Cendrillon | ナノ


▼ #02


 気付けば、菫はぼんやりと天井を見上げていた。自宅の寝室ではない事を疑問に思う。

「……?」
「おや、起きられましたか?」

 すぐそばから男性の声が聞こえてくる。その声の主を見上げ、菫は飛び起きた。

「! ヒロくん! っぅ……」
「大丈夫ですか? 急に起き上がってはいけませんよ」
「うぅ……ヒ、ヒロくん、無事、だったの? どこも、怪我してない? だいじょうぶ?」

 菫は鈍痛のある頭を片手で押さえる。目を固く瞑ってその痛みに耐えながら、もう片手は目の前の男性の服を掴んで放していなかった。まるでどこにも行かせないと言わんばかりだ。


「ヒロくん、お願いだから、もう怖い事、危ない事、しないで……!」


 しかし、俯いたままのその菫の悲痛な懇願への返答は、申し訳なさそうなものだった。

「……残念ですが、私は景光ではないんですよ」

 その答えに菫はバッと頭を上げ、自分の手が掴む男性を確認し、そして目を瞠った。

「え? …………あ、ヒロくんの、お兄さん……?」

 一度だけ会った事がある景光の兄だと、景光ではないのだと、菫はそこでようやく気付いた。

「ええ。お久しぶりですね? 菫さん。……お加減はいかがですか?」
「……あ、す、すみません。間違え、ました……。高明さん、だったんですね? ヒロくんと、よく、似てた、から……」

 そう謝りながらも、菫の表情は緩やかに悲しみに染まっていく。そして前触れもなく、ぽろっと涙が零れた。

「!?」

 それにはさすがの高明も驚きを隠せず、息をのんだ。だが、菫の目からはそのあともポロポロと涙が溢れ続け、止まる様子がない。もちろん、菫は止めようと手で目元を必死に押さえ、拭っていた。

「す、みませ、ん。突然、こんな……」
「菫さん……」

 体を震わせて静かに泣く女性が哀れだった。その姿はひどく小さく見えた。しかもその人は弟の親しいと聞いていた友人だ。高明はそっとハンカチを差し出し尋ねる。

「菫さん。景光と……会えていないんですか?」

 渡されたハンカチを受け取り、それで目を隠し菫はゆっくり頷く。

「は、はい……」
「私も、景光が警察学校を卒業してから連絡が取れなくなりましてね。あなたの心を晴らす良い知らせを伝えられず、申し訳ありません」
「そんな事……」

 菫は首を振るしかなかった。これは誰も悪くない事なのだ。しかし高明がさらに首を振る。

「いえ、景光が、弟があなたにこんなに心配を掛けさせている事を、兄として謝罪します」
「いえ! 高明さんが謝る事じゃないんです。そして、ヒロくんが謝るような事でも、ないんです。すごく、頑張っているんです……」

 景光は――景光と零の二人の幼馴染は、何者にも侵せない信念を元に行動している。それを知っているからこそ、菫は滅多な事を口にできない。

「菫さんは……景光が今、何をしているのかご存じなんですか?」
「……知りません。――いえ、すみません……違います」

 一度菫は否定した。だが、目の前の人物があまりにも優秀すぎる事を思い出す。否定しただけではこれまでの自分の言動の説明ができない事に気付くと、隠すだけではだめだと菫は思い直した。

「少し、知っています。本当は、知っていてはいけない事、なんです……」
「……どういう事でしょう?」
「知らない方が……良い事なんです。それを知っているだけでも、危ないんです。だからヒロくんは教えてくれない。それに私みたいに知っている人間がいる事自体、ヒロくんの身にも危険を及ぼすんです。だから、知らない振りをしてるんです」
「――何か危険に身を投じているようですね。我が弟は。しかし、それを菫さんに隠し通せなかった事は、未熟としか言いようがありませんね」

 菫が知っているのは不可抗力なので、景光に一切非はない。だが、どうあってもその点は説明できないため、菫は沈黙する。そして、菫のこの説明だけでやはりこの切れ者の景光の兄は、大体のところを察してしまっていた。

「警察を辞めたと言っていましたが、今の菫さんのお話を聞くと、景光は公安に配属されたのでしょうね……」
「!? 私、そんな……」

 思わず目元に当てていたハンカチが落ちる。
 たとえ景光の兄でも、そこまで伝えるつもりは菫にはなかった。ただ、景光が少し特殊な環境下にいると伝えるだけのつもりだったのだ。自分の発言でそこまで情報が漏れた事に菫は青褪めた。

「た、高明さん、お願いです! それは誰にも、誰にも言わないで……! 知っているだけで、危ない、の……。高明さんにも危険が及ぶかもしれない……」
「ええ、もちろん承知しておりますよ。危険は私だけではなく、景光にも、そして菫さんにも及ぶでしょう。安心してください。他の誰にも漏らしませんから……」
「っ……ご、ごめんなさい。本当なら、高明さんが今ここで、知る必要がなかったのに……」

 声が震えた。本来ならばまだ先の事だ。
 高明が真相に気付くのは、景光の遺品を受け取った時の未来の事なのだ。

(でも、ヒロくんが公安だったって気付くのは、ヒロくんの遺品を高明さんが受け取るって事は、ヒロくんが死んでしまうという事……)

 景光を救いたいと思っているにもかかわらず、どこか矛盾した考えだった。
 菫は自分の知る未来と違う状況だという事に混乱していた。だが、今はそれに気を取られている暇はない。菫は頭を振り、高明に謝罪する。

「……すみません。私が巻き込んでしまいました……」
「あなたは必要最低限しか話していないでしょう? 菫さん、今のは私が悪いんですよ」

 菫は再び首を振りつつ落としたハンカチ拾い上げる。だが、高明の洞察力に驚きのあまり涙も止まっていた。

「いえ、結局は私が話したようなものです。本当にごめんなさい。でも、高明さん。本当に誰に聞かれても、知らない振りをしてくださいね? それが、同じ警察の人でも……」

 菫の申し訳なさそうなその発言に、高明はどこか怪訝そうに眉を寄せながらも頷くのだった。



 * * *



 菫の涙も引き、だいぶ落ち着いたと判断した高明は、弟に関しての情報を得たいという気持ちと、またこの場にいる本来の目的を果たすべく、菫に声を掛ける。

「菫さん。景光の件はもう少し詳しく聞かせて頂きたいと思っています。あとでお時間を頂けますか? もちろんそれは、菫さんの話せる範囲で構いません」
「あ、はい。でも……あまり、多くはないんですけど……」
「構いません。ありがとうございます。そして、それとは別件でお話があります。お加減が悪いところ恐縮ですが、職務上聞かねばならない事が……」

 本題を告げようとしたその時だ。コンコンとノックのあと、間髪入れずに扉が開かれた。

「おい。高明。嬢ちゃんは起きたか? 事情聴取は済んだのか?」
「敢助君。ノックのあとに返答を待たないのであれば、そのノックには意味がありませんよ」

 返事も待たずに入室してきたのは高明の正に相棒のような男――敢助だ。まだ目や足に怪我は負っていないようだったが、その人物が誰なのかはすぐに分かった。菫はそれを見て自分の状況をようやく思い出す。この館では事件があったのだ。

「あ、の……。もしかして、さっき起きた事件の件でしょうか? すみません。私のせいで何か、事情聴取とかでしょうか? それが滞ってたんですね?」
「菫さんが最後でしたから、あまり気になさらないでください」
「あー、その様子じゃ、まだだったみたいだな。んじゃ、早速で悪いんだが、話を聞かせてもらえるか?」

 敢助は菫の赤い目には触れず、高明の隣の椅子に腰かけると何も知らないような素振りで問い掛けた。

「はい。え、っと……何をお話すれば……?」
「まずは名前と職業から聞かせてもらえるか。あー、ちなみに俺は長野県警の大和敢助だ。あんた高明の知り合いなんだってな? そういや、こいつについては聞いてるか?」

 親指で指差しながらの敢助の問いに、高明が答えた。

「おっと、そういえば詳しくはご説明していませんでしたね。失礼しました、菫さん。ご存じかとは思いますが、私は諸伏高明。長野県警の刑事です。今日起きた事件をこちらの敢助君と共に担当させて頂きます。菫さんがここに来た経緯など、伺えますか?」
「そうだったんですね。お二人ともお待たせしてすみませんでした。それでは、えっと……私は鳳菫です。東京で美術商をしています。今日こちらのお宅に伺ったのは、社長に以前からお約束していた商品をお渡しする為でした。お約束は11時からで――……」

 菫は一度、二人の刑事に手間取らせた事を頭を下げて謝罪する。そしてその後は、今日の流れをありのままに一通り説明した。

「――社長の話と食い違いはないが……」
「ええ。ただ、事件前後にお一人だったという事で、残念ながらアリバイがありませんね」
「そうなんですね……」

 どうやら今回のこの事件、邸内にいる人間ならば短時間で容易に出来る犯行だったようだ。証拠もなく、明確な動機を持つ人間もおらず、菫も容疑者の一人に含まれてしまうという。

「そうなりますと、私は東京に帰らない方が良いでしょうか? しばらく長野に滞在した方が良いですか? 事件の容疑者という事ですと……」

 テレビや小説などではこういった場合、往々に行動を制限されるものだった。菫もそれを念頭に二人の刑事に自分の今後すべき対応を尋ねる。

「そう、だな……。正直、それを強要は出来ねーが、自主的に留まってくれると助かるっちゃー助かるな」
「申し訳ありません。通常ならば名前と連絡先を伺えば、お帰り頂いても問題ない案件なのですが……」
「仕方ありません。県内の方ならそれでも構わないでしょうけど、県外に行かれては困りますよね? 一応明日帰る予定でしたが、場合によっては延泊します」

 菫は苦笑いを浮かべる。元々一泊はする予定ではあった。明日以降についても、菫としては仕事に没頭できれば良かったのだが、生憎しばらく予定はない。今回に限ってはそれが良い方向に作用しそうであった。

「まあ、本来なら県外の人間だし、そこまでしなくていいんだぜ? だがそうやって、警察に協力的な姿勢を見せてもらえるってんなら、善良な市民には多少の融通を利かせてやれるだろうよ」
「恐らく延泊の必要はないと思います。明日までには何らかの進展があるでしょう。聞き込みの情報も上がってくると思いますからね」

 結局、高明のその言葉の通り、菫は翌日の朝のホテルで有力な容疑者が現れたと知らされる。昨夜のうちに身柄を確保し、既に取り調べをしていると高明から電話で説明され、さすが長野の警察の人は優秀だ……と、菫は感嘆のため息をついたのだった。



 * * *



「菫さん、昨日は午後からホテルでお休みされていたと聞きましたが、お加減はいかがですか?」

 犯人もほぼ捕まり、菫は予定通りに一泊だけで、晴れて東京への帰路につける事になった。

「ご心配をおかけしまして。大人しくしていたのが良かったのか、だいぶ良くなりました。ありがとうございます。それにホテルまで来ていただくなんて、すみません」

 しっかり休息を取った事も良かったのか、体調不良も鳴りを潜めている。そしてそんな菫を見送りに、高明がホテルまでわざわざ出向いてくれていた。

「いえ。事件に巻き込まれて、ご心労も重なったのでしょう。せっかく長野にいらしてくださっている時にこのような事になり、心苦しいですよ。それに時間が欲しいと言った私が、時間を取れずに申し訳ないですね」

 昨日、詳しい話を……と約束を交わした景光の件については、後日時間を設ける事となった。菫はともかく、犯人逮捕に動いていた高明は事件翌日とあって忙しいためだ。

「とんでもない。高明さんがご多忙なのも分かりますし。それに事件に遭ってしまった事と、この長野の印象は重なりませんよ? こちらでは社長をはじめ、知り合う方は良い人ばかりです。後日、高明さんのお時間が取れる日にお伺いしますが、それとは別にいずれまた長野に来る事もあると思います。それが楽しみです」
「そう言ってもらえますと、地元の人間としては嬉しいですね。景光の件で菫さんにご足労頂くのは申し訳ありませんが、菫さんの言葉に甘えさせて頂きます。ですが別件でこちらにお越しの際にも、是非声を掛けてください」

 景光の件は元々当たり障りのない情報が少ない。そのため菫は具体的な話は何一つ出来ないと思っていた。だが、高明には菫の言葉にあるわずかな情報から様々な推測が出来る自負があるため、それでも十分だった。
 また高明はどちらかと言えば、景光の仕事について以外を主に菫から聞きたかったようだ。家族として兄として、唯一の身内――弟の話をただ純粋に聞きたいらしい。
 菫も高明のその目的を理解すると、それに一も二もなく承諾した。

「はい。では私は時間の都合をつけやすいので、高明さんがお時間が取れそうな時はいつでもご連絡ください」
「ええ、必ずご連絡しますよ。あと菫さん、東京に帰られても無理はされませんように。早めにお医者様に掛かってください」

 高明は最後にまだ本調子ではない菫に、病院へ行くよう心配そうに進言する。するとその一拍後、菫は少し苦しそうに笑顔を作った。

「高明さん、言い方は全然違うのに、今の何だか……ヒロくんみたいでした」
「菫さん……」

 菫は泣きそうに笑ってそう言った。それを見た高明は困ったように菫を見つめるしかなかったのだった。



 * * *



 後日、再び長野に訪れた菫は駅で高明に出迎えられる。
 定期的に連絡を取り合いながら、高明の時間が取れる日に合わせての再訪だった。そして菫の顔を一目見て、高明は開口一番言った。

「菫さん、どうやら景光の安否が確認出来たようですね」
「?!」

 その時、菫は確かに景光の無事を知っていた。人目を忍んで景光が菫の前に現れた矢先だったのだ。組織から身を隠すため潜伏生活に入る事、またそのフォローを菫は頼まれていた。

「そんな……すぐに分かります、か?」
「ええ。以前あった憂いが払われたかのように、やわらかい雰囲気ですから。生き生きとされてますね」
「……」

 こんな簡単に景光の動向を自分の挙動から見破られるのかと、菫は愕然とした。今回はまだ相手が景光の兄である高明だからよかったものの、これが第三者、ひいては敵方に知られてはどうなるか――。

「私は――情報漏洩の発生源……発信源かもしれません……」
「……いえ、菫さん、それは――」
「わ、私は……私が、ヒロくんを、危険に、さらす?」

 菫が顔色を変えた事、そしてその発言内容に高明は思わず自分の眉間を揉んだ。

(参りました。不安にさせてしまったようです。元々ご自身から情報を漏れるのを恐れていましたね)

 自分の発言は意図していない伝わり方をしたようだと高明は内心息をつく。高明としても自分が関わった事によって弟の身に危険が迫る事は良しとしていない。ただ、この菫との弟についての秘密の共有は自分達二人だから成り立ち、赤の他人には知り得ないだろうと高明自身はあまり不安視はしていないのだ。

「私がそばにいては、ダメ、なんじゃ……」
「菫さん、それは早合点です。これは私だから分かったのです。弟の景光とその幼馴染のあなたを、兄である私が知っていたからです。他人には容易に導ける答えではありませんよ?」

 とんでもない自分の失態に、茫然としている菫に高明は優しく語り掛ける。

「で、でも……」
「すみません。菫さん。私があなたの言動から先読みしすぎたんです。これまでの経緯を知っているからです。安心してください。本来なら、あなたから景光の事には辿り着けません」
「でも」
「菫さん、少し静かな所で休みましょう。落ち着いて話をすれば、その不安は杞憂だと分かりますから……」

 その後、高明は菫を説得するのに少々時間を費やす事になる。兄弟そろって、菫に手を焼く運命なのかもしれない。だがやはり、当の本人たちにそれを知る由はないのだった。





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