彼の目に映る世界は、どんなものなんだろうか。
美しい景色も、醜い景色も、彼の目にはどう映っていたのだろうと、たまに思う。ロシアから帰国した鶴見さんは、とても疲れているように見えた。日本軍の諜報員であることが漏れると彼は最も効率的にありとあらゆる痕跡を抹消して日本へ戻った。そして正しい順序で上官に報告を終えた彼が、使われていない講堂へ入って行くのを盗み見て、私は彼の後を追った。彼がロシアでどのような情報を掴みどのように生活していたかは知らないけれど、以前とは変わってしまった彼の雰囲気に胸が苦しくなるような気がしたからだ。

重い扉を開けると、誰も居ない静かな講堂の中で、鶴見さんは一人で椅子に座り、ただ真っ直ぐ前を向いて緞帳を見つめていた。私は、「おかえりなさい」と声をかけて、席を一つ置いて、彼の隣に座る。鶴見さんはこちらを向いて優しく微笑んで「ただいま」と言った。人当たりの良い好青年の笑顔を浮かべた彼を見て、あぁ、この人は何も話す気はないのだと悟る。何があったのか、聞くのは野暮だと分かっていながら、あまりに何かが欠け落ちて不自然な彼の背中を見た時、私が何か、彼の役に立てるのではないかと思い上がっていたことを思い知らされる。

私は話題を失って、俯いて隣に座って微動だにしない鶴見さんの呼吸の音だけを聞いていた。鶴見さんは、両手で愛おしそうに眼鏡を握っている。


「眼鏡に…されたんですか」


私は気まずさを紛らわせようと言葉をかける。鶴見さんはこちらを向いて微かに口角を上げて「いや」と、否定する。「いかにも地味で真面目な青年を装うために掛けていたんだ」と、その眼鏡をそっと掛けて見せる。


「似合うかな」


私は顔を上げて彼の顔を見つめる。
優しく微笑むその穏やかな表情と溶け合うように、静かな講堂に夕日が差し込む。埃を反射して降り注ぐ光の筋が鶴見さんの頬を射す。


「君には、謝らなくてはと思っていた」


相変わらず穏やかで優しい表情のまま彼は言って、そっと目を伏せる。私は胸の内側から握り潰されるように心が苦しくなる。その先のことばは、聞かなくても、わかる。


「鶴見さん、私」
「すまなかった」
「わかってます。…わかって、ました」
「長い間、不安な気持ちにさせたままで」
「言わなくて…いいです…」


私は目からこぼれる涙を抑えられない。
鶴見さんは席を一つ移動して私の隣に腰掛けてそっと肩を抱く。私はそれが恐ろしくなるほどに愛おしく、情緒が理性を突き破って破裂する。震えて嗚咽を漏らして彼の肩に額を埋めて、みっともなく泣き喚く。



「私を慕っていてくれて、ありがとう」


鶴見さんはそっと私の髪を撫でる。好きだった。鶴見さんのことが、ずっと。彼はずっと、それを、知っていたはずだ。彼がロシアに行くことになって、私は想いを伝えるか悩んで、言わなかったことをずっと後悔していた。もしかしたら会えるのはこれが最期かもしれないと何度も何度も自問したけれど、彼の仕事の邪魔になってはならないと、自分の感情を呑み込んで殺し、どうかご無事でと、祈るに留めたのだった。鶴見さんは出発の日に、私に身体に気をつけてと微笑んだ。私はそれだけで十分幸せだったはずなのに。


「良い人を、見つけなさい」


鶴見さんは私の頬を撫でて顔を上げさせる。涙でぐちゃぐちゃになって、鼻水まで垂らした私の顔を見て、しょうがない子だ、と微かに笑って指で涙を拭ってくれる。



「君はまだ若い。私なんかよりずっと良い人はたくさんいる。私には、これからやらなければならないことが、沢山ある」



彼は子どもを宥める時のように、私の頬を両手でそっと包んで目を見て諭す。私は眼鏡越しに鶴見さんの透けた美しい瞳に見入る。



「軍を抜けて、二度と戻ってこないと約束してくれないか」



私は彼の思いがけない頼み事に思わず目を見開いて、聞き返そうと口を開きかける。鶴見さんはそれを制止するように私の唇を親指で塞いで、言葉を続けて紡ぐ。


「君には幸せになってほしいんだよ。普通の女性が歩むような、ごく普通の幸せの中で生きてくれると、どうか約束してほしい」


私は、それが、鶴見さんの頼みであるならと、静かに頷く。
鶴見さんはそれを見て私の髪を優しく優しく撫でる。


「私のことは、忘れなくてもいい。」
「……鶴見さん」
「けど、君は君の幸せを見つけなくてはならない」
「………」
「争いや、騙し合いや、醜いものに囲まれて生きていく必要はない。君は君のままで、その清く美しい心を誇りに思っていい」
「私はそんな、」
「君は君が思っている以上に、素直で優しい女の子だ。君が生きている間に戦争を終わらせることはできないかもしれないけど、それでもどうか出来るだけ遠くの世界で生きていてほしい」


私はその謙遜を漂わせる別れの言葉に胸が苦しくなる。
鶴見さんは小指を差し出して、指切りの形をつくる。私は泣きながらその指に小指を絡めて握る。
鶴見さんが微笑んで、ありがとう、と言う。
眼鏡を外して折り畳み、それをそっと、私に握らせる。



「もう、私のために泣かなくていい」



鶴見さんが再び涙を拭って、私の手を取って立たせる。
私はふらつきながら立ち上がって、一生懸命に涙を引っ込めて頷く。彼の存在証明を、たった一つだけ握りしめて。




(2022.07.02/Give it back.)
かえして。

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