枕元の携帯から着信音が響く。私はハッと飛び起きて煌々と光る画面を覗く。眩しくて思わず目を片方閉じてしまいながらも何とか文字を識別する。
「お、がた…えっ?尾形さん?」
見慣れない2文字に取るか取らないか一瞬迷ったけれど、あの人は普段電話なんか掛けてこないから、急な用事かもしれないし何かあったのかもしれないと、私は恐る恐る通話ボタンを指でなぞる。
「おい」
「…どうしたんですか?」
「うるせぇな。何してんだよ」
「えっ、あ、寝てましたけど…」
「っは、良いな、お前は寝てばっかりで」
なんだかいつもと様子の違う尾形さんに、私はなんと答えていいのやら、返答に詰まりながらも、嫌な予感が脳裏をよぎる。
(もしかして、酔っぱらっている…?)
「尾形さんは何してたんですか?」
「あ?客と飲んでたんだよ」
今更ながら時計に目をやると、午前3時を過ぎている。
尾形さんは電話の向こうでタクシーを止めていた。私は人通りも疎で静かな街の音と、タクシーに行き先を伝える尾形さんの声を黙って聞きながら、そういえば大事な商談が立て続けに入っていて休みも取れないと尾形さんが舌打ちしていたのを、不意に思い出してそのうちの一つが今日だったのかと、複雑な気持ちになる。尾形さんはとても優秀な先輩で仕事も良くできたから、なにかと大切な案件を任されがちで、休みも返上して働くということがしばしばあった。私は事務方なので、彼は直属の上司ではなかったけれど書類の整理や領収証の管理などで接することも多く、いつのまにかごく親しい先輩の1人になっていた。
「おい、起きてるか」
「はい、起きてますよ」
タクシーに乗り込んだ尾形さんが私に声を掛ける。私は返事をする。
尾形さんは、はぁ、と深くため息をついて、今何時だ?と聞くのでそのまま3時過ぎてますと伝えると、舌打ちして「クソ野郎」と呟いた。だいぶストレスが溜まっているのだろうと、私は黙って彼の愚痴らしいものを聞く。尾形さんの上司とかなり大きな会社の重役の接待をしたらしいのだけれど、重役が尾形さんのことをたいそう気に入り、二次会三次会と連れ回そうとするのを上司は止めることなく自分だけ適当な言い訳をつけて終電前に帰ってしまったようだった。尾形さんは一人で接待しながら勧められる酒を飲み、お偉いさんが気分良く帰るまでとことん付き合わされてしまったようだった。「あのエロ狸、風俗の手配までさせやがって」尾形さんはまた舌打ちをする。履歴が残るとまずいからと良く分からない理由で尾形さんの携帯から予約をしたものだから、女の子がホテルに到着するまで一緒に待ってないといけなかったと、余計な手間と時間取らせやがって、とまた悪態をつく。きっと今尾形さんは髪を後ろに撫で付けながら舌打ちをしてるんだろうと、彼の姿が目の裏に浮かぶ。
「お前」
「はい」
「会社の近くに住んでたよな」
「えっ…はい、歩いていけます」
「住所送れ」
「えっ?」
「俺んちまで帰ってたら明日の朝一のアポに間に合う気がしねぇ」
「…っ、と、泊めろってことですか?」
「なんだよ。嫌か?」
「いえっ、その…」
「なんもしねぇよ。風呂だけ貸してくれ」
「お部屋汚いですよ、あんまり期待しないでくださいね」
「もとからなんも期待してねえよ」
「ハイ…」
私は電話をスピーカーにして住所を彼に送る。それから部屋の電気をつけて見渡して、気持ち程度片づけなければと、目が急に冴えてしまう。尾形さんがタクシーの運転手さんに行き先変えてくれ、と私の家の住所を伝えるのが聞こえてくる。タクシーの運転手さんは感じのいい人で、そっちの方が近いしすぐですよと快諾していた。「あと10分程度で着くらしいから、また着いたら電話入れる」尾形さんはそう言ってプツリと電話を切ってしまう。私は10分?!と大慌てで部屋の片付けに右往左往することとなった。
机の上に散らばる化粧品をポーチに押し込み、飲みかけのお茶が入ったままのグラスをさげ、お菓子の包みをゴミ箱に捨てる。つくづく思うけれど、一人暮らしなんてこんなものだ。常に人が呼べる家にしておきなさいという雑誌の教えは三日坊主だった。トイレ掃除だけさっとして、玄関の靴を片付けたところで携帯が鳴る。電話を取ると「部屋番」とぶっきらぼうな尾形さんの声がした。私は部屋番号を教えてオートロックを解除して、玄関の鍵は開けておくので入ってきて大丈夫です、と伝えると、尾形さんは分かったと言って電話を切った。どうしよう、こういう時って部屋とかで待ってた方がいいのかな、玄関で待ってたらいいのかな、えっ、どうすればいいんだっけ、と、不慣れな私は部屋の中でまた行ったり来たりしてしまう。一人で気まずくなってテレビをつけて少しだけ音を大きくした。
ガチャ、と控えめな音がして人の足音がする。私はとりあえず部屋から玄関へ歩いて行くと、非常に気怠そうな顔をした尾形さんがそこにいた。
「よう、よく起きてたな」
「あ、っ、はい、狭いですけど、どうぞ」
「悪いな。助かった」
私はあたふたしながら尾形さんのカバンを預かってソファに乗せ、上着かけますか?とハンガーを手に彼に近寄る。尾形さんはごく自然にスーツのジャケットを私に預けて、首元のネクタイを緩める。
あれっ、えっと、これ、どこまで…預かったらいいんだっけ、と目が回りそうになりながら、尾形さんにネクタイを手渡され、受け取り、そのままシャツのボタンを外しかけている尾形さんをぼーっと見つめていたら、視線が合った。
「…なんだよ」
「あぇっ、いや、」
「シャワー借りるぞ」
「はい、あ、どうぞ、」
「お前大丈夫か?寝ぼけてんのか?」
「いえ、その、なんか、不思議な感じがして…」
尾形さんは女の子のおうちに行くのは慣れてるんだろうか?不意に気持ちが萎んで寂しくなるような思いがした。彼は脱いだシャツを私に手渡す。白の薄いインナーから鍛え抜かれた身体の線が浮かび、私は急に尾形さんのことが異性として意識されていくのを感じて、頭を振ってなんとか邪念を振り払う。彼は私の前でスラックスもするりと脱ぎ去って、ポイと私に手渡した。私は下を向いて見ないようにしながら受け取ってハンガーに掛ける。
脱衣所へ消えて行く下着姿の尾形さんを視野の端で見送って、彼のスーツとシャツをハンガーラックに掛ける。
尾形さんがシャワーを浴びている間、私はぼんやりテレビを眺めていた。深夜の面白くない番組がざわざわと音を立てて、いつも1人なのに、今は誰かが同じ家の中にいて、不思議な感覚だった。ぼーっとそんなことを考えていると、お風呂の扉が開いて、タオル使うぞ、と声がする。私はどうぞ!と返事をしてなんだか変な具合に胸がドキドキしてくる。何をこんなに緊張してるんだろう、と自分の頬を叩いて落ち着かせようとがんばる。
「夜中に悪かったな、助かった」と尾形さんが部屋に戻ってきて、自分の家かと思うくらいの熟れた様子で私の隣にどすんと腰掛ける。石鹸のいい匂いが漂ってきて、私が横を向くと、濡れた髪から雫を垂らしてタオルを首にかけたままの半裸の尾形さんがそこにいた。
「ひゃっ、あっ、Tシャツ、ッ、貸します!」
「いやいい、どうせあと3時間もしたら仕事だろ」
「でもあの、私が、目のやり場に、…困るので…」
「なんだそれ」
私は大慌てでサイズの大きそうなTシャツを取り出して尾形さんに渡すと、尾形さんはそれを受け取りながら「上だけ着てりゃいいのか?」とかなり意地悪そうに言うので、私はまた慌てて箪笥に走って高校生の時に来ていたジャージを取り出して渡す。
「お前おもしろいな」
「そうですか?」
「別に普通気にしねぇだろ男の裸なんか」
「そんなもんですか?!」
尾形さんはヘラヘラ笑いながらTシャツとジャージを身につけて、ドライヤー借りるぞ、と脱衣所に消えてゆく。
髪を乾かすとすぐにまた戻ってきて私の隣に腰掛け、しばらく一緒につまらないテレビを眺めていたけれど、不意に思い出したように時計を見て、もう4時じゃねぇか、と独り言のように呟いた。
「寝るか」
「ベッドどうぞ、私はソファで寝るので!」
「何警戒してんだよ」
「いえ、警戒してるわけじゃ」
「じゃぁ別にいいだろ」
家主をソファで寝かせるのは悪いし俺もソファで寝るのは嫌だ、というので、何だかもっともらしい気がして、2人でごそごそと布団に包まる。シングルベッドがこんなに狭いと感じたのは初めてだった。まして、隣に男の人がいる、というのだけで何だか気持ちが落ち着かない。
「電気消しますね」
「あぁ」
「目覚まし何時にしときますか?」
「7時」
奥側で寝転んで既に目を閉じている尾形さんを横目で見ながら目覚まし時計をいつもより早めにセットし直して、電気を消す。部屋が暗くなって、明け方の薄明るい光がかすかに部屋の中に差し込んで、ほんの少しだけ尾形さんの顔が見える。背中を向けて寝るべき状況だよねと心の中でぶつぶつ独り言を言いながら背を向けて布団に入ろうとすると、不意に尾形さんが私の腕を引っ張って引き摺り込むので私はそのまま尾形さんと向かい合うようにごろんと転げてしまう。
「わぁっ、あ、尾形さ…」
「キスくらいさせろよ」
「えっ?!あの、あっ、」
「ばか、冗談だよ」
尾形さんは意地悪そうに笑って私を真っ直ぐ見る。
私は尾形さんの、よく見るとすごく整った綺麗な顔を見ながら心の中がぐるぐるにかき乱されるのを感じて、息を呑む。
尾形さんは私の腕を掴んだまま、「お前は優しいな」と呟いて目を瞑る。私が何も答えられずに黙って俯いていると、静かな寝息が聞こえてくる。
私は尾形さんのきれいな寝顔を真正面から見つめることができなくて、ごそごそと、背中を向ける。尾形さんの寝息がすぐそばで聞こえて、未だにこの状況が信じられなくて背を向けているにも関わらずドキドキしてしまう。職場で見る尾形さんとは全然違う感じがして、恋をしてるんじゃないかと錯覚してしまいそうになる程だった。
はぁ、とため息をついて目を閉じると、背中側から尾形さんの腕が伸びてきて私の身体をぎゅうと抱いた。私はびっくりして恐る恐る尾形さんの方を振り返って見るけれど、彼はもう眠っているようだった。
「ずるいです、こんなの」
少し切ない気持ちを抱えて、私も目を閉じる。
(2022.06.05/夜明け前のまぼろし)
memoのつづき