ヒャクノスケ。士族出身の方かしらと私は彼の名前を初めて聞いた時に心に浮かんだ感情を思い返していた。きっと良い家柄の生まれで、待ち望まれて産まれた男児に違いない。この人は、私とは不釣り合いなひとだと私の脳は私の感情に止まれをかけた。けれど、私がどんなに拒んでも、彼は私が良いと言い、壊れるほど抱きしめてくれるのだった。私の両腕は彼の背中に回すことすら畏れ多く何も応えることがでぎすにただ身体の側面にぶらりと下がる。私は自分の親の顔さえ曖昧で本当の名前すら記憶にない。ここでしか生きていくことのできない、人間の肉体にたまたま宿っただけの空っぽの無価値な魂。
俺はお前がいい。何度目の言葉かもう分からない。私は心が苦しくなる。こんなにも私のことを愛そうと手を差し伸べて下さっているというのに、なぜ私は頷くことも離れることも出来ずにいるのだろう。中途半端に側に居座ることが一番彼にとって不利益なことではないのかと、感情と理性の狭間で揺れる。私も愛しています。そう言えればどれだけ救われるか、楽になれるか。私の側でずっと一生私だけを見ていてほしいと醜く澱む感情が渦を巻いて私を呑み込んでいく。夜の海の底へ引き摺り込むような、背筋が粟立つほど悍ましいその感情が口を突いて身体の外へ出ないように私は息をも止めて彼の胸に顔を埋める。
「どうしてもだめか?」
彼が苦々しく言葉にする。私は涙が溢れるままに頷いて今の今まで力の入らなかった両腕に何とか神経を通わせてそっと彼の腕に添える。私が返した初めての応えに百之助様は微かに笑い「愛してる」と言った。私は何度も頷き、私もです、と心の中で呟く。抱きしめる腕を緩めて百之助様は言う。私は彼の顔を見つめる。彼は、何にも憚られなければいいんだろ、と私の頬を撫でて初めて接吻をする。「待ってる」彼はそう言って笑いかけた。私は頷いて、必ず。と溢す。どんな苦しみも痛みも彼のためならきっと幸せだ。
(2022.06.12/溺れる簪)
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