20

「だめですよ、日焼けしすぎたらあとで痛くなっちゃう」
「ンなもんすぐ終わんだろォ」
「私がラッシュガード借りちゃったんだから、日焼け止めでお返しします。はい背中だして!」

押問答の末教え子に言い負かされ、不死川は胡坐をかいた背中をミズキに向けることになった。
さっきまで彼女が白い脚に日焼け止めを滑らせていたその手が背中を撫でていくのは、何とも恥ずかしく背徳的だった。照れ困って眉間に皺を寄せたその顔を宇髄がヒーヒー笑いながら写真に撮ろうとするので抵抗すれば、背後から「動いちゃだめ」と言われ、不死川は浮かせかけた尻を砂の上に戻すしかなかった。写真は撮られ、不死川は宇髄に少なくともボディーブローを3発お見舞いする決心をした。

「はい、背中おしまい。前側は自分で塗ります?」
「放置」
「オセロみたいになっちゃう」
「なれよオセロ、派手に面白ェ」
「…貸せ、塗る」
「あ、肩に触らないでくださいね」

ミズキが妙な注文を付けるので不死川が軽く首を傾げると、「えっとね、もう塗ったから」と彼女は目を泳がせた。何かあるのは明白だったけれど不死川は特に気に留めず、背面よりかなり雑に身体の前側へ日焼け止めを塗ったくった。

「さて!」とミズキが海をちらちら見ながら興奮気味に声を上げ、ビーチサンダルを脱ぎ砂に一歩踏み出してすぐにビクッと引っ込めた。「あつい」そりゃそうだろうと周囲は笑った。

「波打ち際まで履いてけよ、足の裏火傷すんぞ」
「そうなんですか、海って」
「…お前浮き輪も持ってけェ。一応聞くけど泳げるよな?」
「泳げますよ!…立ち泳ぎは苦手だけど」

不死川は無言で小ぶりな浮き輪をミズキに渡した。深さも流れも均一なプールと海とでは泳ぐにも勝手が異なる。ミズキは勿論一応他の生徒からも目を離さないようにしようと考えつつ、テントでの荷物番を冨岡に押し付けて波打ち際へ動いた。

「…うん、何だか、しょっぱいにおいがする」
「海だからな」
「波がありますね」
「海だからな」
「わ、わ、ほんもの…!」
「お前本当初めてなんだなァ」

波打ち際でビーチサンダルを律儀に揃えて脱いで、寄せる波に足を濡らしたミズキが目を輝かせた。子どものように逐一感想を口に出す様に不死川は笑った。同時に錆兎と宇髄を引っ張っていってくれた女子高生の剛腕に感謝もした。
感動と不慣れな怯えが一緒になって小さな浮き輪に収まっているミズキの手を引いてザブザブと海を進み、膝が沈み腰が浸かり胸まで来た辺りでミズキが声を上げた。足が底に付かなくなったらしい。

「わ、結構急に深い」
「怖くねェか」
「サメがいたらどうしようって」
「海水浴場にいるわけねェだろ」
「おとといの深夜にね、テレビでジョーズやってたの」
「何で見ンだよそれを」

すぐに不死川の足も海底から離れ、彼は立ち泳ぎで停まった。

「もしかして先生ももう足ついてないの?」
「おう」
「浮き輪つかまる?」
「要らねェよ」

ミズキは海の感触を確かめるように脚を揺らし、波の揺れを感じ、生き物のようなにおいのする潮風に鼻を鳴らした。
周囲には声の届く範囲に他人が多くいたけれど、どこか隔絶された空間にふたりでいるような気持ちがした。
ミズキは高揚した様子で笑った。

「たのしい、先生ありがと」

その途端、不死川はストンと落ちるように真顔になって、彼女の頬に手を伸ばした。彼が僅かに顔を傾けたところでミズキが「先生?」と呼ぶと彼はハッとして手を離した。

「先生、疲れちゃった?」
「いや、…あっぶね、」
「?小っちゃいサメがいたとか」
「だから、」

『いねェって』と言う前に不死川は突然海に引きずり込まれた。ミズキが驚いて悲鳴を上げたところへ宇髄が海面から顔を出して、彼女の浮き輪に軽く手を置いた。海水の滴る前髪を掻き上げる様も色男が堂に入っている。しかしミズキは顔を赤らめるどころか青くした。

「おーミズキ、楽しんでるか?」
「うっ宇髄せんせっ、不死川先生、沈んじゃった」

そこへ宇髄と同じように不死川が海面から顔を上げて激しく咳き込んだ。

「テメッ宇髄ブッ殺す…!!」
「わりーわりー手が引っ掛かって」
「気配消して来た奴が白々しンだよ!」
「さすがに公共の場ではヤメとけよしーちゃん」

宇髄は軽い調子を崩さずに言ったけれど、最後の一言を受けて不死川は歯噛みして押し黙った。

「さぁてミズキそろそろ砂浜戻ろうぜ。ビーチバレーするってよ」
「バレー!海ってかんじ!」
「そんじゃ不死川は自分で泳いで来いよ〜」

言うが早いか宇髄はミズキの浮き輪を引いてすいすいと海岸へ向かい始めた。音もなく水の隙間を縫うように進んでいく感覚にミズキは目を輝かせた。

その後ビーチバレーに興じ、出店のもので昼を済ませた。粗暴に見られがちで実は世話焼きな不死川がゴミを片付けて戻った時、輪の中にミズキの姿が見当たらず、聞けば自販機へ行ったというのですぐに追った。





「コンビニですか」
「そー、俺ら地元じゃないから困っててさ」

案の定ミズキは程度の低いナンパを受けていた。ところが彼女は経験のなさ故に『スマホで検索した方が早いのに?』と思いこそすれ、それが男の下心だとは気付かない。
きょとんとした反応に押し切れると感じた男が「案内してくれる?何か買ってあげるから」とミズキの手首を掴んだ。否、掴もうとした。
男の手は横から現れた手に捕まって捻られ、足払いを掛けられれば男は簡単にコンクリートの上に転がった。残りの2人も鮮やかな手刀や拳を食らって悶絶すると、それをやった手が今度はミズキの手を掴んで引き、歩き始めた。

「さ、錆兎くん」
「どうした?」

ミズキは手を引かれ歩きながら、倒れて悶絶する男3人を一度振り返って錆兎の後姿に呼び掛けた。振り向いた彼は平然とした顔で「怪我はないか?」と尋ねた。

「喧嘩してたんじゃないよ?コンビニの場所を聞かれてたの」
「それがナンパだっていうんだ。全く、あんたみたいな可愛いのがひとりで歩いてればそんなことにもなる」

そこそこキザな言葉を表情ひとつ変えずに言ってのけた錆兎に、ミズキの頭にはふとここにいない時透の顔が浮かんだ。時透も以前こんな風に、大人でも赤面しまいそうな口説き文句をサラッと口にしたことがあった。
ミズキが『最近の中学生って大人っぽいのね』なんて呑気なことを考えていると、走ってきた不死川が勢いそのまま錆兎の手を掴んだ。

「マセガキが何してやがる」
「先生、錆兎くん助けてくれたの」
「ほら聞いた通りだぞ先生?男3人がコンビニの場所を聞いてきたんで拳で教えてやった」

不死川は舌打ちをして錆兎の手を解放した。
「先に戻るからミズキは飲み物買ってもらって来い」と言って錆兎は去っていった。
そういえば飲み物を買いに来たのに横槍が入ったせいで、買わないままだったのだ。不死川はミズキの手を取って歩き出し、ミズキは大人しく付いて歩いた。

自販機への道中、先程錆兎に転がされた男3人が痛む箇所をさすりながら追ってきたのと出くわし、ミズキは身を竦ませて不死川の腕にくっついた。「コレか?」不死川の問い、ミズキの首肯。男らが鋭い視線を投げ掛ける中、不死川は平然と自販機の前に立って「ほら、どれがいい」と至極優しい顔で言った。
ミズキが指差したジュースを押して取り出すと渡して頭を撫でてやり、彼はゆらりと男らに顔を向けた。

「あァ…アンタらまだいたのかい。さっさと散れよ、…あと2秒見てたら顔覚えちまうぜェ」

ミズキから不死川の表情は見ることが出来なかったけれど、彼が普段ミズキに見せる穏やかさとはまるで違う表情をしていることは、男らの反応を見れば明らかだった。
経験したことのない恐怖に駆られて男らが転がるように逃げていくのを見送りもせず、不死川はミズキの肩を抱いて踵を返した。

「せ、先生、おかね…」
「情けない気分になるから引っ込めといてくれェ…さっきも間に合わずに悪かったな」
「あ、いえ、ひとりで来たのがよくなかった、です」
「そりゃ一理あるなァ。とにかく常に誰か信頼できるのを連れとけ。俺がいなきゃあの生意気な中坊でもいい」
「先生、錆兎くんのこと嫌いなのかと思ってた」
「確実に好きではねェが安全第一ってな。確実に好きではねェ」

「2回言った」とミズキは笑った。笑って、さっき買ってもらったばかりの冷たいペットボトルを胸にきゅぅと抱いた。


そろそろ着替えて帰ろうという段になって、友人のひとりがミズキの足元を指摘した。ビーチサンダルを履いていない。そういえば途中まで履いていたのに、海から上がるとき波打ち際に忘れてきたのだろうと思い当たり、数人で探して回ったけれど、見付からなかった。
波に流されてしまった?誰かが間違って履いていった?と首を捻っているうち、宇髄が寄ってきて「探しといてやるから着替えてこいよ」と彼女らを更衣室へ遣った。
他の面々がテントを畳んだり浮き輪の空気を抜いている間に宇髄自身もフラッとどこかへ姿を消し、少しして戻ってくると面々を指で招いて口を開いた。

「ミズキのビーサンな、見付かった」

「それなら返してやったらどうだ」と冨岡が言ったが、宇髄はがしがしと頭を掻いた。

「俺なら変態のザーメン掛かった靴なんて除菌しても履きたくないね」
「…ア?」

瞬間、その場に嫌悪感と怒りが湧いた。

「店やら客やらに知り合いが何人かいたんで、変態は個室に入れてある。これからちょーっと女の子らに言えないことするからよ、不死川お前ミズキを車に乗っけて帰れ」

すぐに頷けないで歯噛みしている不死川の肩を宇髄が叩いた。

「穏便にいこうぜ、『楽しかった』で終わらせてやれ」
「…分かった。恩に着る」
「ハイ決定野郎どもも着替えてこい。女の子待たすなよ〜」

いかにも軽薄そうに装った笑顔でひらひらと手を振って、宇髄は去っていった。



「じゃあ後で写真送るね」と言う友人らと手を振り合って、いつぞや足を捻挫したときのように不死川に半ば強制的に抱えられて車に乗り、走り出してすぐにミズキはすぅすぅと眠り始めた。
不死川はその間中、別れた後の友人たちが「不死川先生トンデモナイ上機嫌だったよね」と噂するほど笑顔を絶やさなかったけれど、ミズキが眠っているのを横目に認めるとギリリと軋むほど奥歯を食いしばった。
クソ、クソ、クソと口から洩れそうになる悪態を噛み殺しながらアクセルを踏み込み過ぎないよう自制して、彼は帰路を辿りミズキのアパートの前に車をつけた。
ミズキはまだ眠っている。初めての海にはしゃいでいたし、強い日差しの下で過ごすのは想像以上に消耗するものだから無理もない話だった。
不死川は彼女の目元に掛かった髪をそっと後ろへ流し、柔く撫でた。

「…ごめんなァ、ミズキ。俺ァいつも間に合わねェし、守れてねェ」

押し殺した声で小さく落とされた言葉がミズキに届いたかは定かでないが、彼女は瞼を震わせてゆったりと覚醒した。

「…ん、せんせ?」
「はよ、着いたぞ」
「ごめんなさい、寝ちゃった」
「はしゃいでたからなァ、ほら部屋行くぞ」

至極当然のように彼はまたミズキを抱き上げて慣れた様子でエントランスを抜けた。その切り替えた笑顔を彼女は黙って見ていて、鍵を開け部屋の床に降ろされると不死川のシャツを握った。

「先生も疲れてるのにごめんなさい」
「疲れた内に入らねェよ。楽しかったか?」
「うん、ありがと」
「良かったなァ」
「あのね先生、」
「うん?」
「くるしいの?」

不死川は笑顔を保つのを忘れ、不安げなミズキの顔に見入った。
結局のところ隠し通すことも出来ないのかと不甲斐なさを噛み、一度途切れた笑顔を作り直して不死川はミズキの頭を撫でてやった。

「気ィ使わせたか?悪かったな、何もねェよ」
「あのね、私は今日楽しかったけど、先生がくるしいのはいや」

『苦しくない』と言ってやることが、不死川には出来なかった。それは言葉の白々しさもひとつの理由であったし、嘘で誤魔化すことはミズキの優しさに対する不誠実に違いないからだった。
しばらく黙った後で、不死川はぽつりと「抱き締めていいか」と呟くように乞うた。
ミズキは自分から背伸びをして不死川の首に抱き着き、彼は華奢な背中に手を回した。「ありがとなァ」と彼は顎のすぐ横にある頭に軽く唇を寄せるようにして言った。

「今日ね、すごく楽しかった。先生は?」
「あー、うん、」

この一日のことを思い返す不死川の頭の中には、ほんの一瞬だけ見た彼女の素肌の映像が焼き付いたように思い浮かんだ。

「…よく似合ってた」
「返事になってなぁい」
「それしか浮かばねェわ。じゃ、今日は早く寝ろよォ、思ったより疲れてるモンだからな」
「あ、先生お茶飲んでいく?」
「男を簡単に部屋に上げんな、 男なんて中坊でも教師でも下心しかねェんだ」
「えぇー?先生も?」

不死川はドアを開けて外廊下に出ながら「さァな」と言い残して閉めた。

彼は自宅に戻ってシャワーを浴びた際、左肩の後ろにひりつく痛みを感じて、覚えは無いが怪我でもしたろうかと脱衣場に上がって鏡を見て破顔した。
大部分は日焼け止めを塗ったために元とほとんど変わらない色をしていたけれど、左肩の後ろに日に焼けて赤くなったハートマークがひとつあった。
「ヤラレた」と彼は笑った。

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