▼ 001
魔女と共に別の世界へと足を踏み入れたのは、満月の綺麗な夜だった。コツコツとハイヒールの音が住宅街の通りに響く。週末の終電から吐き出され、改札を潜り抜けた菫の家路につく足取りは軽くもあり、重くもあった。
仕事から解放され最寄り駅から家までの道のりで菫は大きく安堵の息を吐く。
「つ、疲れた……。早く休みたい」
職場にいた時から続く緊張感が我が家を目前にし、ここに来てようやっと切れたのだ。
だが、すぐに職場での出来事が思い出される。ぽつりと今までどんなに思っても口にした事がなかった言葉がその時は菫の口から思わず零れた。
「仕事、辞めたいな……もう、無理かも――」
口から出たが最後菫は仕事を続けられる自信がなくなってしまった。週明けに職場へ行く事がとてつもない苦行に思えた。
「そういえば……最近は小説も漫画も、全く読めてなかったなぁ……」
唯一の趣味である読書にすら手がつかない張りつめた生活の繰り返しだった。菫は自分が精神的に追い詰められている事を自覚してしまう。二度目のため息は開放感によるものから沈鬱なものへと変わってしまった。
「どうして私は人付き合いがうまく出来ないんだろう?」
本来ならば菫はこんな終電に乗って帰宅する必要がなかった。急ぐ必要のない仕事の後処理に一人で取り組んでいた事が原因だ。
「皆から私になら仕事を押し付けてもいいと思われてるの、辛い。悲しいよ……」
時々あるのだ。週に二、三度、終業時刻間近に持ち込まれる仕事だ。そしてそれらのほとんどが菫に回される。その時、皆どこか意地悪な、面白そうな、どうでもよさそうな視線を菫に向けてくるのだ。
たまにほかの人間に仕事が割り当てられると、明日でいいからと声を掛けられるのに菫の場合にそう言った声はなく、そんな扱いの差を目の当たりにした時、菫の胸はギュッと引き絞られるように痛んだ。
「でも今仕事を辞めても、きっと同じ状況になるんだろうな……。今までもそうだった。子供の頃から、そうだった」
菫は自分の両親を思い浮かべるがその顔があまり思い出せなかった。傍から見れば何の変哲もない一般家庭に見えただろう。進学もできたし、何か制限を受けたという事もない。だが菫は親からはネグレクトに近い扱いを受けていた。
愛された記憶がないのだ。自分はいらない子なのだろうかという思いが、幼い頃から菫を苛んでいる。
学校の卒業と就職を機に家を出てからは親からは没交渉だ。最初は何度か菫から連絡を取っていたが、思うところもあり次は親から連絡がくるまでこちらから連絡はしないと決めてからは一度も話をしていない。
それが親からの自分への答えだと思うと、菫は心の奥底にしまっていた親への渇望、愛を諦めた。
これで心を許せる友などがいれば菫もまた救われたのだろうが、それも叶わなかった。同年代の人間からは遠巻きにされ菫はいつも独りぼっちだった。
本などの物語の中で見られる家族関係、友人関係に菫はひどく憧れた。それに思いを馳せるのが唯一の心の慰めだった。
だが親からの愛情を受けられず、また親しい友人などもできずに孤独に生きていた菫はこの満月の夜、転機を迎えることになる。
「お嬢さん。良ければ見ていかない?」
帰路の途中、路上に座り店を広げる露天商と思しき女性に菫は引き止められる。その自分に話しかけた人物は銀髪で紫色の瞳の老婆だった。
外国の人だと菫は慌てたが、問い掛けからも分かる通り日本語が堪能な様子ですぐに我に返る。
菫はこの状況に違和感を覚えた。飛びきりの非日常な出来事である。
滅多に見かけない真夜中の路面販売。
日本語を操る年配の外国人女性。
極めつけは二言目の発言だ。
「あなたをずっと待っていたのよ」
「えーと、日本語、お上手ですね……」
あまりにも怪しげな女性に、菫は困ったようにそんな言葉を紡ぐしかない。
普段は薄暗い帰り道は見事な満月の光に照らされて、とても明るかった。
* * *
結論を言うと仕事帰りの人気のない道で真夜中に露店を開いていた年配の女性は魔女だった。
しかも何やら魔法の実験の途中で手違いがあり、自分の世界から菫の住む世界へとトリップしてしまったのだそうだ。
そしてその女性の世界へと還るための助力を菫は求められた。菫の認識としては何もしていないのだが、結果的には助けになったらしい。女性曰く、菫の協力がなければ二度と生まれた世界の土を踏めなかったとの事で、とても感謝される形となる。
でもそれも女性から手渡された、全てが終わった後には輝きを少し鈍らせた、大きな宝石のペンダントの不思議な力によるのだと菫は思う。
そう……事の発端もその宝石からだった。
* * *
「お嬢さん、ちょっとこの宝石を持って見てくれるかしら?」
「それ、この並んでる商品の中で一番に目を引きますね。……とても綺麗です」
最初に抱いた警戒心も女性にあっさり取り払われて、菫はしゃがみ込んで路面を覗き込んでいた。テーブル代わりであろう薄い布きれの上に並べられていたのはどれも美しく、どこか古めかしい、アンティークと言って遜色のないアクセサリーだった。
「古いペンダントみたいですね」
その中でもひと際菫の目を引き寄せたペンダントが、女性から差し出された。
道端で気軽に売るには不釣り合いの、紫色の輝かしい大きな石に目が吸い寄せられるような、それは印象的なペンダントだ。
「この紫色の石、とても大きいですけど……ガラスではないんですか? まさか本物の宝石?」
「さあ、なんでしょうね。でもそれは月にかざして見ると一等綺麗よ? そしてとても珍しい物でもあるの。確かめてみるといいわ」
女性に言われるがまま菫はペンダントを受け取り、そのアメシストのような宝石を月の光にかざして見る。
「わっ、すごい……さっきまでは透明な石に見えたのに、月光にかざすと石の中にもう一つ石? が入ってますね」
その宝石は面白い事に月の光に照らして見ると、宝石の中にまるで核のようにもう一つ別の宝石が存在していた。まるで昔読んだ漫画に出てくる宝石のようだった。
思わず、「パンドラと呼ばれる石みたいですね」と菫が呟くと、女性は目を見開いた。パンドラなんてよく知っているわね……と感嘆の声を漏らす。
むしろ菫からしたら若者向けの漫画の内容を知っているその女性を意外に思い話を向けた。
「おばあさんこそよくご存じですね。不老不死になれるんでしたっけ?」
「それも知っているの? ただ実はこれはちょっと違うわ。パンドラの兄弟みたいなものなんだけどね。エルピスというの。希望という意味ね。これは願い事を一つ、叶えてくれるのよ」
「へぇ……夢がありますね。おばあさんはこれを使って何かを願わないんですか?」
現在のこのペンダントの持ち主である女性に尋ねると、軽く首を振られる。若干女性の雰囲気も変わってきているように感じられた。
「これは誰の願いでも叶えてくれる訳じゃないわ。人を選ぶの。そしてそれはあなたよ。菫さん」
「……私、名乗ってませんよね?」
瞬時に芽生えたのは当たり前の恐怖心と、ほんの少しの好奇心。
「どうして……名前を知ってるんです、か?」
その菫の疑問の声に、女性――ヴィオレは到底信じられないような事を説明し出したのだった。
* * *
「――こことは違う世界から来た魔女さん……ですか?」
荒唐無稽な話だったが菫はすぐには立ち去らなかった。ヴィオレもその菫の反応に心なしか安堵の様子を見せて話し続ける。
「今すぐ信じてもらえないのは分かってるわ。それでも、その上でも私は菫さんにお願いがあるの」
ヴィオレのその言葉には今まで律儀に付き合っていた菫でも一瞬躊躇した。だが、恐る恐る問い返す。
「……何でしょうか?」
「この宝石に、私が元の世界に帰れるように願ってくれないかしら? もちろん出来うる限りのお礼はするわ。魔女の約束は絶対だから。菫さんの望みを叶える力が私にはあるの。ただここではない、元の世界でないと難しいけれど……」
ヴィオレは元の世界では有数の実力を持つ魔女なのだという。そして帰りたいのだと、自分だけでは帰れないのだとヴィオレは必死に説明した
聞かされた内容の全てを信じられた訳ではなかったが、真剣な声で語られたその話を切って捨てる事も菫には出来なかった。
薄い人付き合いしかしてこなかった菫に、ここまで熱心に話しかけてくる人間はいなかったのだ。例え荒唐無稽な会話でも菫は心のどこかで嬉しさを覚えていたという理由もあった。
だがどこか心が浮き立つようなそんな気分が、瞬く間にしぼむような言葉が投げかけられた。
「今は本来の力が発揮できないけれど私、あなたの事が少しだけ分かるのよ。菫さんあなた、生まれる世界を間違えたみたいね」
「え?」
「ここだとあなた、楽に息ができないでしょ? 異端、異物、異分子、そんな風に扱われた覚えはないかしら?」
「あ……」
思いがけずに胸に突き刺さる言葉に菫は声を失った。それは昔から菫が感じていた感覚だったからだ。だが理解してもらえるものだとも思えず、周囲と上手くいかない菫の被害妄想だと断じられる事を恐れて、口にした事はない思いだ。
ひたすら隠してきたそれをあっさり見透かされ、菫は動揺した。そんな菫にヴィオレは気の毒そうに続ける。
「不躾にごめんなさいね。でも覚えはあるみたいね? だけどそれは間違ってないわ。あなたはこの世界では存在が気薄なの。本来生きる場所ではないからよ。だからあなたは蔑ろにされる。少なくともここの世界とは相性が最悪ね。この世界ではないだけでも、あなたはだいぶ楽に生きられるわよ?」
「そう――なんですか?」
ヴィオレの指摘に菫は息をのむ。これが魔女の力の一端なのだろうか、自分の状況や心情を的確に把握され訝しむ思いもあった。だがそれと同時に自分の生きづらさに理由をつけられて、ほんの少し安心してしまっていたのも確かだ。またヴィオレの言葉が菫の心に光を灯す。
(ここではないどこかなら、大切な人ができるかな? 私も大切に……してもらえるのかな?)
求めてやまないものが手に入るかもしれないと、菫は希望を抱いてしまう。
「菫さん、私と一緒に私の世界に行かない? いえ、正確にはあなたが私の世界に行きたいと願うの。私はそれに便乗して共に私の世界に帰る……帰れるわ。そうしてくれたら、私は菫さんのどんな願いだって叶えるのに尽力するでしょう」
「本当に……叶えてくれますか?」
目の前の女性を信じ切っている訳ではないのに、どこか縋るように菫はヴィオレに問いかける。ヴィオレは菫に問い返した。
「あなたの望みは何? もしあなたがこの宝石に私の願いを託してくれるなら、私はきっとあなたに報いるわ。だから菫さん、私の願いを叶えてほしい」
「……」
「菫さん、望みを教えて? あなたの願いは?」
ぽつりと菫は呟いた。
「…………私は、愛されたかった。そして愛したかった」
人に顧みられない自分には無理だと思っていた。
これまでは特別な人を作ったとしても、その人に拒絶される未来しか想像できずに菫は一歩を踏み出せなかった。無条件に愛してくれる筈の家族でも無理だったのだから。
「家族愛とか、恋愛とかそういう愛情じゃなくていいんです。でも、この人のためなら何でもできるっていう、大切な人が欲しい。そんな愛せる友人ができたら、きっと嬉しい」
そう、友人が欲しい。その人のためならば命を投げ出せると思えるほどの友情の絆が欲しい。願わくば相手からも同様に思ってもらえたら、この上なく幸せだろう。
「もし違う場所で生きていけるなら、やり直したい。ただ諦めていた人生を」
それが今、新たな道が示された。
「今までは勇気がなくて、とてもではないけど、できなかった。もし新たな場所で生きられるなら、その機会があるなら、そうしたら私は今度こそ人を愛せるように、そして愛されるように努力したい。そのきっかけになるのなら、ヴィオレさんの願い事は、私にとって渡りに船なんだと思います」
菫の答えに本当に嬉しそうに微笑んだヴィオレは、手の平を見せるように手を差し伸ばした。
「交渉成立ね。さぁ、私の手を取って。この宝石に手をのせて」
「はい」
「本当にありがとう。私はやっと、帰れる。とても……長かった」
手を乗せた菫にヴィオレは頭を垂れた。涙を浮かべていたヴィオレに菫は複雑な気持ちを覚える。心の底から感謝されている事は分かるが自分が特別何かをする訳ではないため、向けられる過分な感謝の念に困ったように首を傾げるしかなかった。宥めるように菫は空いている手でヴィオレの背を撫でる。
「ヴィオレさんの世界に行きたいと、共に行きたいと願えばいいんでしょうか?」
「ええ。世界軸さえ特定できれば、あとはもう私に任せて。きっとあなたが過ごしやすい環境を提供してみせるわ」
菫の問いに迷いなく頷いたヴィオレに、菫は躊躇する事なく二人の願いを思い浮かべた。そしてその満月の夜を境に、二人の女性は音もなく跡形もなく、その世界から姿を消したのだった。
プロローグはオリキャラが出張ります。作品イメージはサンドリヨン。薄幸な女の子が魔女に助けられる辺り。でも状況的には助けたカメに連れられて〜♪ っぽいですが。あっちはハッピーエンドではないので、やはりシンデレラでイメージ補足をお願いします。
ついでにカクテル名(でもノンアル)にも絡めてます。カクテル言葉は「夢見る少女」。