ガタン、と裏口で大きな音がして、私は飛び起きる。
慌てて様子を見に行くと、血まみれになって肩で呼吸をする尾形さんが戸に凭れ掛かるように立っていた。


「どうしたんですか…?!」
「なんでもねぇよ」


なんでもないわけないじゃないですか、と私は不安ではち切れそうになる胸を押さえながら尾形さんの身体を支える。彼は大人しく私に身を預けてよろめきながら一歩踏み出す。私は彼を框に座らせ、靴を脱がす。尾形さんはまだ止まらないらしい鼻血を手の甲で拭っている。


「折れてないですか?どこか撃たれてますか?」
「いや、掠めただけだ」


切れたところが悪かったんだろ。と他人事のように言う。
見たところ、たしかに撃たれてはいないようだったけれど、殴られた顔は腫れて青くなっているし、銃弾が掠めたのか軍服の肩口は裂けていた。私は一度部屋に戻って手拭いを鷲掴みにして急いで尾形さんに手渡す。彼はそれを傷口に当てて、ため息を吐いた。私はまだばくばくと脈打つ心臓が痛くて心が掻き乱されて苦しかった。立てますか?と聞いて、彼の身体を支える。廊下に血がぽたりと滴り落ちたけれどそんなことは気にしていられなかった。
台所まで彼を連れて行って座らせ、水を含ませた手拭いで固まった血と汚れを少しずつ落とす。黙々と傷を探して血を落とし、洗い、また血を拭いてと繰り返す私を、彼は何も言わずに眺めていた。
そうしているうちに、何だか急に恐ろしくなって涙が溢れる。尾形さんは一瞬ギョッとしたようにびくついて息を呑んだけれど、状況がわからないらしく黙っていた。
私も自分がなぜこんなところで泣いてしまったのか、感情の整理がつかないまま、鼻をすすりながら彼の血を拭い続ける。


「何でお前が泣くんだよ」


尾形さんはようやく口を開く。
お前は痛くないだろ、と頓珍漢なことを言うので、少しだけ笑ってしまう。けれど、涙は止まらなくて、泣き笑いになる。私が泣きながら服を脱がそうと手を掛けるものだから、尾形さんは少しそわそわしながら自分で脱げるから、と私を制止した。私はなみだでぼやける視界の中で尾形さんが軍服を脱ぐのをただみつめていた。

尾形さんは上裸になって、「ほら、なんでもないだろ」と取り繕うように言う。何箇所か痣になっているところがあったけれど、擦り傷や切り傷もなく、私は少しホッとする。
彼の身体の痣にそっと手を触れてみる。熱いくらいの体温が手のひらにじんわりと広がる。それでも不安を払拭することはできなくて、また涙が溢れてくる。尾形さんはほとんど血の止まった傷を抑えながら、空いた片手で痣に触れている私の手を上から握った。


「泣くな」
「だって、」


尾形さんが死んじゃったらいや。と俯いたまま呟くと、彼は呆れて「俺はまだ死ねないんだよ」と言って私の手を身体から剥がした。


「お前…俺のことが心配で泣いてんのか?」


彼はニイと笑って窺うように私の顔を覗き込む。私はまだぼろぼろ溢れて止まらない涙をそのままに、当たり前じゃないですか、と彼に言う。尾形さんは微かに笑いながら、いつもと同じに前髪をかき上げる。それから私を宥めるように手のひらで頬を包んで涙を拭う。


「俺は狙撃手だ。獲物の生き死にを決めるのは俺の方だ」
「こんなにぼろぼろにされてるくせに」
「可愛くねえやつだな」


私は崩れ落ちるように尾形さんにぎゅうと抱きついてわんわん泣いてしまう。尾形さんは私の背中を撫でて「杞人天を憂う、って知ってるか?」と突拍子もなくいうので、私は首を横に振る。


「中国周時代に杞の国ってのがあったんだが…」
「……?」
「杞の国には、空が落ちてきたり大地が崩れたりするんじゃないかと心配して夜も眠れず食事も喉を通らなかったという人がいたって話だ」


私がよく分からずに黙っていると、尾形さんは私の頭を撫でて「お前みたいだってことだよ」と言ってハハッと笑った。



「空は落ちてこないし大地は崩れない。俺はそんなに簡単には死なねえよ」



尾形さんは痣だらけの腫れた顔で言う。私は、説得力がないです、とやっぱり意地悪に言ってしまう。尾形さんはそれでも不敵に笑いながら、現にピンピン生きてんだろ、と言う。
それからわたしの顔を両手でぎゅっと挟んで、軽く口付けをした。



「血の味がします」
「口の中も切れたからな」


尾形さんは冗談めかして言いながら、ぺろりと舌舐めずりをする。私は尾形さんの両手に顔を挟まれたまま、少しずつ涙が引いていくのを待った。


「尾形さん、全部おわったら、ずっと一緒にいてくれますか?」
「なんだよ急にしおらしくなって」
「だって、」


尾形さんがもう帰ってこなかったら、死んじゃったら、どうしようって、不安に胸が渦巻いて壊れてしまいそう、と、心の中で感情が溢れそうになるけれど、それは声にはならなかった。


「もっと俺を信じろ」


尾形さんはそう言って私の頬を軽く叩き、お前に泣かれると弱ってられなくなるだろ、と溜息を吐く。私はようやく止まった涙に鼻水を啜って唇を噛む。尾形さんが血を含んだ手拭いを私に差し出したので、それをもう一度洗って尾形さんに手渡す。冷たいそれを尾形さんは傷口にあてて目を閉じる。わたしは彼の隣に腰掛けて、肩に凭れ掛かって、はぁ、とため息をついて、それからじわりと彼の小指に自分の小指を絡めた。彼の小指がぎゅっと私の小指を握りかえす。





(2022.05.24/ゆびきり)
一方通行の 果たされない約束


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