16

不死川は雰囲気で人を殺せそうなほど苛立っていた。
その理由は時透のこともひとつあるけれども、主には自らの後悔によるものだった。
ミズキにキスをしてしまった。しかも、動揺して泣いて弱っている時に、「忘れろ」とまで言って。
ミズキの涙など前世では見たことも無かった。日々見る夢は悪夢ばかりだろうに、日暮れからのほんの短い時間にしか人と接することも出来ず寂しいだろうに、涙など一度も。
昔と今の彼女を区別しなければいけないことは分かっていても、初めて見る涙に感情を抑えきれなかった…とは言い訳にもならないけれど。
あの高揚感と安らぎをひとまとめにして与えてくれる声を、花や猫を愛でる優しい目を、風に揺れる髪を、柔らかな匂いを、小さな爪の並んだ白い足を、今度こそ何からも守ろうと心に決めていたのに。
守れなかったどころか自分でも付け入った。

半ば八つ当たりのように、翌日以降要らぬ火の粉が飛ばないように火消しに回り、時透を叱り倒した。それでも気分が晴れることはなく、『お館様に申し訳が立たねェ』とか『土下座』とか『切腹』とか時代錯誤な言葉が不死川の頭の中で渦を巻いた。

そうして彼はミズキの無垢な目を正面から見ることが出来なくなってしまった。

このような消極的な事情で不死川が意図せずもミズキと教師・生徒らしい距離を保つようになって数日が経った。
自責の念から振る舞いが大人しくなった不死川をどう捉えたものか、何やら女子生徒がじゃれついてくることが増えた。彼はそれを乱暴に振り払うことも出来ず非常に持て余した。
ところ構わず纏わりつきキャンキャンと耳につく甲高い声で騒がれると、荒れた心が余計にざらざらとした。ミズキの穏やかな声が恋しかった。

ある日の放課後、不死川が補習授業を終えて職員室に戻るところへ、例によって姦しい女子生徒数人が集まってきた。人工的な色やにおいを纏った空気に喉の詰まる思いがしたけれど、何とか適当に返事をしながら歩みを進めていると、通りすがった窓から馴染みのベンチに人影が見えた。
薄暮で不鮮明だったけれど間違いなくミズキで、傍らの黒いかたまりは猫だろう。あの穏やかな空間に帰りたいと願いつつも、その資格を棒に振ったのは自分なのだと胃の重くなるような気分がした。
無意識に立ち止まって眺めている間に眼下にはジャージ姿の男子生徒が現れ、何事か話した後不自然にミズキに詰め寄った。

「ねーさねみんどうしたの?」

何度話し掛けても返事がないのに焦れて、女子生徒がぶらりと垂れ下がっていた不死川の右手に触れようと手を伸ばした。瞬間、不死川はハッと気付いて手を引き上げた。

「手に触んじゃねェ…!」

およそ教え子に向けていい声と目ではなかったとは彼も自覚するところだったけれど、それどころではないと弾かれたように走って階段の手摺から飛び降りた。勿論女子生徒らはついて来なかった。


ミズキに迫っていた男子生徒の顔面を握り潰すことのないように不死川は一応の手加減をしたけれど、それでもその生徒は耐えかねて半狂乱になって手から逃れていった。
ふたりで残されて数秒間、不死川はここ数日避け続けてきたミズキの目が自分の後頭部や背中に注がれているのをありありと感じた。しかし顔を見られるはずもない。数日前自分が教科準備室でしたのは今の男子生徒と同じかそれ以上のことなのだからと思うと彼は吐き気を覚えた。
やっとのことでミズキに帰宅を促して去ろうとすると彼女の手が不死川を引き留めて、その手が震えているのを感じれば背中を向けたままでなどいられなかった。

並んでベンチに座り、ミズキが落ち着いて話し出すのを待っていると、彼女の冷えた指先が不死川の右の手指を握った。

不死川にとって、自分の右の手指はミズキの形見も同然だった。
本来なら失われていたはずのこの2本の指をミズキが守り遺してくれたのだ。彼女が粂野の墓の前に埋めた他の遺品は当然ながら持ったまま生まれ変わることは出来なかったけれど、この2本の指だけは『持ってくる』ことができた。
だから不死川は幼い頃から人に右手を触れられることが嫌いだったし、右利きだけれど人と接する用事は無礼にならない限り大抵左手でこなしてきた。
その指にミズキが触れた。彼女が、自分から。
壊さないようにやんわりと握り返すと、冷えたミズキの指先に不死川の体温が交わり移った。
不死川は歯を食いしばって感情を抑えた。



やがてミズキがとつとつと話し始め、不死川は現在に至るまでの経緯を知った。
無一郎と和解したこと。その旨をジャージの男子生徒に告げて『同じことしてもすぐ許すのか』と詰め寄られたこと。

「無一郎くんのことは許したけど…誰でもキスしていいっていう意味で言ったんじゃない、です…」

辛うじて「そうだな」と不死川は返事をしたけれど、彼にとってこの一言はつまり致死的な打撃だった。あの時の自分の行いがどれだけミズキを困惑させ恐怖を与えただろうと思うと、腹を切るからどうか許してくれと乞いたくもなってきた。

口から手を突っ込んで腹の底の泥を掴んで引っ張り出してきたように不死川はやっと「悪かった」と吐き出したのだけれど、意外にもミズキはきょとんとして「何がです?」と首を傾げた。

「何がって…俺も同罪だろうが」
「あ、あれはその、ショック療法みたいなものと思ってます」

……………ほォ。

「ごめんなさい、困らせて、あんなことさせちゃって」

………、………………成程。

不死川は壮大な擦れ違いに気が遠くなるような気分がした。『これは一体全体どういうことだ』と思いつつ顔を上げると、今度はミズキが気まずそうに目を泳がせて握っていた手を離した。
つまり、だから、まさか、それで?と無駄に接続詞が飛び交った後疑問符に落ち着くしかなった頭をそれでも必死に整理して、不死川はミズキが自分の思うほど準備室でのことに動揺してはいないらしいというシンプルな答えに至った。だからと言って即無罪放免ということにはならないけれど。
というか突然無断でキスされる事態が1日に2回もあって片方はすんなり許してもう片方にはあまり動揺もしてないってどういうことだもうちょっと自分を大切にしろと謎の憤りまで湧いてきた。
彼は自由になった手でがしがしと前髪を掻き乱して濁った自棄糞の声を上げた。

「忘れろっつったのは俺だけどよォ…」
「そうですね…?」
「お前は簡単に人を許すな、軽蔑して罵倒しろ」
「え、えぇ…?」

ミズキは眉を下げてすっかり戸惑ってしまっている。
不死川としては腹を切る覚悟までして全面降伏の構えだったのに当の本人は『あんなことさせちゃってごめんなさい』である。

ミズキが困った顔で不死川の袖をきゅっと握った。

「先生あのね、私、怒るの上手じゃないの」
「…」
「それより最近、先生があんまりお話してくれないの、寂しいです」

直前まで罵倒とか切腹とか、不死川はとにかく痛みで罪悪感を相殺することを願っていたけれど、ここにきてこれは既に心臓を握り潰されかかっているのかもしれないと思い始めた。
しかし当のミズキは自分が不死川の心臓を握り潰しかけていることには微塵も気付いていない。

「先生がね、『忘れろ』って、そのためにあんまり話さないようにしてくれてるの、分かってます。でももう大丈夫だから、また前みたいに戻りたいです」

不死川が長く沈黙しているとトドメのように「だめ?」とミズキが彼を覗き込んだ。
また以前のようにとミズキが言う。そんな都合のいい誘いに乗っていいものかと恐ろしくすらある。ミズキの大きな目が『だめ?』の問いを続けている。
これはもう、あれだ、無理だ、と不死川は白旗を揚げた。

「…ったくテメェは」と責任転嫁の形をした自嘲を吐き捨てた後で不死川がミズキの頭に手を乗せると、彼女は嬉しげに目を細めてくすぐったそうに肩を竦めた。
不死川は立ち上がり、ミズキの鞄を取り上げた。

「…メシ行くぞ」
「え?」
「この流れでひとりで帰らすわけねェだろ…下校時刻も過ぎてるしな」

にやける顔を隠すために背中を向けて歩き始めてしまうとミズキが小走りに追ってきて、不死川は咄嗟に彼女の足の運びに違和感がないか案じて見た。さすがに全快しているようで安堵した。
ミズキが小走りに不死川に並んで鞄を持つ手の肘辺りにそっと触れた。

「先生ありがと」

ミズキが幸せそうに目を細めて笑った。
にやけるやら泣きそうになるやら感情を御しきれなくなって、不死川は彼女から目を逸らすしか出来なかった。

×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -