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朝霞
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薄明るい朝日が窓の隙間から射し込む。すぐ窓のそばに伸びる木々の梢が風に当たってガラスをひっかく。私は目を細めながら外をのぞくと、霞がかかってぼんやりと白い空気が漂っていた。静かに身支度を整えて部屋を出る。二度寝はなんとなくいけないことのような気がして、しないことにしていた。できるだけ静かに廊下を抜ける。応接室の前を通りかかろうとした時、微かに人の気配を感じて横目で中を覗くと、丸テーブルの上に書物を広げて奥の窓を背に誰かが座っていた。私は少し驚いて、二度見してしまう。


「わっ、尾形、なにしてるの?」


尾形は私の声に顔を上げて、軽く手を上げ、またすぐに下を向いた。私は半開きの応接室のドアを開けて中に入って尾形の横の椅子を引いて腰掛ける。横と言っても丸テーブルを囲む形で椅子が置いてあるので、ちょうど尾形と90度の位置になる。机の上には味気ない表紙の、ボロボロになった本と、尾形の字で埋め尽くされた粗末な紙が散らばっていた。
私は尾形が広げている本の表紙を持ち上げてチラリと見て、尾形が開いている頁を閉じないように、目次を飛ばした最初の項を指で軽く開いて下から覗き見する。


『露西亜ノ伊呂波ニ於テハ母音モ子音モ皆ナ各々獨立ノ音ニシテ而シテ獨立ノ文字ヲ成ス、故ニ若シ露西亜文字ヲ以テ日本伊呂波ノ一字ヲ記セントスルニハ(母音ト一子音「ン」ヲ除クノ外)二文字ヲ要ス………』


尾形は開いている頁を上から押して、私が下から覗いているのを邪魔するように閉じた。「見え難い」
ロシア語の文法書であろうその分厚い本は青い表紙に沢山の手垢がついて黒ずんでいた。尾形だけではなくて、他に何人も繰り返し繰り返し使ってきたようだった。
ロシア語の勉強をしろなんて、言われたことはなかった。おそらく尾形も自発的にやっているわけではないだろうと私は勘繰る。尾形がわざわざ朝早くに誰もいないところで没頭するように勉強しているのだから、きっとこの人は鶴見中尉に言われたのだ。ロシア語を学べ、と。私は頬杖をついて黙々と頁を読み進めてはさらさらと紙に何かを写し書きをする尾形の横顔を眺めていた。

尾形はとても優秀だった。
子どもの頃から鳥をよく撃っていたから銃の扱いにはなれていた、と本人は謙遜気味に言っていたけれど、皆が休んでいる間にも彼は銃を握っていたし、狙撃の腕が擢んでていることに驕ることも無く肉体的にも研鑽を重ねていた。
体幹が安定するから。と、これもまた狙撃手として、と言うふうな口ぶりではあったけれど、武術も人並みに強かった。力自慢の怪物みたいなのには投げ飛ばされているのを何度か見たけれど、尾形は計算高く相手を観察して往なすという戦術をとっていて、私はなんとなく、(野蛮っぽくなくて)、その尾形の戦い方が好きだった。
師団の中には彼のことを蔑んで軽口を叩いているのもいたけれど、それは尾形が他の同期の追随を許さない速さで上等兵に抜擢されて、さらには鶴見中尉が目を掛けているという妬み嫉みの部分も大いにあるんだろうと、私は解釈していた。尾形の生まれの話も、廊下で花沢中将の御子息に付き纏われているのも、見聞きしていたけれど、きっとそれすら、何も持っていない者からすれば寵愛に見えるのかもしれない。
もしも尾形が、……。私は考えるのをとめる。


「私尾形が好き」
「は?」


唐突に口をついて出てきた言葉に尾形は一瞬手を止めて、私を見た。私は尾形を見ずに、頬杖をついたまま自分の正面の窓をじっと見つめる。尾形が好き。だけどこれは、恋心とは、また違う感情なのだ。言葉ではうまく説明できないけれど。でも、私は、全部全部、ひっくるめて、尾形が好きだった。


「なんか、かっこいいなって思った」
「へぇ」


尾形は気のない返事をして、鉛筆を机に置いた。
私の好きが恋心ではないことは尾形は分かっているんだろう。この人は多くを語らずとも、人の心情や変化を読み取るのがとてもうまい。それゆえ、自分の感情を隠すのも、当然上手かった。だから誰も尾形のことが分からないのだ。
尾形は短く刈り揃えた坊主の頭を撫でて、私が眺めているのと同じところへ視線を向ける。窓の外はまだ白く霞んでもやもやと揺れている。




(2022.04.14/朝霞)
『露西亜文法』グレーボフ編他

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