彼の胸に額をくっつけて、落ちてくる寝息に耳を澄ませる。彼の力なく垂れた腕をそっと辿って、彼の手のひらに自分の手のひらを重ねて指を絡めると、そっと応えるように、彼は握り返した。
その瞬間だけは、愛されているような気がした。
その仕草は、何かを愛おしむように、感じるのだった。
ゆめか まぼろし
夜明け前に目が覚めて、ふと、海が見たくなった私は彼の腕を抜けて、皆を起こさないように1人で宿を出る。
海辺の街を抜けて、松林を通り抜けて海岸を探す。平べったく広がる砂浜の前で草履を脱いで浜辺へ降りると、ひんやりとした細かな砂が、私の体の重みを呑み込むように沈む。
藍に薄く白が溶けたような、朧に明るい空にはまだ月が浮かんでいる。浜へ寄せて返す波音と松の葉を撫でる風音に耳を澄ませて、波打ち際に爪先を伸ばしてみる。
「つめたい」
独り言を呟きながら、着物の裾をたくし上げて、一歩踏み出す。夏でもやっぱり朝の海、浸かったらさむいかな。当たり前のことを考えながら、欲に負けて少しずつ前へ進む。
膝まで浸かったところで、飛沫が捲っていた着物の裾に跳ねて濡れ、なんだか、もういいかという気持ちになって私は着物の裾から手を離す。着物が海水に浸かって水を吸い込みながらじわりとおちていく。抵抗が強くなって、急に動きにくくなる。
「そろそろ日の出かなぁ」
顔を上げて遥か遠くを見つめる。ぼんやりと明るくなる空が、ずっとずっと続く海の先で合わさって閉じる。
空も海も無限じゃなかった。いつか終わりにぶつかるところがあるはずだ。全部、ぜんぶ。たぶんそう。
海を掻き分けるように、手を伸ばす。
もう一歩踏み出すと、急に深くなったような気がした。膝上まで使って、もう一歩、踏み出すと、腿が海水に浸かる。手で水面を掻き分けて、もう一歩、足を踏み出そうとしたとき、バシャンと大きな音がして背中に冷たい海水が散って、私は驚いて振り返る。
「えっ?」
「は?」
振り返った私の肩を掴む男の手の力の強さに動揺しつつ、見上げた先の、青白い空のせいか、いつもよりずっと顔色が悪そうな尾形さんの顔に、私は二度、驚いてしまう。
「尾形さ…」
「お前、なにやってんだよ」
起こしてしまいましたか?と聞くと、そうじゃないだろ。と彼は言って私の手を引いて海を上がろうと浜の方へ引っ張る。私は少しだけ躊躇して、彼の腕を海の方へ引っ張る。
尾形さんは訝しげに眉を顰めて、立ち止まったものの、私の手を引っ張る力は緩めず、それ以上進めないように阻んだ。
私は尾形さんの顔から視線を外して海の先を見詰める。
「尾形さん、」
水平線の先が白くひかる。
少し大きな波が押し寄せて、私の身体にどすんとぶつかり、よろめく。私が思わず両手で海を掻いたので、腕を掴んでいた尾形さんの手が外れる。
足が取られてドボンと落ちる。
冷たい海水に呑まれてずるりと深いところに吸い込まれるように身体が沈んでいく。あ、溺れちゃう。足、急に届かないな、と思ったら急に怖くなった気がした。
もがく手を尾形さんが掴んで引き寄せ、私の身体を海の中で抱き上げる。私は水面から顔を出して思い切り息を吸う。
「ばか」
「びっくりした…」
私は尾形さんに抱っこされたまま、彼の首に腕を回してしがみついておく。なんとなく、また波に攫われて溺れてしまうような気がして。
「死のうとしてたわけじゃなさそうだな」
もしかして私のことを心配してきてくれたんですか?
と、言おうとして、野暮だと思ってやめた。現に、尾形さんが追いかけてきてくれてなかったら、死んでたかもしれない。死にたいなんて、毛頭思ってもいなかったけど、(死んでしまってもいいか、とは思っていたかもしれない)(なんでだろう)(いつか終わりが来るなら、いつだっていいような気がした)(今でも、明日でも、何年あとでも)
「尾形さん、ごめんなさい」
「今更なにを」
彼は浅瀬で私を下ろして、全身水浸しの重たい身体を引きずるように2人で浜に上がる。尾形さんまでびしょ濡れだ。
朝日が登りかけて背中に陽が射す。
「いやらしいな」
尾形さんはずぶ濡れで透ける私の着物を指差して言う。
彼は浜に投げてあった外套を拾い上げて砂を払って私に被せて前のボタンを全部留めた。少し大きい外套をすっぽりかぶった私は、なんだかちんちくりんのてるてる坊主のようだった。
「ありがとうございます」
「皆が起きる前に戻って着替えろ。何か聞かれても面倒くさい」
俺も誤解されたくない。と付け加えて、尾形さんはさっさと前を歩いて行ってしまう。ずぶ濡れの軍服、水を含んだ足跡と、纏わりつく砂。
彼の背中を追いかけて裸足のままあるいていく。
(2022.08.01/ゆめかまぼろし)
指の隙間をするりと抜けて溢れる残り香に。
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