海を埋める
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ダン、と静謐を裂く銃声が夜の中に響いた。それは反響して、空気の波紋が鼓膜を揺らす。キン、と高い金属音がして、床に薬莢が落ちる。私は後ろ手に両手を拘束されたまま、銃を構える尾形の背中を見ていた。月がやたらと明るい夜だったので、カーテンの隙間から差し込む光に彼の姿はよく見えた。私は壁にピッタリ背中をくっつけて、窓の外から狙撃を受けないように物陰にひっそり隠れるようにしていた。
尾形は双眼鏡で外をじっと眺める。しばらくして、双眼鏡から手を離し、銃を下ろしてこちらを振り向く。私はびくっとして彼の目を見る。明かりのついていない暗い部屋ということも相俟ってか、その目は吸い込まれそうなほど深いただ恐ろしいふたつの闇のようだった。彼はかすかに開いていたカーテンを締め切ってこちらへ向かって歩いてくる。ギッと木の床が軋む。薄いカーテンから月の光が透けて溢れて直ぐに暗闇に目が慣れる。彼は私の腕を掴んで立たせて、人差し指を口元に当てて、声を出すなよ、と念を押すような仕草をした。彼は剣帯から短剣を抜いて私の背後に回ったので私は反射的にビクッと身体がこわばって、息を呑んだ。彼は私の背中で手首を括っていたロープを切り落として私の手首を掴んだ。
「次はないぞ」
尾形は冷ややかに言い放って外套のフードを被り身を翻す。私は尾形の背を追うように薄暗く埃っぽい部屋を出る。廊下にロシア兵と日本兵の死体が転がって、あたりに血のにおいと火薬のにおいが充満していた。これは戦争なのだから、と言い聞かせても、暗く澱む不愉快な感情は抑えきれなかった。嫌な気持ちになりながらふと顔を上げると、尾形の前に突然ぐらりと影が浮かぶ。
ガタンと音をたてて飛び出してくる影に、前を行く尾形が銃を構えるけれど、それより早く距離が詰まる。尾形はやむを得ず男の腕を銃身で薙ぎ払った。私は咄嗟に足元に転がるロシア兵に突き刺さっていた短剣を抜き取り尾形と取っ組み合いになっていた人影の腹に助走をつけて飛び込み2、3度突き刺す。ぬるい血が勢いよく溢れて私の身体や顔へ飛び散る。男のうめき声がして、私の方へ身体が向く。男は手に拳銃を持っていた。私はもう一度男の身体に短剣を突き刺す。真っ赤に血に染まった眼が私を見ていた。それが拳銃を私に向けようとした瞬間に、尾形がそれの蟀谷を撃ち抜いた。人の声とも思えない悍ましい音が耳を劈く。頭蓋骨を突き破って血に混ざった脳が飛び散る。男の身体が崩れて血の海へ沈んだ。
「いくぞ。まだ残党がいるかもしれん」
「…ありがとう、尾形」
「お前を助にきたわけじゃない」
私は、ここに転がっている死体の一つだったかもしれない。私のことをただの通訳だと油断した男達が私を生かしたから、この人たちは代わりに死んだのだし、この一つの建物を占拠するために突入した日本兵も殺し合いの最中、何人も死んだ。外を包囲しようと集まってきた敵の仲間を尾形が上から狙撃し、援軍の兵士達も広い敷地の中で各々闘っていた。たまたま2階に生かされたまま転がされていた私を尾形が見つけて私は命拾いをしただけの話、ただ、それだけのこと。
私たちは、生きていくために、失っていく。
無音の暗闇に、尾形と私の足音だけが響く。
(2022.04.11/海を埋める)
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