▼ #徹夜明けの刑事 #01
工藤少年がコナン少年になってしまう原作が始まるまで、残り一年という時期だった。一人だけの部屋で、机を前に座りながら菫は古ぼけたノートを眺めていた。
「伊達さんの事故が、もうすぐ起きる……」
菫にとって現在、零の友人である伊達航が何よりも心配の種だった。
何度も繰り返し確認した情報を、菫は再度口に出して確かめる。
「伊達さんの事故は7日の朝。そしてナタリーさんも自殺」
そう、今はまさに伊達とナタリーの死期が差し迫っていた。それを防がねばならない。当事者ではないが先を知る故に、菫は非常に胃の痛い日々を送っていた。失敗しないだろうかという不安が、ここしばらく消えてくれないのだ。
それでも菫の胃痛をよそに時は流れ、本日は2月6日の夕方である。現時点では伊達は怪我などなく健康そのものだ。そして本格的に気を抜けない正念場を迎えつつある――というのが現状であった。
「あぁ……伊達さんの事故の場所が分からないのが、辛すぎる」
いつ起こるか、どこで起こるか分からず、じりじりと待つ時間の苦しさはなかなかのものだ。菫はここ一ヶ月で大幅に体重が減少していた。
「これが最後なの。そうすれば皆生き残る。研二さんも、陣平さんも、ヒロくんだって助かった」
自分に言い聞かせるような菫のその声はとても弱々しい。
菫は机に肘をつき、組んだ手の上に額を押し当て、まるで祈るように願うように声を絞り出す。
「あとは伊達さんだけ。大丈夫。今回も成功する……。事故現場にさえ居合わせられれば、私だって身体を張って助けられる筈」
久しぶりの原作介入で、ナーバスになっていた。菫が今できる事と言えば人力による捜査のみだ。その瞬間まで伊達を追いかけるしか方法はなく、しかもその瞬間に居合わせなければ何も始まらない。
(基本的に高木刑事とペアになって伊達さんは行動している)
伊達の事故は徹夜明けの朝方だと分かっていた。そのため、菫はここ最近夜型生活だ。とある人からの情報により、伊達の動向はかなり正確に把握できている。そしてそれを元に伊達が外出する際には、菫も気付かれぬよう密かに帯同していた。
(刑事二人を尾行なんて荷が重いって思ってたけど、人間切羽詰まれば何とかできるものなのね……)
7日に事が起こるとは分かっているが、菫は素人なのだ。当日にぶっつけ本番で伊達達を追い掛け続ける自信はない。二人組の刑事の尾行には事前の訓練が必要だった。取りあえずはまかれてしまう事もなく、当日も訓練の成果があると思いたい。
大きく息を吐いて顔を上げた菫は、空元気であるが明るめの声を上げる。
「今後は特に情報の精度が大事だよね! そこで、頼みの綱……ナタリーさん経由で情報収集だ!」
そう、とある情報源は伊達の恋人、ナタリーである。2月7日、彼女は伊達の死に絶望して自殺を選ぶほどの女性だ。伊達への恋情、愛情は相当なものである。恋人の訪れをカレンダーに書き込む事からもそれは分かる。またこの悲劇の直近では毎日のように顔を合わせていた事から、恐らくだが伊達の勤務状況を一番把握できる人だ。
菫はこの状況となっても、伊達には知人の域を出ない範囲でしか今回は連絡を取っていない。また、今後もするつもりもなかった。
何故なら恋人のナタリーを差し置いて、過剰に伊達へと接触や交流をする事が、菫の倫理観的に躊躇われたのだ。今回は伊達の命が関わるため、菫は自分が通常にはない無遠慮さを見せてしまうかもしれないと、特に自重している。
「もちろん、切羽詰まったら伊達さんに直に電話してでも、今回の件は防ぎたいけど……」
だが、数少ない女性の友人でもあるナタリーの反感を買ってしまうのは、菫としてもやはり避けたい。そもそも警察官の伊達から職務に関わる情報を得る事はかなり難しいだろう。いつ、どこで徹夜で張り込みをする……などの情報は期待できなかった。やはり伊達にこの件で連絡するのは得策ではない。
「でもその反面ナタリーさんへの連絡が急増しているのがなぁ……。心配で1月に入ってから連絡が増えた事、訝しがられてないといいんだけど……。もし伊達さんを助けられたとしても、ナタリーさんに今回の事で迷惑がられて、縁を切られちゃったらどうしよう……」
菫はその自分の心配が、二人に幸せが訪れた後の――命があってはじめて生じる心配だとは分かっていた。
それでも、もし二人の未来が生まれるならば、その心配が現実のものになってしまっても構わないと思う。それでも自分は嬉しいからだ。生きていてくれれば、それで十分なのだ。
菫は一つ息を吸い込むと、定期的に連絡を取っているナタリーへ様子窺いのために、スマホへと手を伸ばした。
* * *
「7日の明日でしたよね? 伊達さんがナタリーさんのご両親に、挨拶されに行く日は」
零と景光の幼馴染という立場から、伊達とは以前から交流があった。
さらにその後、その恋人とも知り合えた事は、僥倖だ。菫が今回やろうとしている事には非常に助けになった。
「そうよ、菫さん。航がご両親と北海道までわざわざ来てくれるの!」
普段よりも明るい、そしてとても嬉しそうなナタリーの声が菫の手元の機械から聞こえてくる。
「恋人が両親に挨拶に来てくれるって、女性の夢ですよねぇ。そういえば結婚の日取りは決まりました?」
「うふふ。まだ何も決まってなくて……。でも私の実家で、親も交えて詳しく決めようって、航と話してたの」
「決まったら教えてくださいね? でも本当におめでとうございます」
知らない振りで、なるべく平静を装ったが、菫はナタリーと話している最中から、血の気が引くような感覚を覚えていた。
分かってはいたが、自分の知る未来と同じように時は流れている。
ナタリーの話は喜ばしいものであった。二人は今後結婚するだろう。このまま、何もなければ……。
だが何もしなければ、失敗すれば、一組の恋人たちが不幸になる紙一重の話でもある。
「菫さん、ありがとう。でも航ったら、急に連休を申請したみたいで、最近そのしわ寄せで忙しそうなの! 夜にしか会えないのよ?」
そう言いながらも、ナタリーは本気で怒っている様子ではない。本当に幸せそうな声だった。
だがナタリーは自殺してしまう。恋人の死に絶望して――。
菫は胃の痛みが増したのを感じながら、もう少し詳しい事が聞けるよう、何気なくナタリーに尋ねた。
「でも今日伊達さんが帰宅したら、北海道から帰ってくるまで一緒じゃないですか?」
「ええ、その筈だったんだけどね。それが航ったら、今日は徹夜で張り込みになるみたいなの」
菫はヒュッと息をのんだ。あぁやっぱり……と一種の諦めの気持ちが浮かぶ。世界はどうあってもその未来へと導こうとする。
「さっき連絡があってね。明日の約束の時間までには絶対帰るって言ってたけど、フライトの時間に遅れちゃわないかしら……。あ、でも一度食事に戻ってきてくれるから、夕食の準備をしていたところよ」
「……あ、それじゃ準備のお邪魔ですよね。ごめんなさい」
「ううん、いいのよ。あとは航が帰ってきたら温めるだけだから。それでね、菫さん、お土産に何か欲しいものある?」
「え、お二人の門出の帰省みたいなものですよね? お土産なんてそんなのいいですよ! それに、夕食の準備をしていたなら、伊達さんもそろそろ帰って来るんじゃないですか? もう切りますね」
「そう? お土産は皆に買う予定だから気にしないで。そんな大げさじゃない物買ってくるから、受け取ってね? それじゃ、こっちに帰ってきたら連絡するわ。菫さん、またね」
「はい、ナタリーさん、また……」
そう言って菫は通話を終了した。次にまた連絡すると約束をして。
菫は大きく息を吐く。短い会話だったが、普段通りに振る舞うのにとてつもなく精神力を要した。これだけの事に予想以上に疲労した。だが、菫にはこれからする事が待っている。
「……私、動いても良いよね?」
ふとした時に、菫がどうしても感じるのは罪悪感だった。
これは絶対に悪い事ではないとそう思うのに、彼らを助ける度に、それを重ねるほどに、その思いが強くなってきている。
変えていいのか? と事あるごとに自問した。自分がそんな事をしていいのか? と菫は思う。
自分は大それた事をしているのではないか、と居た堪れなさを覚える。
そして、その結果の先が望んだ幸せな世界になるのか、どうしようもなく不安だった。
「でも、動かないと。皆、いなくなっちゃう。…………早く、準備しないと――」
まるで幽鬼のように菫はノロノロと動き出した。
伊達はこれからナタリーの自宅に一時帰宅するようだ。それならば警視庁前で張り込むより、自宅前からついて行く方が確実だ。
菫は身軽に動ける格好へ、どこか物憂げに着替え始めるのだった。
* * *
(そろそろ伊達さんと高木刑事、帰りそうな雰囲気かな?)
まだ辺りは暗い。時間にすると、夜が明けるには早い午前4時を過ぎた頃だった。
張り込みという事で基本、移動が少なかったのが功を奏し、菫は二人の刑事を見失う事なく、何とか監視が出来ていた。
(原作通りだと、確か張り込んでいた詐欺師を捕まえたすぐ後に、交通事故に遭っていたって言ってた。タイミングは今だ!)
詐欺師らしい男の捕り物があり、その男が制服警官に連れて行かれたのを見送ると、菫はもう今動くしかない、と思った。最高潮に緊張が走る。
行き当たりばったりの計画ではあるが、菫に出来るのは成り行きに任せる他ない。足を踏み出し、遠くにいる二人に駆け寄った。
「っ……あ、あの……そこにいるの、伊達さんじゃないですか?」
「ん? ……おー菫か? 久しぶりだな! 元気にしてたか? でも何でここに?」
「元気ですよ。伊達さんもお変わりないようですね。今日は夜から友人と会っていたんですけど、盛り上がり過ぎちゃって……。帰りがこんなに遅くなってしまいました。伊達さんは……お仕事中でしたか?」
「おぅ、ちょうど今から帰る所だよ」
若干引け腰だったが、自然と菫は件の二人に近づく事ができた。ひとまず内心、第一関門をクリアしたと菫は安堵する。だがすぐに、気を取り直した。
(もういつ事故が起きておかしくない! 気を抜いちゃだめだ)
菫はキョロキョロと周囲を見回す。今はまだ車の影はない。まだまだ人の寝静まる時間帯のため、菫たち以外の人の気配もなかった。しばらくこの二人と離れずに済むよう、菫はもう一人の男性、高木刑事に水を向けた。
「こんばんは。伊達さんの部下の方ですか?」
「は、はい! 伊達さんには教育係をしてもらって、お世話になっています。高木です」
律儀に頭を下げる高木に、菫もそれにならって頭を下げる。
「ご丁寧にありがとうございます。鳳です。伊達さんとは……私の幼馴染たちが、伊達さんと同期なんですよ。その縁で知り合いに」
「え、伊達さんの同期ですか?」
「おぉ、そういや高木には前に話したろ? 優男の一度も敵わなかった男がいるって。そいつだよ。あと同期が他にもう一人。やっぱりこの菫の幼馴染の男がなんだがな、そいつも優秀だったぜ」
「そうなんですか……伊達さんがそういうなんて、すごい人達なんでしょうね?」
「あぁ……」
高木の言葉に触発されたのか、伊達は音信不通の二人について言及してきた。
「そういや……どうだ? 最近あいつらと連絡、取れているか?」
「いえ……。伊達さんも二人から音沙汰なしですか?」
「だな……」
「便りがないのは元気な証拠……だと、良いんですけど」
黒ずくめの組織に潜入が決まった頃だろう。零と景光に連絡をしても返信が全くなくなった。携帯の回線契約を解約している訳ではなかったようで、相手にメールや着信は届いていたようだが、見てくれているだろうかと菫も不安になったものだ。
「あー……男はメールの返信とか、なおざりなのが多いからな? あの二人だってそうだ。あまり気にするなよ? きっと元気にしてるさ。そのうち連絡してくる」
幼馴染の安否が知れない菫に、伊達はバツが悪そうな表情を浮かべている。だが友人だからであろう、伊達はその二人をフォローする言葉も掛けてきた。
「ありがとうございます。……すみません」
「菫が謝る事じゃないだろ?」
今度は菫が困ったような曖昧な表情を浮かべた。
(伊達さん、ごめんなさい。本当の事が言えなくて……)
菫に幼馴染たちから連絡がないというのは、嘘であった。
* * *
(ただ、ヒロくんが助かったっていうのは、本人がわざわざ顔を出してくれたから、私でも分かったんだよね……)
確かに一時期、菫は零と景光と全く連絡が取れない期間があった。しかもヴィオレ達が率いる魔術師協会の対策チームでも、その消息を掴めなくなったものだから菫は血相を変えた。外部に頼りすぎていた事も、過信していた事も、その時菫は思い知る。
そして最悪の結果を想像しながら時間を過ごすにつれ、酷いストレスが菫の身体を蝕んだ。体調を崩した菫を心配して、イギリスに拠点を移していたヴィオレとノアが来日するほどだった。
ああすればよかった、こうしていればよかった……と、菫が来る日も来る日も後悔に苛まれていた時だ。
予想外の事が起きたのである。全く菫の知らない未来だった。ひょっこりと、景光が菫の前に現れたのだ。
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「菫ちゃん、ごめん。これ……元の形のまま返せなくなったんだ」
申し訳なさそうにそう言った景光の大きな手の上には、銃の弾丸がめり込んだままの、菫の渡した紫の石のペンダントが乗っていた。
それだけで、菫は何があったのかを悟る。助かったのだと思った。
あの運命は実現せず、新たな未来を進んでいるのだと、目の前が拓けるようだった。
その時、菫は思わず目の前の景光に抱き着いてしまう。だが菫の身体は小刻みに震え、容易に泣いている事を相手には伝えた。
「ヒロくん……ヒロくん……うぅ〜……」
「わ、菫ちゃん……って泣いてる? というか泣かせた!? ごめん、菫ちゃん! 俺が悪かった!!」
菫の泣いている理由を誤解した景光が、焦った様子で菫の頭や肩、背中を撫でて宥めにかかる。
しかし、菫の涙はすぐには止まりそうもない。滅多に泣かないというより、幼馴染の泣くところを初めて見た景光には、涙の止め方など思いつきもしなかった。
「ごめん! 代わりの物用意するよ。それに何でも菫ちゃんの言う事を聞くから! だから許してくれないか?」
まるで、小さな女の子の持ち物を壊してしまった小さな男の子が一生懸命に謝るような、そんな光景だった。
そしてその後――だいぶ時間が経過した後――だったが、落ち着きを取り戻した菫は、景光から公安についての説明を受ける事になる。
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結局、菫は公安の協力者となる事が決定した。スコッチこと景光はノックだとばれ、その死を偽装されている。潜伏生活を余儀なくされたのだ。景光は表立った行動が一切できずに、今では公安の裏方の仕事に徹している。そのフォローが協力者としての主な仕事だ。
それに伴い、菫は零とも交流が復活していた。
しかし、この件で――菫のペンダントの奇跡的な働きは別として、介入は一切できなかった件で、ヴィオレ達の不思議な力に頼り過ぎていた事を菫は痛感した。
そして肝心の問題が起こったその時、菫は全くその事を知らずにいた事に、肝を冷やした。また大いに反省した。
萩原たちの関わる爆弾処理の事件が上手くいっていた事で、菫に慢心を招いてたようだ。
本当にその未来を望まないのならば、その未来を変えたいならば、その場に居合わせなければいけなかったのだ。そうしなければ変えよう筈もない。
致命的な結果にはならなかったが、その件で菫は学習した。そのため最後の介入になるであろう今回も、自らの足で伊達を追っているのだった。比較的介入への難易度が低いと思われる事も、菫の後押しをした。
「……もし二人から連絡があったら、伊達さんも心配してたって伝えておきますね?」
「おー、連絡があったら、次に会った時に殴るって、伝えておいてくれ」
伊達の言葉に菫は笑いながら頷き、そして次なる行動を起こした。自然に誘い、自然にそれを了承してもらわなければならないのだ。
「あ、そうだ、お二人とも、これから帰るのって警視庁の方ですか? それとも直帰です?」
「報告がありますので、警視庁に戻ります」
「おぅ……そうなんだよ。それにしても、今日は疲れたぜ。徹夜だったしよぉ」
高木の返答のあと、首をゴキゴキと鳴らしながら心なしか疲れたような声で伊達が肯定した。
「日々の平和のために、警察の方には日夜お世話になっていますね。お二人共、お疲れさまです」
「わわ、とんでもありません……!」
「はは、ありがとよ。でも、これから報告用の書類作りか……。いつ帰れるものやら。今日ばっかりは辛いわ。夜には大事な用があるし、早く帰りてーぜ……」
照れたような高木の言葉のあとに、伊達が帰宅したいとぼやく。それが、菫の望む展開に無理なく繋がりそうな流れであったため、やや食いつくように菫が声を上げる。
「あの! それなら、タクシーに相乗りしませんか? お二人とも移動手段は車じゃ……ないですよね?」
「あ、あぁ、今日はここまで電車だ」
「じゃあ、まだ始発も動いてませんよね? タクシー乗りましょ? 実は期限が切れそうなタクシーチケット、こんなに一杯あるんですよ?」
菫は、ほら……とカバンからタクシー券の束を見せる。期限ももちろん言葉の通りだ。
「お二人ともお疲れのようですし、ちょうど良いです。ここで消費させてください」
「……伊達さん?」
「うーん、そうだな……」
高木が、どうしますか? というような窺いの視線を先輩である伊達に向けると、伊達も一瞬考え込んだ。
「こんなに余ってて困ってたんです。このままだと無駄になりますし、勿体ないでしょう? それにお二人とも早く警視庁に戻れますよ?」
少し離れた先にあるコンビニを指差しながら、菫はさらに続けた。
「ちょうどそこのコンビニを目印に、タクシーを呼ぼうと思っていたんですよ。少しお待たせすると思うんですけど、待ち時間をお付き合いしてくれませんか?」
「そうか……それなら、菫の言葉に甘えるか。なぁ? 高木?」
「はい! 鳳さん、お世話になります!」
「いえいえ。それじゃ、早く明るい所に行きましょう? ここ暗くてちょっと危ないですし……」
二人の返事に、菫は満面の笑みを浮かべる。そして目的地に促すように菫は二人の男の背を押したのだった。
* * *
菫は伊達と高木の後ろを歩くような位置に付き、辺りを見回した。薄暗い路上に今は危険は感じ取れない。
(このまま、なんとかなるかな……?)
タクシーが来るまでコンビニ内で時間を潰し、そして車に乗っての帰還だ。居眠り運転の車との遭遇は避けられるのではないかと思われた。
コンビニまであとわずかな距離だった。何とかなる筈だと、菫が少し気を緩めた時である。
「そう言えば伊達さん。さっき大事な用事があるって言ってましたけど、今日は何かあるんですか?」
高木が菫にとっては禁忌に近いような言葉を発した。
事情を知る菫からすれば、その質問はあの手帳が引き合いに出される事が容易に想像できた。
「あー……実はな」
「!? だ、伊達さん、あ、あの……」
「お? なんだ、もしかして菫はあいつから聞いてるか?」
「は、はい……」
やはり伊達の話題はそれだったようだ。軽く振り返り菫に向けて、伊達は少し照れ臭そうに笑った。青褪めた菫には気付かない。それを見ていた高木は、伊達と菫だけに通じている話に首を傾げる。
「? 何なんですか? お二人とも?」
「あ、悪りぃ、高木。だがお前も、いずれ通る道だろうしなぁ。ちょっと見せてやるよ……」
隣を歩く高木に伊達は胸のポケットから何かを取り出し、見せようとしている。
「これなんだけどよ」
「何ですか?」
暗くてよく見えなかったらしい。高木は伊達の手元を覗き込むため、頭を寄せた。そのタイミングが非常に悪かった。伊達の腕に高木の身体が当たり、伊達の手からは手帳が零れ落ちてしまう。
驚くほど、流れるような風景だった。
「あぁ! すいません!」
「良いって事よ。ん〜どこに落ちた?」
突然の、まるであるべき姿だとでもいうように、自分の知る未来を想起させる出来事が目の前で繰り広げられ、菫は動けなかった。
車の前に飛び出してしまった猫が固まってしまうような、そんな反応だった。菫はその光景をただ見つめていた。
落とした物は大切な物なのだろう。伊達はキョロキョロと目を細めながら、下……地面だけを見回している。
「お、ここにあったか……」
ついに、路上に落ちた手帳を伊達は見つけた。何の警戒もなくそれに近づいて行く。そして、手帳を拾おうと伊達は腰を曲げ前かがみになると、他に気を留める事なく手を伸ばした。
「……っ?!」
その時だ。それを見て、菫はハッと我に返る。我に、返れた。
辺りを見回す暇などなかった。
「伊達さんっ!!」
菫はただ両手を伸ばし、伊達の身体を力いっぱい引く事しか頭になかった。
その一瞬後、ドンッ! という音が暗闇に響いたのだった。