Cendrillon | ナノ


▼ #仮初めの名
潜伏中ヒロくんの外で呼べる名前がないと不便なので捏造。


 ふと菫は気になった事を景光に尋ねた。

「そうだ、ねぇ、ヒロくん」
「ん? 何、菫ちゃん?」
「これからヒロくんの事、別の名前で呼んだ方が良いよね?」

 景光が潜伏生活を送る事になるセーフハウスで、今後について打ち合わせをしていた時の事だ。呼び名を変えなくてはいけないだろうと話の流れで菫は気付いた。

「うん、そうだな。こういう安全な所では今まで通りヒロって呼んでほしいけどさ。もし外で俺の名前を出す機会があるなら、確かに偽名で呼ぶ必要があるね。うーん、偽名か……」
「あれ? 名前、まだ決まってないの?」

 菫は首を傾げる。単純に今後呼ぶべき名前をすぐに教えてもらえると思っていたのだ。だが、まだ潜伏期間中の景光の名前は決まっていなかったようである。

「そうなんだよね。早く決めろって言われてた。でもいいのが思い付かないんだよ。菫ちゃんも何かいい案ない?」
「え?」

 自分の質問が発端で、景光と二人で菫は仮の名前を考える事となる。



 * * *



「う〜ん……名前、出てこないなぁ」
「だろー。山田太郎なんて以ての外だけど、意外と普通の名前って難しいんだよな」

 突然偽名を考えろと言われても早々に思い付く筈もない。だからこそ景光も名前を決めるのに手間取るのか、と菫も少し納得してしまった。そして二人で唸るが、取っ掛かりが見つからず、一つも案が出てこない。
 菫は思考が脱線してしまったのか、つい偽名ではなく景光の本名について言及した。

「名前、名前……そういえば、ヒロくんの名前って、何気に難読だよね?」
「あー、景光な。漢字は普通なのに、読みがね……」

 本人も自覚しているようで苦笑いを浮かべた。菫も最初に紙面でその漢字を目にした時、読み間違えている。

「普通、景光って漢字ならカゲミツって呼ぶもんね? 景色の景っていう字がヒロっていうのは、すぐには出てこないから……」
「そうそう。この漢字を先に見た人は全員がカゲミツって呼ぶよ。最初から正しく呼ばれた事ないな。だから俺も学習して、前もってヒロって呼んでって言ってたところあったし」

 そういう経緯があったのか、と菫は今まで知らなかった事実を知る。しかし、ある意味それは使えるのではないか、とも思った。

「それなら……それを偽名にしちゃうのは? 景光って書いてカゲミツって呼ばせたら、ヒロくんの本名はそれに隠れちゃう気がするもの。あ、でも待って。やっぱり漢字自体は本名である事に変わりないから、止めた方良いね。危ないよね」

 思いついた事を口にしてみたが、すぐにデメリットも思い浮かび、菫は自分の発言を慌てて撤回した。だが、意外ではあるが景光はその案が気に入ったらしい。

「……いや、それいいかも。まさか堂々と本名使うって思わないだろうし。景光って漢字はカゲミツって読むのが一般的だしな。むしろ難読の俺の名前の読みが表に出てこないよ。よし、それでいこう!」

 あっさりそれを決定されて、むしろ菫が困ってしまう。

「えぇ! 私が言い出した事だけど、危なくないかな? やっぱり全然違う名前の方が良くないかな?」
「大丈夫、大丈夫。最初からヒロミツって呼ばれた試しがないし。それこそ名字は俺と全く関係のないのにするからさ」
「本当に大丈夫かな? 危なくないかな……」

 不安そうな菫をよそに、景光は名字の選定に入っていた。

「菫ちゃんは心配性だな。平気だよ。それより名字はどうする? カゲミツに合うやつで、いかにも普通っぽいの……。菫ちゃんも何かパッと思いつくのある?」
「思いつくの……カゲミツ……あぁ、そう言えば景光って言えば、美術品だと刀を連想するかな?」

 名前についてはまだ賛成できかねていたが、取りあえず菫は景光の質問に真っ先に連想するものの名を上げる。

「長船派の刀工だね。ヒロくん知ってる?」
「そうだな……有名なやつくらいしか知らないけど、国宝で小龍景光と謙信景光があるんだっけか。確か……小龍が楠木正成っていう武将、謙信は言わずもがな上杉謙信が所有してたやつだったかな?」
「! 凄いねヒロくん。私は美術品を扱ってるから必要に応じて調べた事あるけど、私それまで知らなかったよ。普通そんなにすぐに名前出てこないよ?」

 刀剣を連想すると菫はあまり深く考えずに話題にはしたが、景光にはスラスラと代表される刀の名前、その元の所有者まで一緒に答えられた。菫は改めて景光の知識の深さに羨望の眼差しを送る。

「ははっ、そうか? でも刀が由来っていうのは良いかもしれないね。元の持ち主って伝わってるのは、どっちも軍神って呼ばれるような有名な武将だ。楠木とか上杉っていう名字なら、それに関連して景光っていう名前を付けたっていう理由はもっともらしく聞こえるからな」

 菫の賛辞に嬉しそうに笑ったあと、景光は所有者の名字に合理性を見つけたようだ。その二つの名字にかなり前向きらしいと菫は感じる。

「それじゃあヒロくん、楠木景光か、上杉景光って名前にするの?」
「あーでも、上杉は長野も連想されそうだから、ちょっとそれは避けたいかな?」
「それは、そうだね……」

 確かにその危険があった。生まれを少しでも類推される恐れは排すべきだと菫も頷く。そうすると選択肢は一つとなる。

「……という事は、楠木景光?」
「うーん……俺はそれでいいんじゃないかなって思うけど、菫ちゃんはどう思う?」
「私? えっと、やっぱり景光って漢字をそのまま使うのは、怖いような……」
「それは大丈夫だって。むしろヒロミツって読む方が難しいんだからさ。他にいいのも思いつかないし、偽名は楠木景光するかな」
「えぇ……本当に? 良いのかなぁ……」

 菫はやはり否定的だった。だが、そのあとの景光の言葉に反論の勢いも弱まってしまう。

「それにさ、楠木正成って知将とか天才軍師とかって呼ばれて、あの孔明に並ぶとも言われてるだろ? 兄さんと似てるかなって」
「う、ヒロくん、そこで高明さんの名前出すの……」

 言いづらそうに、でもどこか照れくさそうに景光は言った。
 偽名と言えど、誰にも分からなくとも、兄の高明と繋がりがある事にこだわっているのかもしれない……と思うと、菫も少しの躊躇を覚え、反対の声も小さくなってしまう。

「俺、基本は内勤になるだろうし。名前を使う機会もそんな多くないさ」
「え、でも、時々変装して外出する事もあるって言ってたでしょ?」
「あ、その時は菫ちゃん手伝ってね? なんか前にプロの手品師から変装術習ったって聞いたけど」
「変装術? あぁ、本格的にじゃなくて、ちょっと雰囲気が変えられる程度だよ? それは良いけど、でも、うぅー名前……」
「気にしすぎだって、菫ちゃん。何とかなるさ。俺としても景光は馴染みやすいんだよね。なんせほぼ変わらないから」

 後半に話がそれてしまったが、結局は景光が偽名をそれへと決めてしまう。菫は最後まで懐疑的であったものの本人の意向には敵わなかった。
 だが幸い、菫の心配はそのあと表面化する事はなく、景光は潜伏生活を送るのだった。存外何とかなるようである。すべて世は事もなしであった。


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「――ヒロの偽名が楠木景光?」

 後日、その偽名を菫から知らされた零は一瞬の沈黙の後、すんなり全容を理解していた。

「……あぁ、大楠公とその所有していた太刀からとったのか。良いんじゃないか? 謙信景光の上杉だと長野にゆかりがあると思われる可能性もあるし、僕も名字は楠木が無難だと思う。それに軍師という点で、ヒロの兄さんと繋がりがあるのも洒落てるな。名前自体も一般人ならカゲミツが真っ先に思い浮かぶだろうし、ヒロミツという本名からも良い具合に目を逸らせそうだ」

 景光と菫のやり取りをまるで聞いていたと言わんばかりの、正に一を聞いて十を知るという反応だった。

「うぅ……零くんも即答。……よく分かったね?」
「そうか? ヒロの名前を起点に考えれば、自ずと分かるぞ?」
「多分それ、普通じゃないと思うよ?」

 自分が美術品に関わる仕事などしていなかったら、この二人の幼馴染の話には恐らくついていけなかったのだろうと菫は思う。自分と幼馴染達のスペックの差をまざまざと見せつけられ、菫は内心ため息をつくのだった。



ヒロくんの偽名がないと進行上、都合が悪いので便宜上当サイトではこれで。でも変に捻っても見てる人は違和感あるだろうなと直球で「景光/かげみつ」です。作中で使われる時は振り仮名を振っていないだけで、読みは「かげみつ」になってる感じで。そして刀の情報はまるっとうぃきです。


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