愛憎という言葉があるように、愛と憎しみは紙一重で表裏一体だ。男女が対であるように、光と影はどちらが欠けても存在できないように、ほとんど全て、万物は裏表のように対をなして存在している。
光の中で彼女の瞼がそっと開く。
閉じられていた瞳に陽の光が射して潤んだ涙にきらりと瞬き空気が揺れる。黒い瞳が俺を見上げる。
「尾形さん、もう行っちゃうんですか?」
彼女がそっと俺の胸に触れる。その小さな手を見下ろして、一瞬払い除けようかとも考えたがやめた。
俺に縋り好きだ好きだと愛を囁いていても、俺が去ればすぐに忘れて他の道へと歩みを進めていくだろう。俺は立て掛けていた銃を手に取って彼女の方を向いて「そろそろ行かないとな」と呟く。彼女は今にも泣きそうな顔でジッと俺を見つめている。
「私、待ってます。尾形さんが無事に帰ってくるの」
俺は彼女のその言葉を風に舞う木の葉のようだと感じた。
その甘美な言葉を信じて鎖に繋いで仕舞えば、いつか後悔するのは目に見えている。俺が帰ってきた時に、俺の居場所などないのだって明白だ。人間は、犬ほども忠誠心などなく水に揺蕩う泡より儚いものなのだ。すぐに掬われゆらりとどこかへ消えてしまうか、何かのはずみに弾けて消えてしまうような、そんな一瞬の戯言でしかない。
俺は彼女の手を取って軽く握る。
「待たなくていい。俺が帰ってくる保証なんてねぇだろ。お前は好きに生きればいい」
彼女は眉根を顰めて「どうしてそんな悲しいことを」と言いかけて口を結んだ。俺は彼女の手を離して背を向ける。
玄関の戸を開けて外へ踏み出すと、まだ雪が微かに残り足元の氷が砕ける。
俺は一度も振り向かない。暫くの間でも世話になった家を忘れ去ろうと見えなくなるまで早足で歩く。彼女が玄関で立ち尽くして俺をじっと見つめているのは分かっていた。一時の感情にすぎないものだと、口に出して呟く。捨てられたと知っていながら、愛した男を忘れることができずに待ち続け、止まった時の中でしか生きられなかった母親の手が深い記憶の底から伸びてくる。俺はそれを振り払う。
「戯言だ」「信じて待つなんて愚かなことを誰がする?」「いつ帰ってくるかも分からない男を生涯かけて待ち続けるなんて非合理的で無駄なことだ」「他にも山ほど人間はいる」「俺じゃなくてもいい」「」
置いてきた女が急に愛おしくなる。
足元の霜柱を踵で踏んで砕く。
(2022.12.26/未知の反証)
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