いざ夏休みが始まってみると、不死川はすこぶる機嫌が良かった。
学生らの気配が薄い校舎はいつもより静かで彼の好むところだったし、授業がない分事務仕事が捗った。自分のペースで仕事ができて、定時に上がれる。文句は無い。
そして何より、
「先生こんにちは」
「おーご苦労さん」
準備室に毎日ミズキが来る。
彼女は朝の比較的涼しい時間帯に登校して花壇の世話をし、昼近くになると数学準備室に顔を出す。妙に小ざっぱりした顔をしていると思ったら、庭仕事で汗だくになっているのを水泳部の顧問の女性教員が見かねて、好意でシャワーを貸してもらえることになったらしい。「すごいですよ、ドライヤーまであるの。サウナに入ってきた感じ」とほわほわ顔で報告するミズキの頭を撫でて、不死川ははちみつレモン飲料を持たせてやった。「至れり尽くせり!」とミズキはきゃっきゃと笑った。
学食は閉まっているのでコンビニのもので一緒に昼を済ませ、黙々と課題をこなすミズキを時折眺めて眼精疲労を取りながらゆったり仕事をする。不死川に文句が浮かぶはずもなかった。
さらには「このクソ暑い中歩いて帰ったら危ねェだろ、定時までいるのが嫌じゃなけりゃ乗っけて帰ってやるよォ」とか上手いこと言いくるめた。
とどのつまり、時透事変からのひと悶着の最後にミズキの言った『前みたいに戻りたい』は『前みたい』を軽く超えていた。
「私とっても贅沢な夏休みをしてますね」
その日決めたところまで課題を済ませたミズキが言った。
「お花の世話をしてシャワーを貸してもらって、冷房の効いた部屋で課題をして、分からなかったら数学は教えてもらえちゃうし、夕方は送ってもらって」
「学生は休み中に学校来るの嫌がるモンだけどなァ」
「自宅にひとりでいても寂しいもん」
「そうか」と言って不死川はまたミズキの頭を撫でてやった。これは彼のもはや癖のようなもので、ミズキは当たり前に目を細めて受け入れた。
ミズキに前世の記憶がないとはいえ、不死川には彼女の寂しがりが前世での寂しさから来ているように思えてならなかった。それならば前世でしてやることが叶わなかったぶんまで、現世では寂しさを感じる隙間を埋めてやりたいという思いから、彼はまたミズキを甘やかすのだった。
数日の後には3年生の受験対策補習が始まって、主に午前中を不死川は補習に取られるようになった。根が真面目な彼のこと勿論充分に準備をして、自分では『いつも通り』の意識で補習に顔を出したけれど、不死川を迎えた3年生たちは過去に類を見ない機嫌の良さに逆に慄いた。長年の宿敵をついに討ったんじゃないかとか色々噂が立った。
そんな折、補習の教室へ向かう不死川は窓から中庭にミズキの姿を見た。校舎の影になって比較的涼しい場所で、用務員の鱗滝と、もうひとり宍色の目立つ髪をした少年と、楽しげに立ち話をしていた。熱心に花壇を世話するミズキがあの元水柱と仲良くしていることは前々から話に聞いて知っていたけれど、宍色の髪の少年については聞いたことがなかった。
竹刀を入れる鞄を肩に掛けているから剣道部なのだろうと不死川が踏んでいたその時、少年がミズキの頬に手を伸ばした。そのまま頬を親指で軽く擦って、ミズキがそのあとを手で押さえた。すると鱗滝と少年の両方が肩を揺らしてまた少年がミズキの頬に触れた。そんな一幕を目撃した後の不死川を迎えた3年生たちは、『やっぱりいつものサネ先だぁ』とこれまた逆に安堵の息をついた。
「あぁ、中等部の錆兎くんです。鱗滝さんの親戚なんだそうですよ」
いつも通り準備室を訪れたミズキに不死川がそれとなく尋ねると、彼女は朗らかに答えた。
「夏休みに入る少し前にね、鱗滝さんと話してるところへ錆兎くんが通りすがって。話してたら、冨岡先生とも昔からの知り合いだって」
不死川はかなり間を置いてから「ヘェ」と言った。この知り合いの布陣からして、多分鬼殺隊関連の、水の一門だろうとは彼の勘である。錆兎に前世の記憶があるかどうかは別として、そういえば中等部に剣道のやたら強いのがいると噂を聞いたことがあったと繋がった。
「今度海に行くのと、私が海はじめてだって言ったらね、『いいな』って言うから誘ったんです」
「………ハァ?」
「あ、友達みんなにも許可取りましたよ?」
勿論友人の許可とかそんなことが問題なのではない。
ミズキは至ってにこにこと楽しそうに、結構な爆弾発言をした自覚もないまま先日友人たちと水着を買いに行っただとか楽しみだとか、無邪気な話を続けている。
いつの間にか錆兎の参加は閣議決定されているらしいし、中学生相手に目くじらを立てるなど童貞臭くて情けないと不死川は一応黙った。
窓から見た時、ミズキの頬に触れた錆兎がどんな顔をしていたのかは後ろ姿のため見えなかった。
それでも仄かに嫌な予感がするという不死川の勘は、彼にとって悪い方に当たることとなる。