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ミズキと初めてセックスをした時に感じた『前世と現世の彼女が重なり合って、あるいは混ざり合っている』という感覚はあの一度きりで、以来不死川はそれを感じることがなかった。

俗っぽい言い方をするなら身体の相性がとても良いという部分はあるけれども、それ以上に不死川はミズキを抱くことにこの上ない幸せを感じていた。つまり生活のすべてにおいて、不満はひとかけらも見付からなかった。
不死川は間違いなく今のミズキを愛していたし、たとえ前世のことがなくても彼女に惚れていたと確信を持っていた。

ただその落ちるように幸せな生活の中で、不死川は前世のミズキを置き去りにする罪悪感が日々膨らんでいるのを感じた。前世のミズキは今目の前にいるこのミズキと同一であって、今の彼女を大切に愛することが前世の彼女を救えなかった贖いになるというのは、手前勝手な言い訳にすぎないのではないかという危惧が、やんわりと真綿のように不死川の首に巻き付いていた。
白昼の悪夢と孤独な夜の中であの娘が今も寂しがっているのではないか、自分はそれに背を向けて幸せを追っていいのかという思いが、緩慢に不死川の首を絞めた。

不死川がその思いに苛まれているとミズキは決まって気付いて、すすと隣に来て彼の肩に頬を寄せた。その度彼は愛しさと罪悪感を同時に募らせた。





その日は100年に一度の天体ショーだと夕方のニュースで言っていたけれど、通り雨の可能性もあるらしかった。何やら特別な名前の付いた月が見られるらしい。
ただミズキが「降らないといいな」と言っていたので、それならば晴れていれば良いと不死川は思う程度だった。
夕飯の後ミズキを先に風呂に入らせ、それが終わって脱衣所からドライヤーの音がし始めた頃合いで、不死川は自分のスマホが見当たらないことに気付いた。記憶を辿ってみると、思い当たるのはミズキが猫に餌をやるいつものベンチだけだった。彼女の写真を撮って、その時だと舌打ちをした。
不死川はノックをして脱衣所のドアを開けた。

「学校にスマホ忘れた、取ってくるわァ」
「えっ、大変!いってらっしゃい、気をつけてね」
「おー、すぐ戻る」

脱衣所のドアを閉めるとドライヤーの音が再開して、不死川は自宅を出た。

通り雨の可能性があるというし、早急に回収しなければまずい。車を走らせて校門の傍に着いて降りると当然門は堅く施錠されていた。
守衛を捕まえて許可を取るとなると面倒で、不死川はふと試しに呼吸を意識して地面を蹴った。彼の身体は軽々と高い門柱の上に乗り、もう一度跳躍すると音もなく門の内側に降りた。
やれば出来るモンだ、と守衛に見付かって面倒なことになる前に不死川は小走りにいつものベンチを目指した。さっきから空気が湿り気を帯びてきていて、これはいよいよ降り出しそうだった。
不死川がベンチに到達して思った通り自分の端末を取り上げ安堵した途端、彼の脳天にポツリと一滴落ちたのを皮切りに、滝壺に立つような土砂降りが始まった。慌てて端末を庇いながら屋根の下に入ると、胸に押し付けた端末から着信音が響いた。ミズキだった。

「どうした?何か、」
「実弥さん」

心臓が大きく打った。
ミズキが不死川を名前で呼ぶのはセックスの時だけ、それもまだ不慣れな様子で探るように呼ぶ。この親密な声色は前世で幾度となく聞いていたそれだ。
けたたましいほどの雨音が続く中で、それでも不死川の耳には自身の心音の方が大きく響いていた。

「、お前、まさか記憶、」
「うん、全部」
「っ待ってろすぐ帰るから直接」
「だめなの、そのまま聞いて。きっとこの雨の間しか保っていられないの」

どういうことか理解が追い付かなかった。この電話の向こうに、前世で失ったミズキがいる。何を支払っても会いたい、会って伝えたいことが整理しきれないほどあるのだ。
こんな土砂降りは長く続くものではない。

「どうしても伝えたかったことだけ、お願い、このまま聞いて」
「…ん、何だ」

急いでいるらしいのに、ミズキはぐっと呼吸を整えるように一拍置いた。

「…玄弥くんのこと、黙っててごめんなさい」
「…何を、」
「最後の戦いの中で、玄弥くんが死んでしまうのも分かってた。それを実弥さんに伝えていれば和解することだって…でも、伝えていたら実弥さんは命懸けで玄弥くんを守ろうとしたでしょう?その中で夢に見た流れが変わってしまうのが怖かった!実弥さんまで死んでしまうかもと思ったら怖かった!だから玄弥くんが死んでしまうのを分かってて黙ってたの、私が死なせた!」

ミズキが声を荒げるのは、不死川の知る限り初めてだった。
玄弥のことに限らず、ミズキのこの後悔と懊悩は彼女がずっと叫び出したかったことなのだろう。そして誰かが吐き出させてやるべきだったことなのだ。
ミズキの夢で死んだ人間はどんなに抗っても必ず死ぬ。それは彼女の責任ではないのに。
不死川は現世では親も違えば弟妹たちもいない。煉獄も冨岡も宇髄もそう言っていた。きっとどこかで、今回こそ平和に暮らしているだろうと酒を片手に笑ったことがある。不死川たちが消化し終えた事柄を、ミズキはまだあの夜の中で悔いているのだ。
誰も彼女に『もういいんだ』と言ってやらなかったから。

だから不死川はただ一言「ミズキ、全部言え」と優しく言った。
ミズキが息を飲む音がした。

「…本当は、誰にも死んでほしくなかったの」
「うん」
「毎日、みんなに行っちゃだめ、死なないでって言いたかった」
「うん」
「匡近さんのこともそう、知ってて死なせたの。実弥さんに初めて会ったときだって泣いて謝りたかった」
「そうか」
「だけど戦わない私が、何人も見殺しにした私が泣いて謝ったって、誰も喜ばないし救われないじゃない」
「ミズキ」
「実弥さんが好き、でも私、」
「ミズキ、愛してる」

電話の向こうでミズキが黙った。涙の流れる音が聞こえた気がした。

「言えて良かった。もう終わっていい、お前は何も悪くない」

本当なら顔を見て言いたかった、と不死川は空を見上げながら思った。雨の勢いが弱まりつつあった。

「実弥さん、だいすきよ」
「言っとくけどなァ、俺は初めに会った時から惚れてんぞ」

ミズキがしゃくり上げながら小さく笑って、「勝った」と言った。

「私は初めて夢に見たときから好きよ」
「ハ、そりゃ敵わねェなァ」
「あのね実弥さん、この雨が止んだら、きっと私全部忘れてしまう、そんな気がするの」
「…そうか」

寂しいけどそれがいい、と不死川は思った。生きるには枷になるほど、あまりに辛い記憶だ。

「だから、今の私の誤解を解いてね」
「どんな誤解してんだよ」
「実弥さんが最近ずっと悩んでる風だから、昔の恋人と比べたり生徒だから葛藤してるのかなって気にしてるのよ、可愛いでしょ」
「…ハッ、かわい」

ミズキの嗚咽は徐々に落ち着いてきていた。彼女が今度は少し悪戯っぽく笑った。

「実弥さんの浮気者、ひどい」
「悪ィ悪ィ」
「ひどい先生、どっちが好きなの」
「ブッッ、…ア゛ーーー、お前らもう分身して両方いてくれよ、幸せすぎて死ねる」
「ふふ、お願いね、実弥さん」
「分かったよォ」

しとしとと雨の名残が続いている。けれど、それももうじき止むだろう。

「あのね、実弥さん」
「うん」
「本当はね、昔の私も今の私も、どっちも同じ私なのよ。硬貨の裏表ですらない、ひとつのまぁるい檸檬みたいなものなの」
「…そうか」
「お腹の中の記憶がなくったって、生まれた赤ちゃんが間違いなくその子なのと同じように」
「そうだな」
「あのね、実弥さん、大好きよ。生まれ変わった私も同じだけ、貴方のことが好きよ」
「うん」
「あぁっ!あとひとつ、後で私にお姉ちゃんの名前を聞いてみてね」
「世話んなってるあの姉ちゃんか。そういや名前知らねェままだな」
「そろそろ雨が止んじゃう。…それじゃあまたね、実弥さん」
「話せて良かった。しかしお前はいつも俺を置いていきやがるなァ…」
「それは違うよ、私はいつも、実弥さんが迎えにきてくれるのを待ってるのよ」

電話の向こうのミズキがどんな顔で笑っているのか、不死川には鮮やかに思い浮かべることが出来た。
彼は屋根の下から出て空を見上げた。珍しい名前の付いているらしいレモン・イエロウの満月がくっきりと見え、ポツリと頬に一滴落ちたのを最後にそれきり雨は止んだ。

「待たせてごめんなァ、すぐ帰るよ」

返事は無かった。
通話を繋げたまま端末をポケットに入れて、不死川は帰路を急いだ。
自宅マンションに着くと彼はエレベーターを待つ間も惜しんで階段を駆け上がり、自宅のドアを荒っぽく開け靴を脱ぎ散らかして部屋に飛び込んだ。
ミズキはベッドに寝ていた。彼女の傍には通話が繋がったままの端末が転がっていた。
不死川はベッドの横に膝をついてその通話を切り、眠るミズキの頬を両手で包んで額を触れ合わせた。

「ただいま、迎えに来たぞ、ミズキ」

目元に涙の跡を残すミズキが、眠ったまま微笑んだ。

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