考慮する事無く菫は仔犬の世話を買って出ていた。つまり今日は、二十年以上触れずにいた真実が明るみになると思われた。

 そうこうしているうちに、本格的に仔犬は起き出してきた。最初はウトウトしていたが、頭をプルプル振るとパッチリ目覚めたようだ。そして、視界に菫を確認したのか、ぴたりと固まった。

 緊張の瞬間である。

「……お、おはよう?」
「……アン?」

 人間のように小首を傾げる仔犬に菫は思わず目を細めて笑った。そして、菫は恐る恐るベッドに手を伸ばしてみる。だが、仔犬には身体を引かれてしまう。

「ぅ……」

 何かが頭の上に落ちてきた気がした。伸ばした手を菫は悲しげに引っ込める。

(ダメだった……)

 やはり想像していた通りの事が起こり、菫はしょんぼりと俯く。

「寝ている間に知らない人間がいて、怖かった……と言うよりやっぱり……私がダメだったのね……」

 傍目にも分かりやすく落ち込んだ様子の菫は、どうやら動物に嫌われるのは自分が原因だったようだとはっきり自覚してしまった。だが、ある意味分かり切っていた事だと、菫はあっさり……と言えば語弊があるが、諦めた。そして申し訳なさそうに菫は仔犬に謝る。

「ごめんね。今日は零くんいないんだよ? 私がいるのは零くんが帰ってくるまでだから、ちょっとだけ我慢してね?」

 自分がそばにいるのはストレスだろうと菫は和室から隣のキッチンへと移動すると、ダイニングテーブルに零のメモ書きを見つける。前もって電話でも説明を受けていたが、ドックフードの置き場所や犬の世話における簡単な注意事項が書かれていた。

「マメだなぁ、零くんは……はぁ……」

 そのメモを見て、くすりと菫は笑みを浮かべたが、すぐに先ほどのショックがぶり返し、ため息が零れた。
 しかし、菫は仔犬も目覚めた事もあり、ドックフードの用意を始める。受け取り拒否をされる事は考えたくない。

「流石にごはんは食べてほしいけど、私からじゃ無理かなぁ……」

 菫は餌の入った皿を持って、和室の仔犬に声を掛ける。

「仔犬くん。朝ごはんだよ? 出来れば食べてほしいなぁ……」

 皿を揺らすとドックフードの乾いた音が響いた。その皿を菫はキッチンと和室の境目に置く。
 また別の皿に水も入れるため菫が一度その場を離れると、戻った時には餌の入った皿に仔犬は近寄り、クンクンと匂いを嗅いでいた。それを見て菫は考え込んでしまう。

(どうしよう。私が近づいたら、きっと逃げちゃうよね? 餌にも警戒されちゃう? 今ならそのまま餌も食べてくれそうだし、食べ終わったらお水をあげればいいかな……)

 水を与えるのは後でもいいだろうかと迷っていると、仔犬が菫を見上げてきた。仔犬と目が合った事に菫は単純に驚く。今まで菫は基本的に動物からは目も逸らされていたのだ。

「?! え、え?」
「アンッ!」

 仔犬は菫に向かって吠えたてる。だが敵意などは感じられないものだった。まるで何かを催促するような鳴き方で、動物とは縁遠い菫は何を求められているか分からずに首を傾げる。

「え? 何だろう? ……もしかしてコレ? お水欲しいのかな?」
「アン、アン!」

 それが肯定の鳴き方に聞こえ、菫はなるべく驚かせないよう部屋の境に近づくと、餌の入った皿の隣に持っていた皿を置く。

「!!」

 そのすぐ後だった。皿を置いた手に仔犬がすり寄ってきた。今度は菫が固まったが、一拍遅れて喜びが溢れてくる。

(わーわー、初めて動物から触られちゃった……。う、嬉しい……)

 感動に打ち震えながら菫は仔犬の行動を見守る。仔犬は菫から離れ、餌を口にし始めていた。邪魔をしないよう菫は静かにそれを見つめる。自分がそばにいても距離を取らない動物はこの仔犬が初めてだ。

「アン!」
「え、嘘ぉ……」

 そして、菫には思ってもいなかった事が起きた。餌を食べ終えた仔犬は、何と尻尾を振って再び菫に近寄ってきたのだ。



 * * *



 何故か予想に反して仔犬と仲良くなれそうである事に、菫は少し混乱しつつも当然悪い事ではないので早々に受け入れた。
 前もって零から、犬にはアゴの下に緊張を和らげるツボがあると教えられていた菫は、実直にそれを実践する事にした。また目線を合わせるのも効果的らしい。

(そう言えば、私って逸らされるのが悲しいから、目を合わせたりは自分からはしないんだった……。最初に身体を引かれちゃったのって、それも原因?)

 目線も低くし、目も合わせて菫は仔犬のアゴを撫でてやる。すると人懐っこい様子だったのがさらに増した。仔犬は菫へと楽し気に纏わりついてくる。食事を終えたあとの仔犬は、菫の今までの経験が嘘のように戯れてきさえした。

「仔犬くんは優しいね? 私とでも仲良くなってくれるんだ? ありがとう」

 前の世界でも経験のない、生き物に触れる事に内心ドキドキしながら仔犬のその背に触れ、その柔らかさ、温かさを菫は堪能する。

「ふ、ふわっふわ……。可愛い、あったかい……」

 思わず思った事が菫の口から駄々漏れになった。
 それからは遠慮がなくなったように、菫も仔犬がそばに寄ってくる度に構い倒す。だが、あまり触り過ぎて嫌われるのも怖く、動物初心者でもあるため、菫の触り方は控えめではある。
 仔犬も目覚め直後に最初の躊躇いを見せたっきりで、菫に警戒心は抱いていないようだ。そもそも菫が思うほどの拒絶はなかったのだ。

 仔犬は気まぐれに菫に近寄っては、離れて行き菫を翻弄する。そうなるともう、菫は動物を飼い始めたばかりの飼い主と同じような様相になってしまった。仔犬の一挙一動から目が離せない。

「ふふ、お外に行きたい?」

 菫にじゃれていた仔犬は、唐突にその場から窓際に移動し、そのガラスに足を掛け顔を寄せる。窓からはベランダの手すり壁と柵が見えるばかりだ。恐らく仔犬の目線からでは、それら越しの風景と空しか見えないだろう。だが、仔犬は外に興味があるようであった。

「お外に連れて行ってあげたいけど、でも昨日ここに来たばかりなら、零くんともお散歩してないよね? 初めてのお散歩は零くんとが良いと思うよ」
「アン!」
「お散歩はいつになるのかな? 楽しみだね? 零くんはどこに連れて行ってくれるかな?」

 再び自分に近づいてきた仔犬に菫は相好を崩す。そんな事を何回か繰り返していると、仔犬は眠気を催したようで、座っている菫の膝に上がってくると丸くなった。ここで休むようだ。

「うぅっ……かわいい……」

 その愛らしい仕草に菫は身悶えた。しかし眠りを妨げないように、菫はゆっくりと優しく仔犬を撫でてやる。しばらく経つと、仔犬は寝息を立て始めた。

 本格的に寝入ったと見ると、ほぼ独り言のように菫は仔犬に語り掛ける。

「――仔犬くんはすごいね。あの零くんを根負けさせたんだから」

 元々は零に生き物を飼う予定などはなかっただろう。物語を知る菫は零がハロを飼う事になる事は知っていたものの、現実にあの零にその意思を覆させたこの目の前の仔犬は、なかなかの逸材である。

「ハロ……零くんを癒してあげてね? それでずっと、一緒にいてあげて……」

 零の友人たちは菫の知る未来の通りには亡くならず、多少の負担は軽くなっているとは思いたいのだが、それでも零の生きる世界は過酷だ。この仔犬が少しでも零の助けになる存在でいてほしいと、菫は願ってやまない。

「零くんはとっても大変なの。でも、ハロがいたら零くん、きっと楽になれると、思うんだよ……」

 返事など期待せずに仔犬に話しかけていた菫の声も少しずつぼんやりと、気だるげになっていく。仔犬が眠ってしまった事で、菫も初めての動物との触れ合いで緊張していたのが解けたらしい。

「ふぁ……私も眠くなってきちゃった……零くんが帰って来るまで、少し、だけ――」

 そう呟いて菫は、寄りかかっていた零のベッドに頭をもたれ、仔犬と共に休息に入るのだった。


 ・
 ・
 ・


「……菫?」

 夜の帰宅になると思っていた零だったが、想像以上に早く片が付き、昼過ぎにはアパートへと帰ってくる事が出来た。これなら今日中に仔犬を動物病院に連れて行ってやれるかもしれないと思う。
 しかし、幼馴染がいる筈なのに、部屋からは物音ひとつしない。

「出掛けてるのか?」

 ネクタイを緩め、首を傾げながら部屋に入るとその理由が知れた。だが、真っ先に目に飛び込んできたその光景に零は口元を手で押さえる。

「くっ……か、可愛い……」

 零には知る由もないが、最初は菫の膝の上で眠っていた仔犬はいつの間にかベッドに上がり込んでいた。そしてベッドにもたれる菫のその頭の傍らで、安心したように丸まって眠っている。仔犬に寄り添われている当の本人も夢の中のようだ。

「…………」

 零はしばらく悶えた後、無言でスマホを構え、無音シャッターで写真を数枚撮る。そしてその画像をある二か所へと転送した。
 零は早速仕事で使うノートパソコンを起動させ、たった今自分が送ったものが届いたかを確認する。それは問題なく届いていており、友人たちの写真が保存されている鍵付きフォルダにそれを移動させると、零はスマホ上のデータを完全に削除した。

 そこへスマホの着信音が鳴った。

「はい」
「ゼロ! 何だよこれ! 送ってくれてありがとう!?」
「ははっ、良い写真だろ?」

 潜伏中の幼馴染からの、画像確認後に間を置かずして連絡してきただろう反応に、零は声を上げて笑う。

「すごい可愛い! でも何、菫ちゃん犬飼うの?」
「いや、飼うのは僕だ。今日はちょっと菫に面倒を見てもらってたんだが、帰ってみたら写真の有り様だったよ」

 景光の疑問に答えつつ、零は緩めていたネクタイを外す。振動を与えないようにゆっくりとベッドに腰掛け、本格的にくつろぎ出した。いまだに眠り続ける一人と一匹を眺め、もう一人の幼馴染の声を聞きながら、零は安らいだ表情を浮かべていた。



おまわりさんも盗撮はします。そして仔犬とのツーショット画像は転送されまくる運命(ヒロくん→養親→赤井さんetc...)。

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