Cendrillon | ナノ


▼ #痛みを感じる正義
心的外傷:個人にとって心理的に大きな打撃を与え、その影響が長く残るような体験。精神的外傷。外傷体験。トラウマ。ちょっとシリアス。


「零くん! 会えて嬉しい! どこも怪我してない?」

 自宅へと訪れた幼馴染を菫は満面の笑みで出迎える。警察学校を卒業後、連絡が途絶えて以来の再会だった。

「菫、怪我なんてしてないさ。元気だよ」

 久しぶりに顔を合わせた幼馴染は、傍目には元気そうに見えた。会った瞬間は単純に、互いに喜びに満ち溢れていたと菫は思う。
 だが一瞬、零のその感情がぶれる。表情が陰ったように見えた。

(……え?)

 どこか憂いに帯びて苦しそうに菫には見えた。
 その零の変化が、幼い頃から共に時間を過ごしていた菫には自然に読み取れた。

「れ、零くん?」

 猛然と何か焦燥感に似た不安が芽生え、菫は窺うように零の名前を呼ぶ。

「ん? どうした菫? ああ、でも本当に久しぶりだ。僕も会えて嬉しい。だが、こんな事になってしまって、悪いな……」

 纏っていた憂いを瞬時に消し、再び笑みを見せた零だったが菫の不安は消えはしなかった。だが、それは気に掛かるが、菫は自分の不安を一度胸に押し込める。見せないようにしているならば、知らない振りの方がいいのかもしれないと、菫はそれには触れず直前の零の言葉をやんわり否定した。

「そんな事言わないで。私は何も悪いなんて思ってないもの。零くん、とりあえず家に入って? あの、お茶を入れても良いかな?」
「ああ、菫のお茶もしばらく飲んでない。楽しみだ」
「うん!」

 どうやら自分の出すものを口にしてくれるようだ。断られる事だって菫は覚悟していたが、そうはならなかった事を喜んだ。
 零の見せた暗い表情は心に留めつつ菫は零を家へ招き入れる。ひとまず自分の役割である協力者としての仕事を全うする事にした。

 景光が潜伏生活に入るに伴い、零たち公安側の事情を菫はほんの少しだけ共有されている。
 この日はそれを知らされて初めての零との再会であり会話だった。仕事の打ち合わせと言えど、菫はこの日を楽しみにしていた。これからは定期的に会えるだろうという少し楽観的な心構えだった事を、菫はお茶の用意をしながら内心改めたのだった。



 * * *



 菫の自宅のリビングで打ち合わせを終えた二人は、二杯目の新しいお茶を口にしながら、少しだけ雑談の時間を取れていた。零はこの後も仕事があるらしく、手元のお茶を飲み終えればすぐに出るという。ソファに深く腰を掛けている零はどことなく気怠そうに菫には見えた。

「零くん、お仕事……大変? 何だか顔色が悪い気がするよ。ちゃんと休めてる?」

 菫は零の様子に、一度は閉じ込めた不安がまたもや湧き上がっていた。やはり何かがおかしいと思う。再会当初の浮ついた自分の心情とは裏腹に、零には問題があると感じる。

「何言ってるんだ。菫の方が青白くて、よっぽど不健康そうだぞ。それに最後に会った時より痩せてるだろ。……いや、僕達が心配を掛けたんだよな。ごめんな菫……」

 反対に自分の心配をされてしまい菫は首を振った。

「そんな! 零くん、謝らないで……。零くんもヒロくんも悪い事してないでしょう? その、心配は……どうしてもしちゃうけど……」
「これからも……心配は掛け通しだろうな。ごめん。菫を巻き込んで……」

 再び謝罪を口にする零に菫はもどかしくなった。先ほどよりさらに大きく首を振る。

「違うよ、零くん。私ね、今とても嬉しいんだよ? 二人がこうやって声を掛けてくれて。何も知らされないでいるより、ずっといい」

 それは紛れもない本心だった。菫は今のこの状況を心から喜んでいた。幼馴染の二人が自分も関わらせてくれた事は、菫にとってはまるで福音を聞くようなものだった。

「零くんとヒロくんのお手伝いが出来る事を本当に嬉しく思ってるよ。二人の少しだけでも助けになれるよう、頑張るね」
「菫、巻き込んでいながら言うのもなんだが、無理はしないでくれ。深く関わっては駄目だ」
「大丈夫。二人の負担になるような事は死んだってしたくないの。邪魔はしないように気を付けるよ」

 その菫の言葉に零はどこか困ったような表情を浮かべ、首を傾げる。

「ヒロのフォローとか、それ以外にも細々と指示があるかもしれない。面倒な事を頼んでしまって、それを引き受けてもらえて助かってるよ。そんなに気負わなくてもいいんだぞ?」
「私ができる事なんて、大した事じゃないよ」

 零のその言葉に菫は同意できなかった。自分ができる事など、本当にわずかだ。例え面倒な事だったとしても、自分は喜んでそれをするだろうと菫は思う。二人の幼馴染の負担が少しでも軽くなるならば、菫は何だってしたいと思っているのだ。

「それに……零くんとヒロくんはもっと大変なお仕事してるんだよね?」

 確認するように尋ねはしたが、菫は幼馴染たちが身を置くその過酷な世界を知っている。だからこそ、菫はもうだいぶ昔から心に秘めていた言葉を零に伝える。

「そんな仕事をしている二人の事、すごく尊敬しているの。誰にも出来ない、大切なお仕事してるんだもの。私、二人の事が本当に誇らしい。二人がいてくれて良かった。本当に、本当にそう思っているんだよ。だから少しでも協力したいの」

 純粋な称賛の言葉だった。だが、菫の言葉に零は顔を顰める。
 自分は何かを間違えたのかと菫はすぐさま謝った。

「ご、ごめんね、零くん。私、何か変な事、言った?」
「違う……尊敬なんて、そんな感情を向けられるに僕は相応しくないんだ……」

 表情を歪めた零に、菫は慌てふためいた。今までこんな表情を菫は見た事がない。常らしからぬ幼馴染に菫は恐る恐る声を掛ける。

「零くん? どうしたの?」
「菫……僕はヒロを、死なせるところだったよ……」
「! それ、は……」

 零の発した言葉に、冷水を浴びせられたような気がした。菫も零の心を曇らせている原因にやっと気付いた。



 * * *



 零は詳細は語らなかったが、ぽつぽつと断片的な情報を菫に話してくれた。だが、それだけでどういう状況だったのかは菫にはおおよそ想像が出来る。

(あれ、だ。あの事、だ……)

 頭に浮かんだ情景に、菫はまるで何かが痛むように眉を顰めた。

「――僕が殺すも同然な状況だった。ヒロが死ななかったのは、本当に偶然だったんだと思う。運が良かっただけだ。何かが全て重なって起きた奇跡なんだ。きっと何かが一つずれていただけで、ヒロは死んでた」

 零は膝に肘をつき、その両手で顔を覆っていた。まるで懺悔でもするかのように俯いていた。
 実際に親友をなくす事は回避できたとしても、その経緯自体に零は傷付いていた。自分のせいだと責めている。実害がないからと忘れられるような人間ではないのだ。

「僕がヒロを殺しかけた。僕はそれが辛い。ヒロを危険な目に遭わせた。自分がそれを引き起こしていた事が苦しい……。死んでないんだから気にするなってヒロは言うけど、そんなの、無理だ」

 この時、零に何と言っていいか分からず、菫は泣いてしまいたかった。零の心を軽くしてやりたいのに、何も思い浮かばない。どうしよう、どうしようと焦りばかりが生まれる。

「何でだろう。僕は今も不安で堪らない。あの時、ヒロが死んでいたかもしれないって、死んでいたらって思うと、今でも寒気がするんだ。それがずっと続いてるんだ。僕は、どうすれば……」

 慰めの言葉が思い当たらない。どれも薄っぺらい気がするのだ。そんな言葉を菫は零に掛けたくなかった。

「零くん――」

 せめて零に寄り添えたらと思うと、菫は零の考えている事を懸命に想像した。自分ならばどう思うかと想像した。だが、そうすると菫からは自然と言葉が零れた。

「怖かったね。零くん」
「怖い?」

 俯いていた零は思い掛けない事を聞いたというように、ノロノロと顔を上げる。

「零くんの考えている事が、少しだけ……分かるよ? 想像出来る。私は怖くて堪らないから」

 菫は向かい合って座っていたソファから立ち上がり、零のそばまで近づく。そして座ったまま、自分を見上げている零に、菫はゆっくり語り掛けた。

「私も、もしそんな状況になったらって思うと、すごく……怖い。二人のいない世界は空虚で、何も意味がないような気がする」

 そうなのだ。零の心情を自分に起きた事だと置き換えれば、菫の感じるものは零の抱く感情と全く同じではないだろうが少し理解できた。まるで我が身に実際に起きた事のように感じられた。とてつもない恐怖が襲ってきたのだ。

「零くんとヒロくんが私のせいで死んでしまったらって考えると、きっと苦しくて生きていけないって思う。多分私なら、そのまま何もかも放り出しちゃうかもしれない」

 菫は昔の記憶を辿る。傷付きながらもただ国のために身を捧げていた男性の存在を思い出す。今、目の前にいる幼馴染と昔憧れたその男性は全く変わらない。寸分だって違わない。

「でも……零くんは絶対に放り出せないんだよね。投げ出せないの。零くんは責任感が強いから。正義のために前にしか進まない」

 そして、前にしか進めないと思っているのではないかと考えた事もあった。それ以外どこにも行けない、どこにも逃げられないと、盲目的になってしまっているのではないかと錯覚してしまうほどだ。それは強迫観念ではないかと懸念する気持ちもあった。

「どんな苦しさも抱えて前に進まないとダメだって、零くんはきっと思ってるんだよ。そんな厳しい世界に零くんはいるんだよね」

 景光がいなくなってしまっても、その世界から抜け出せない零のその心への負担はどれ程のものなのだろう。

「たとえ一人になっても、零くんは正義のために前に進む事を止められない。だから……一緒に戦ってくれているヒロくんがいなくなるの、怖かったんだよね?」
「僕は……怖くて、こんなに不安だったのかな……」

 全部が全部それだとは言わないが、零を苦しめている不安のその根源には恐怖が大いに潜んでいるだろうと菫は思った。

「そうだと、思うよ? でも、ヒロくんが言う通りでもあると思う。ヒロくんは生きてるもの。一緒に歩いて行ける。これからも二人で前に進めるよ? だから零くん、あまりそれに囚われないで」

 菫はゆっくり手を伸ばし、見下ろす形になっていた零の頭を胸に抱き寄せた。

「零くん、怖かったね。ヒロくんがいなくなったら私も怖いよ」

 自分の胸元の高さにある零の頭に、菫は自身の額を寄せた。囁くように胸の内を伝える。

「でも、そんな怖い事と紙一重な世界で生きている零くん達が無事で良かった。ヒロくんだけじゃないよ? 零くんも生きていてくれて、ありがとう。帰ってきてくれて、会いに来てくれて、本当にありがとう」

 抱きしめるその手で、菫は零の頭を優しく撫でる。少しでも慰めになるように、そして感謝を込めて。
 すると零も次第に強張っていた身体の力を抜いて、菫の胸に寄りかかってきた。その事に菫は内心ほっとする。菫はしばらくの間、撫でる手を止める事はなかった。



 * * *



「僕は情けないな……」

 どれくらい時間が経ったのか、零がポツリとそう言葉を吐き出す。だが、それを聞き咎めた菫が勢いよく異議を唱えた。

「情けないなんて事ないよ! 零くんが不安に思うのは、絶対不思議な事じゃない」

 抱きしめていた手を緩め身体を離すと、菫は零に向かって首を振って見せた。

「恐怖はね、人間が持つ最も根源的な感情の一つでしょう? 零くんにそれがない筈がないでしょう?」
「そうかも、な。……菫は、僕に幻滅しないか?」

 零の恐る恐るというような尋ね方に、菫は間髪入れず強く否定する。

「幻滅なんてする筈がないよ。大切な人がいなくなったら……って不安は、恐れは誰でも持ってるもの。私だって、持ってるんだよ? だから本当に、二人とも無事で良かった、生きていてくれて良かったって、心から思ってる」

 零本人は情けないと思っていたとしても、菫はそんな零の一面を見ても何も変わらない。一片たりとも自分の考えはぶれたりしないのだ。

「正義のために生きている、零くんとヒロくんを尊敬してるの。そんな二人に協力できるなら、私はどんな事だってしたいと思うよ」

 菫は零をじっと見つめて再度繰り返した。そして何よりの願いを口にする。

「でも、それには二人がいてくれないとダメなの。生きていてくれるだけでいいの。それだけで私は救われるの。だから……何かあった時、生き延びる事だけを考えてほしいよ。それが零くん達には難しいのは、分かってるけど……」

 そう言いながらも、零の返答がどのようなものになるかは菫も分かっていた。零は案の定、浮かない表情だった。

「菫……約束できなくて、ごめんな」
「いいの……零くん達のお仕事では仕方ないよね? でも、そう言っていた人間がいた事を覚えていてほしいよ。待っている人間がいて、帰ってくる事を待ち望まれているって忘れないで。いざその時が来た時に、零くんがその事を思い出してくれて、違う選択をしてくれる事に私はかけてるんだよ?」

 無理矢理に菫は笑顔を作ってそう言った。冗談めかすようにわざと軽く伝えた。
 零はそれを理解してか、菫のその言葉に困ったように笑う。

「菫はズルい言い方をするな」
「ズルくもなるよ。零くんがヒロくんを失う事が怖かったみたいに、私だって零くんとヒロくんを失うのが怖いもの。でも、零くんは一人になるのが怖いと思っても、最後はどこまでも一人で行ける人でしょう? だからこんな言い方するんだよ?」

 今度は菫が、まるで後がないとでも言うように零に縋った。

「零くん、私を――私達をおいていかないでね? 零くんが感じた恐怖を、実際に私達に感じさせないで……」

 この願いを叶えてくれるのは、零しかいない。

「……そうだな。菫にこんな思いはさせたくはないな……。菫や、ヒロも……悲しませないように、今まで以上に慎重にやるよ。今は、これしか言えないけど……」
「それだけ、言ってくれれば十分だよ。零くん、ありがとう」

 それが未来の約束が出来ない零の、精一杯の言葉だと菫にはよく分かった。だが、それを言わせてしまった事に菫は目を伏せる。

「でも、やっぱりごめんね。重荷になるような事を、言ってしまって……」
「いや、待っていてくれる人がいるっていうのは、力になるよ。僕達の仕事はどうしたって人には知られない。知られてはいけないから、時々無性に辛くなる時がある」

 零はようやく、どこかぎこちない作った笑みを崩し始めた。やわらかい表情を浮かべた。

「こうやって僕達の事情を理解して、待っていてくれる菫がいるのは、幸せだ」

 目の前に立つ、落ち込んでいる菫を零は見上げ、その手を取る。

「僕は日本を愛しているよ。だからこの国を守る。この国に生きる人を守りたい。平和な日常を守りたい」

 ゆるぎない信念がこもった強い眼差しが菫を射抜く。菫はそれから目が離せなかった。

「正義のために僕は立ち止まれない」
「……うん。そうだね……」

 尊敬に値するその言動が、菫には眩しくて堪らない。菫は思わず目を細めた。同時にそれは、国のために身を削る人間が存在するのだと、否応なく菫に知らしめる。

 零は命を懸けている。零自身はそうは思っていないとしても、零という人間が犠牲になっている。
 昔から憧れ続けた人の崇高なその言葉が、菫には嬉しくて悲しい。菫はどこか諦めたように俯いた。しかし、零はそんな菫の掴んでいたその手を強く握り込んだ。

「でも……守りたい人が帰りを待っていてくれるなら、帰りたいって……そう思う」
「ほんとう?」

 ゆっくりと頭を上げ、子供っぽく菫は問い返す。零を見つめその真意を読み取ろうとする。

「ああ、僕は帰って来るよ。ここに、菫の元に。これは約束じゃない。ただの僕の願望なんだ。守りたい人が笑って迎えてくれるなら、守りたい人が笑っていてくれるそれが日常なら、僕がやっている事が間違いではないって思える。だから僕は最後はこの日常に帰ってきたいよ……」

 それはまだ遠い未来かもしれないけれど……と零は苦笑して言った。

「それがいつになるか分からないけど、それでも菫は待っていてくれるか?」

 その問いに、繋がれた手を菫は握り返す。男性の固い手の平が伝わってきた。その手にはマメがあり、傷もあった。今まで人知れず日本を守ってきた証しだ。それがとてつもなく愛おしい。

「零くんが帰ってきてくれるなら、私はいつまでだって待っていられるよ」

 菫は涙を堪えて宣言した。零の未来志向な発言が聞けただけでも希望だった。菫は夢見てるのだ。零が――彼らが笑って生きられる未来を。それを見られるならば、どんな長い時でも待ち続けられる。菫の泣き笑いを見て、零は心から嬉しそうに微笑んだ。



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