Cendrillon | ナノ


▼ #02


 ブロックの壁にぶつかり、フロントが大破している車が少し遠くに見える。菫は茫然と座り込んでいた。車は菫の身体をすれすれに横切っていった。車の惨状が思わず目に入って菫は息をのみ、そして傍らの人に恐る恐る視線を向ける。

 そこには、菫が渾身の力で引っ張り寄せた伊達が地面に倒れ込んでいた。

「だ、伊達、さん?」

 その動かない身体に菫は、触れるか触れまいか悩むよう宙に手を彷徨わせた。

(私は、間に合わなかったの――)

 だが、菫の絶望的な考えは一瞬で霧散した。目の前のその身体はピクッと動くとバネの様に跳ね起きたのだ。

「!?」

 その勢いのまま菫は声を掛けられた。

「菫! お前、大丈夫か!? どこか怪我は?」
「あ、な、ないです」
「何か違和感があるようなら言ってくれ。俺達は車を見てくる。高木ぃ! 事故車の運転手を助けるぞ! まず119に連絡しろ!」
「は、はいぃ!」

 二人の刑事はものすごい速さで、煙を上げている車へと走っていく。あの動きならば、伊達に問題はなさそうだ。

「……たす、かった……?」

 菫の口からはまだどこか信じ切れていないような、そんな声が漏れた。それと同時にこれまでにない疲労感が急激に押し寄せてきた。

 伊達は無事だ。それでも、間に合ったのはギリギリだった。紙一重の結果だった事に菫の心臓が不協和音のようにバクバクと鼓動し始める。
 息をつける筈の今の方が、何故か不安な気持ちが強い。息が苦しかった。しばらく菫は座り込んだまま動けなかった。



 * * *



 浅い呼吸を繰り返す。時間にすればさほど経っていなかったが、菫は平静を取り戻せた。

「あ……」

 立ち上がる直前、菫がふと視線を動かすと、路上に黒い物を見つける。

 伊達が拾い上げようとした、あの手帳だ。伊達はこれを拾い上げる事もなく、要救助者を助けに行っている。このままにしておいていい筈の物ではない。少し迷ったあと、菫が代わりにそれを手に取る。これはなんて重いんだろうと思った。

 それを胸に抱えながら、菫はヨロヨロと立ち上がる。どこか身体に力が入らなかった。これは夢心地というものだろうかと、菫はぼんやり考える。まだ実感が湧かずに菫はフラフラと事故車に近づいた。すでに車から運転手は助け出されており、救急車を待つ状態であった。

「……運転手の方、大丈夫ですか?」
「ああ、車のフロントはひどく壊れてるが……」
「エアバックが作動して、命にかかわる大きな怪我はないみたいですよ? どうやら居眠りしていたみたいですが、いやぁ〜運が良い運転手です」
「そう……ですか。良かった……」

 伊達の死ぬ運命が変わった事で、その余波を浴びた者がいる事を菫は目の当たりにしてしまったが、命に別状はないようで安堵の息を吐いた。だが、罪悪感が再び芽を出した

(もしかしたら、伊達さんの代わりに、この見ず知らずの人が、死んだかもしれない)

 こういう事は起こり得ると、想像していなかった訳ではない。死ぬ人間の代わりに、別の人間が死んでしまうかもしれない事を。しかし突き詰めれば、今回の相手は居眠り運転の過失のある運転手だ。伊達とは比べようもない。

(でも、私に誰かを見捨てる権利なんて、あったのかな……)

 そんな権利はある筈がない。菫は分かっていた。だからこそ菫は自分の判断、決断が、ただ己のエゴなのだと、恥ずべき行いだと気分が落ち込むのだ。ただ純粋に、伊達が――零の友人たちが助かって良かったと喜べない。

 この先、死ぬ筈だった人間が生きている事により、どんな不都合があるかも分からない。自分の行いによって、死ぬ運命になかった人間が死ぬかもしれない。
 申し訳ないと思う気持ちは嘘ではない。それでも、伊達と事故に遭った運転手を天秤にかければ、菫は何度だって同じ事をする。

 罪悪感を抱いているのにもかかわらず、菫は全く懲りていないのだ。菫が一番恐れているのは、死なずに済んだ彼らが、またどこかで命の危機に晒されるかもしれない事だけだ。
 やはり自分はとても自分勝手だ、と菫は自嘲した。

(人間はいつか死ぬものだなんて、知ってる。でも、彼らには死んで……欲しくない)

 結局、自分の望む世界だけを見たいのだ。誰かのために……などという高尚な考えなどではなかった。

(今まで、こんな事をしていたのは、本当は零くん達のためじゃなかった。私が……こうする事が一番楽だった)

 だがそれももう、菫には防ぐ手立てがなくなってしまった。菫の知る未来はもうない。
 警察組織に所属する彼らは、今後も危険にその身を投じるだろう。菫の手の届かないところで、その命の火を消すかもしれない。元より彼らの未来は白紙だ。もう何が起きるか分からない。何が起きてもおかしくない。

(私、これから、どうすればいいの……)

 すべてが終わって、菫にはもうできる事がなくなってしまった。知っているという優位性は失われ、自分の価値ももはやゼロだ。それをここに来て菫は理解してしまった。まるで自分が先に燃え尽きてしまったかのように、菫の身体は冷えていく。

(いやだ。みんながいない世界なんて、いやだ……)

 だが、菫は今まで歩んだ楽な道を今後は選べない。もうこの先を知らないからだ。手探りで進むしかない。本来、人はそうやって生きるものだ。未来など知る由もないからだ。しかし菫は、20年以上も前からそれを確認しながら生きてきた。今更戻れない。

(目を瞑りながらは、歩けないよ――)

 菫は恐ろしくて仕方がなかった。目の前が真っ暗に見えた。



 * * *



 程なくして、事故に遭った運転手は救急車が現れると瞬く間に搬送されていった。伊達と高木は部署は異なるが、事情説明のために警察が来るまでその場に残るそうだ。

「なぁ、菫。慣れない事故なんて見て、気が動転してんだろ? 顔が真っ青だ。離れた所で休んでな。おい、高木。担当の奴らが来るまで、後は任せた」
「はい、了解しました!」

 伊達は高木に指示を残すと、暗い顔をした菫を事故現場から連れ出した。高木は薄暗い中でも発生する野次馬の整理や、またその場を荒らされないようにするため事故現場で待機のようだ。

 菫は本来自分達が向かっていたコンビニに、伊達の誘導で辿り着く。そして伊達は菫を少し待たせると、コンビニ店内へと入っていき、二本のホット飲料を購入して戻ってきた。伊達は缶コーヒー、菫には紅茶のペットボトルだ。その温かい飲み物を手渡される時、菫はやっと気づいた。

「あ、すみません。伊達さん、コレ……」
「ん? おぉ、それ拾ってくれてたのか。菫、ありがとよ」

 菫が胸に抱え込んだままだったその手帳を、伊達は大切そうに受け取った。それに前後して菫も伊達から飲み物を受け取り、頭を下げる。

「ありがとうございます。わざわざすみません」
「気にすんな。俺も飲みたかったしな。……そういえば菫。言い忘れてた事がある」
「はい?」
「あの時、俺を助けてくれたな? 菫が俺を引っ張ってくれなけりゃ、どう考えても俺は、頭からあの車にぶつかってただろ?」

 やはり気付いていたようだ。だが、それもおかしな事ではない。警察学校時代、あの零と渡り合えた人物なのだから。

「そうかも……しれません。でも、伊達さんなら避けられたと思うから、余計な事だったかもしれませんね」
「まさか、そんな楽観視はしてねーよ」

 菫の冗談めかした答えに、伊達は真っ向から反論した。

「徹夜のせいか頭が鈍ってたんだろうな……。車が間近に迫って、初めてあの状況に気付いた。その上、身体の反応も鈍くてな? 避けられそうになくて、こりゃもう駄目だなって思ったんだぜ、あの時は」

 だからよ、引っ張られて地面に寝っ転がった瞬間、生きてる事に驚いた……と、伊達は呟くように言った。そして、伊達は菫に向き直ると、きっちりと頭を下げる。

「菫、ありがとう。俺が生きてるのはお前のおかげだ」
「や、やめてください! 伊達さん、頭を上げてください。そんな……咄嗟に助けようとする事は、当たり前の事じゃ、ないですか……」

 菫はそう自分で言っていて、どんどん頭が重く垂れ下がってしまうのが分かった。純粋な善意ではない事を自分はよく知っているからだ。それを感謝されると、菫はどうしていいか分からなくなってしまう。菫は何を言っていいのか迷い、そしてふと、ずっと前から伝えた事を口にした。

「……でも伊達さん、今後は今まで以上に気をつけてくださいね?」

 ゆっくり頭をあげる伊達に、菫は言い募る。その菫の懇願は鬼気に迫っていた。

「もう伊達さんは自分一人だけの身ではなくなるんですから。ナタリーさんと結婚されるんですよね? ナタリーさんは伊達さんを本当に愛しているんです。伊達さんを死ぬほど、愛しているんですよ。そんなナタリーさんを一人残していくような事、絶対にしないでくださいね?」

 今回は辛うじて回避できたが、もし伊達が先に死ぬような事があれば、ナタリーはやはりその後を追うだろう。それはナタリーが伊達を愛する限り、きっとこの先も変わらないのだ。

(伊達さんに……皆に生きてほしいと思うのに、私はもう何もできない。役に立てない。こんな風に声を掛けるしか、できる事がない)

 未来の知識という道しるべを失い、どう進むべきか分からない。菫はさながら、迷子になってしまった子供のようだった。



 * * *



 菫が沈黙してしまうと、おもむろに伊達が口を開いた。

「なぁ、菫。お前、知ってたか?」
「はい? 何をですか?」
「俺が事故に遭う事だよ」
「?!」

 菫は言葉を失う。

(なんで、ばれたの。どうして分かったの?)

 知られる筈がなかった。疑問が菫の頭を埋め尽くす。初めてそれを指摘され、菫は動揺した。だが、言い逃れができそうにない事は、伊達の顔を見れば一目瞭然だった。確信があるような表情なのだ。

「やっぱりな……。ここ数日、誰かからつけられてるなって思ってたんだよ。あれはたぶん、菫だな?」
「……」
「あの期限が切れそうなタクシー券も、わざわざ用意していた物だろ?」
「……」
「自然に車に乗る事を同意させるため、だよな。って事は、俺に徒歩移動させたくなかった。もしくはその場を離れさせたかった」

 指摘されるどれもが的を射てる。まるで詰め将棋をされているような心地だった。菫は抵抗ができなかった。

「つまり俺は車上ではない移動中、もしくはあの場で事故に遭う筈だった。そうなんだろ?」
「……はい」
「俺は死んでたか」
「……は、い」

 菫は観念して頷いた。菫もまさかタクシー券から、そこまで推測されるとは思ってもいなかったのだ。

「もしかして、ナタリーも死ぬところだったか?」
「すごい、ですね? それにも、気付くんですか? ……はい、伊達さんが、今日亡くなっていたら、後を……」
「菫が、ナタリーは俺を死ぬほど愛してるって言ったんじゃねーか……。でも、そうか……」

 続くであろう伊達の言葉が想像できなかったが、それが想像できないからこそ恐ろしくて、菫は俯いた。

「ん? おい、言っとくが、菫がなんで俺が事故に遭うかって知ってるかとか、問い詰める気はないぜ?」
「え?」
「助けてもらったってのは、分かるからな。そんな暗い雰囲気出してくれるなよ」

 菫は勢いよく顔を上げる。自分でも理由もわからないまま、無意識に責めの言葉を掛けられると菫は思っていた。伊達は菫の顔から、自分は何かを勘違いさせていると気付いたようだ。続きは幾分か柔らかい声だった。

「俺は怒ってる訳じゃないぜ? ナタリーまで助けてくれたんだ。本当に感謝してるよ。何でそんなに悲愴な顔をしてるのかが、分かんねーな? 何を悪いと思っているんだ、菫は」
「隠していた事……秘密にしていた事……でしょうか?」
「むしろ、正直に言われたところで、信じてやれたかは分からねーぞ。別にいいんじゃないか? それに誰にでも秘密はあるだろ。俺だって一つや二つ、あるぜ?」
「伊達さん……」

 隠し事をしていたという後ろめたさが、伊達の言葉によって菫の中からゆっくりとだが消える。

「今まで黙っていたって事は知られたくないんだろ? そういう事なら誰にも言わねーから安心しな。それに菫を泣かせたなんて、あの二人に知れるとあとが怖いんだよな……」
「……あの、伊達さんは何をもって確信したんでしょうか? 私の、秘密に……」

 伊達からの肯定的な、気安げな態度に安心したためだろう。菫はつい疑問が口に出た。いくら伊達でも、菫の秘めていた事へ辿り着くには情報が足りない筈だと思ったからだ。

「私が尾行してた事とタクシーチケットだけで、そこまで――私が伊達さんが事故に遭う事を知っていたなんて、分かるものなんですか?」
「流石にそれだけじゃ無理だな。今まで見聞きした事と、今日の俺の経験を踏まえて、気付いたって感じだ」
「今まで見聞きした事?」

 自分はそんなに分かりやすい言動をしていたのかと、菫は一瞬顔を歪ませた。それを見逃さなかった伊達は首を振る。

「おっと、違うぞ。意味ありげな、そんな分かりやすい言葉とかはなかったぜ? ただ菫、お前気付いてたか? 自分がどんな顔をしていたか」
「? いえ……」
「昔からだぜ? 俺達を泣きそうな目で見てた。悲しそうだったよ。俺達が……ゼロとヒロ、萩原や松田を合わせた5人が一緒にいる時は、特にだ」

 菫は困ったように首を傾げる。自分の彼ら5人への認識を思えば、覚えがあるような、ないような、菫には戸惑う情報だ。正直、伊達の言う通りならば、菫自身としては無自覚であった。

「そう、でしたか?」
「ああ。自分じゃ分からないかもな。でも俺はよく見かけたぞ。最初は幼馴染の2人を、俺たち3人の新しい男友達に取られた、なんて思っているのかと思ったが、違うよな?」
「私、みんな仲良くて、羨ましくて、嫉妬……してましたよ?」
「はは。そりゃ、悪かったな。でも……やっぱり違うな。悲しそうに切なそうに見てたのは、ゼロやヒロだけじゃない。萩原や松田と俺にまでそんな顔を向けてたんだぜ? 他の奴らも気付いてるぞ、きっと」
「……」

 何となくバツが悪い。菫は今度こそ言い訳ができなかった。沈黙でもって答えた。

「何でだろうなって思ってた。それが前から心に引っかかってた。でもその後、萩原の話を聞いたんだ」
「研二さん?」
「おお。5、6年前か? あいつ爆弾の爆発に巻き込まれたろ。その時、変な話をしてたぜ。詳しくはよく知らんが、要はその事件で菫に借りができたって話だったな」

 爆発事件で九死に一生を得たという話と菫との組み合わせが奇妙で、意味もよく分からなかったそうだ。ただ、その時の話だけでは伊達も何とも思わなかったらしい。

「そしたら今度は松田だ。こっちは2、3年前かね? やっぱり爆弾事件があってすぐの頃だ。松田が複雑そうな顔しててよ? 聞きゃあ、こいつも事件の時に菫に借りが出来ちまったって言うんだよ。こいつら揃いも揃って、事件の最中に菫に借りを作るって何があったんだって不思議だった。でも今の今までは、その程度の認識だった」

 萩原の菫への借りの話は正確ではなかった。あれはヴィオレの貸しの分を、菫が代わって受け取る事になっただけにすぎない。しかし、伊達からすれば萩原は菫に借りがあるらしいというのが、判然とした情報なのだろう。
 また松田の菫に対して借りがあるという話も、菫からすれば初耳だった。

「そして今日、俺も菫に借りが出来たなって思った直後に、ピンときた訳だ。あいつらの借りってこれの事か……ってな」

 つい先程の伊達自身に起きた事を付け加えて考えれば、あとはもう芋づる式だったようだ。

「あぁ、俺達は命を助けられたのかって思ったんだよ。助けられたって事は、菫は知っていたって事だ。そしたら、菫がいつも泣きそうだったのも、未来を……俺達が死ぬ未来を知ってるからだったのかって、分かった。だから菫は悲しそうなのかって、全部繋がったんだよ」

 連想ゲームみたいなもんだった、と伊達は言った。
 零をはじめとする彼らが共にいる時の菫の様子や、萩原や松田の話。それらが伊達の中で積み重なっていた折の今回の事件が、真実に導いたのである。そして、伊達は少し躊躇った様子で、菫に問い掛けてきた。

「菫はゼロとヒロも、泣きそうに見てたよな? なぁ……あいつらは、今も無事か?」

 安否の知れない二人の生存を、伊達が気にかけるのも不思議ではなかった。
 詳しくは説明できないが、菫はその答えを知っている。

「それは……はい。零くんもヒロくんも、今は……無事です」
「そうか……。なら良かった。菫が何かしたんだろ。ありがとな」
「いえ、私は何も……。それに……もう、私、分からないんです。この先、みんながどうなるか、分からない」

 はからずして自分の秘め事が知られた菫は、思わず零してしまった。自分の中から溢れんばかりの不安を。自分の秘密を知った人、そして事の当事者である伊達へ、菫は消えない恐怖を吐露してしまった。



 * * *



「伊達さんが最後だったんです。私が分かる未来は。だから、無理なんです。もう、分からなくなっちゃった……」

 菫は途方に暮れた顔をしていた。

「分からないって事は、つまりどういう事だ? その……菫のその予知能力――みたいなものが、なくなったって事か?」

 この世界が物語で描かれているなどとは知らない伊達からすれば、菫の未来を知る力は予知能力に見えるのだろう。そして、その能力を菫は失ったのかと聞いてきた。

(この世界に来たのを最後に、私はこの世界の物語は見れなくなった。あのコナン君が関わるだろう事件なら、少しは分かる。でも、零くん達の未来はもう分からない)

 ただ、菫はそこを詳らかにするつもりはなかったので、曖昧に頷きながら未来が分からなくなった、とだけ答える。
 伊達は少し考え込み、そして首を振った。

「便利な力がなくなった事は残念かもしれんが、だが菫は俺たちを助けるために色々してくれてたんだろ? その力を存分に活用したって事だよな? もう十分じゃないか? 何が問題だ?」
「でも、また皆、死んでしまうような事件や事故に、巻き込まれるかもしれない……」
「あのな菫。いつ死ぬか分からないとか、そんな先が見えない不安ってのは、人間誰でも持ってるもんだ。菫はなまじその力があったから、その不安に直面する事がなかったんだろうけどな?」

 そんな事はない、と菫は思う。菫も知っていた。以前はそうやって生きていたのだから。ぼんやりとした不安を抱えて生きていたのだ。それでも生きていけた。だが、それは遠い昔の事だ。

 菫はこの世界に根差すようになって、ある意味、自分には過ぎた力――この世界の知識が、いわば与えられていた状態だった。この知識を利用し、駆使して菫は生きてきた。慣れてしまっていた。
 生まれながらにして健常な人間に目が見えるよう、耳が聞こえるよう、当たり前の能力だと勘違いしてしまっていたのだ。だからである。その感覚からいえば、菫は元からあったものを失ったという感覚が捨てきれない。

(今まで見えていたのに、それが見えなくなってしまった。見えていた私は見える事の便利さを知っている。その便利さと重要さ――その価値が、見えなくなっても嫌なくらい分かってしまう)

 知らないままならば、ここまで恐れなかった。もし前の世界のように、未来で何が起こるかなど知らずに過ごせていたら、この不安はもっと小さかっただろう。

「確かに私は今まで、未来を知るという大きなメリットを享受してきました。だから今その反動で、知らずにいられたデメリットに……伊達さんの言う不安に直面してるんでしょうね」
「今は怖いかもしれないが、気にしすぎなんだよ。菫は初めて知るその不安を、過大に恐れてるんだと思うぜ? その不安は共存できるものの筈だ。大丈夫だ、当たり前の物なんだよ。みんな、そうやって生きてる……そりゃ、菫に助けられて、今ここにいる俺が言えた事じゃないがな」

 自分の言葉に説得力を感じなかったのか、伊達が少し困ったような表情を浮かべた。だが、菫の不安は結局、その一点に帰結する。

 未来が分からない。
 彼らに訪れる危険が分からない。
 危険を防げない……彼らが死んでしまうかもしれない。

「でも私は、皆がいなくなってしまうのが、怖い」

 それに尽きた。伊達の事故を過去のものとした瞬間から、菫の頭はそれだけで占められている。しかし菫のその一言で、伊達の合点がいったようだ。

「あぁ……やっと分かった。菫が何をそんなに気に掛けてるかが。要はゼロやヒロを基本に俺達が心配なのか。菫の不安の大本はそれか」

 自分の事が不安なんじゃないんだな、と苦笑した上で、伊達は菫に諭すように言う。

「まぁ、その心配は尽きねぇかもしれない、としか言えんわな。俺達は警官だからなぁ……」
「はい、分かってます。みんな、仕事を誇りに思ってる事も、知ってます……」
「あぁ。だけど菫。まず根本的に俺は助けられた命を無駄にはしないぜ? 偶然助かった訳じゃない、菫に助けられたと分かるからこそ、余計に無駄にできないってそう思ってる。それは皆――菫が助けてきたやつら全員が同じ気持ちだろうよ」

 伊達は菫をしっかり見つめながら続ける。

「慣れないその不安と付き合うのは大変かもしれないが、菫。お前は一人じゃないだろ? お前が助けたやつらがいるだろ? 不安でどうしようもない時は、みんなを頼れ。もちろん俺もだ。菫は俺達が危なっかしくて不安なんだろう? それなら菫だけが抱え込む事じゃない。何せ俺達は菫に助けられたんだからな」

 お前の不安に付き合う義務がある、と伊達は笑って言う。

「!! っぅ……」

 それに菫は泣きたくなった。頼れる人がいて、きっと助けてくれるだろう事が嬉しくて泣きたかった。
 暗闇で一人、彷徨わなければならないと思っていた。そして忘れていた。周囲に助けを求める事を。

(そうだ。この世界に来たばかりの頃。零くんと出会って、不安になった時、ヴィオレさん達にも言われたんだ。頼れって……)

 伊達の言葉が、一人じゃないと思い出させてくれた。頼っても良いと言われた事で、菫は目から鱗が落ちた思いだった。自分の目は相当曇っていたようだと菫は思う。
 さらに伊達は菫の変化に気付いていないのかは定かでないが、菫をとても奮起させる言葉を口にした。

「安心しろ。菫のためにみんな動く。助けるのを躊躇するやつは、俺達の中にはいない。分かってるだろ?」
「っ!」

 自分を助けてくれる事に躊躇しないなどと、言ってもらえるとは菫は思っていなかった。それは昔、菫が願った事だ。
 大切な人のためならば、命を投げ出せるほどの絆を築きたいと願っていた。
 願わくば、相手にも同様に思ってもらえれば、それだけで幸せだと憧れた関係だ。

 だが、自分はいつの間にか、そんな関係を彼らと築けていたのだろうかと菫の胸は高鳴った。

(助けてくれる人はいる。きっと助けてくれる。確かに今、私はそう思える。それを……忘れて、私ったら一人で落ち込んでたんだ……)

 気分が向上してくるにつれて、何もかも大げさに捉え過ぎたのかもしれないと、まるで悲劇のヒロインのようだった自分自身を振り返って、羞恥に悶えそうになる。
 だが、それもいずれ笑い話になるだろうと、菫には思えた。

「……そうですよね。みんな優しいのを忘れてました。みんなはきっと、私がどうしようもない時、手を差し伸べてくれる人たちでした。それを忘れて、ただ盲目的に怖がってたみたいです」
「それが分かれば問題ねーよ。菫は考えすぎる性質なんだろうな。もっと単純に考えればいい。意外と世界はな、単純に回ってるもんだ。気楽にやりな」
「はい。あの、伊達さん。ごめんなさい。私、落ち込み過ぎてたみたい」

 気付けた事で、不安はかなり鳴りを潜めていた。もちろん全くなくなったとは言えない。それでも、普通に暮らす上で感じる程度のぼんやりとした不安にまで縮小している。

「もう、大丈夫か?」

 伊達の最後の質問に、菫は頷く。もう大丈夫です、との言葉と共に、照れたように笑って見せた。



 * * *



 それから程なくしてパトカーが到着するのが、コンビニ傍にいた菫と伊達にも見えた。早朝という事もあり、サイレンは鳴らしていない。
 遠目に、事故現場に待機していた高木がパトカーの担当警官に接触しているのも見える。事情を説明しているようだ。
 すると、伊達が菫に確認をしてきた。

「そういや、どうする菫? タクシーを呼んで、もう帰るか? 事故の目撃証言なら高木と俺で十分だしな。菫は帰っても問題ないぞ」
「……いえ。この際、最後まで付き合います。伊達さんが危ない事しないか、見張りますよ」
「いやぁ、もうしねぇぜ? あとは帰庁するだけだしな」

 菫はそれに首を振った。恐らくもう終わった筈だと思うのだが、やはりまだ事故が怖い。もう少し、せめて朝を迎えるまでは傍で様子を見ていたかった。

「現に今日、危なかったですよね。疲れてフラフラしてましたもの。だから車に気付くのも、反応するの遅れちゃったんです」
「いやなとこ突くな。手厳しいぜ、菫はよぉ。ま、分かった分かった、気を付けるさ」

 まるでじゃれつく子猫を優しくいなすような、兄が妹をからかうような口ぶりだ。
 精神年齢的には自分の方が年上の筈だと菫は思う。また、実際は同い年であるにもかかわらず、菫は伊達に年下のようにあしらわれた。
 それが菫には悪い気はしなかったが、あまり伊達が堪えてない様子に、それとこれとは別だとも思う。これはしっかりお灸をすえてもらう必要があると、菫は伊達に最も効果のある言葉を口にした。

「……今日の事はナタリーさんに伝えますからね。伊達さんが車に轢かれそうになってた! って」
「げ! やめろ。それはやめてくれ……」
「ダメです。ナタリーさんに怒られて、しっかり反省してください。そして、ナタリーさんにしっかり体調管理されてください」
「結婚前なのに、今から頭が上がらなくなるようなネタ、ナタリーに提供しないでくれ」
「伊達さんはナタリーさんの手の上で、コロコロ転がされているのがいいと思います」

 苦い顔を浮かべている伊達を、今度は菫が軽くいなしてやり返す。思わず笑みが零れた。空が白んで明るくなってきている。もう悲しい事など起こらない、そんな朝がそこまで来ていた。



うちの救済話は本当に単純展開で……。管理人の頭もお察し。でもいいの。生きてる彼らが見たいんです!


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