15

『忘れろ』という言葉通り、準備室に戻ってきた不死川は拍子抜けするほど淡々としていた。「下校の許可取った、車行くぞ」と迎えに来た彼の手にはミズキの鞄があって、ぼうっとしていた彼女は慌ててその背中を追った。すぐに「まだ走るな」と怒られた。
結局自宅に戻って手を洗おうと洗面台の鏡を覗き込んだ時になって初めて、不死川のジャージを着たままだということに気が付いたのだった。
『忘れろ』と不死川は言った。
ならばきっとさっき準備室で起こったことは、泣き止ませるため、忘れさせるための荒療治なのだろうと納得することにして、ミズキは借りたままだったジャージを洗濯して翌日返した。

後に『時透事変』と名の付くこの一件を受けて、質問攻めやら好奇の注目は免れないだろうと覚悟して登校したのだけれど、意外にも仲のいい数人に「昨日は大丈夫だった?気にしない方がいいよ」と気遣われただけだった。

そのためそれからの数日間、ミズキの身の回りで一番大きな変化といえば、不死川がミズキとあまり目を合わせず接触も避けるようになったということだった。
少しの寂しさはありつつも、これはひとえに『忘れろ』の一環だろうと感じて、それならばとミズキも時透事変についてはサッパリ忘れることにしたのだった。





ところが、忘れるべき対象はあちらからやってきた。
ミズキが放課後、園芸部の温室で鋏を手に花の手入れをしていると、腰高の花の畝の向こうに人の立つ気配を感じて、目を上げると無一郎だった。
ミズキが驚いて身を縮ませると無一郎は「触らないから」と両の手のひらを肩の前に掲げた。その表情には数日前の体育館と比べてずいぶん覇気がなく、ミズキは持っていた鋏を足元に置いた。

「この前はごめん」
「…」
「ねじ切れるほど絞られたよ。不死川さんとかに」
「…『とか』って?」
「全員名前言ってもいいけど」
「やっぱりいい…」

それでこんなにシュンとしているのかと思えば、ミズキには怒る気も湧かなかった。
忘れてしまおうと決めたことだったけれど、許してしまえるならどちらでも構わないだろうと思い直し、ミズキは僅かに笑みを零した。

「ごめんね、前にどこで会ったのかやっぱり思い出せないの」
「いいよ。初めからミズキとやり直せるなんて、考えてみればチャンスだしね」

中学生だというのに随分な口説き文句を、無一郎は照れもせずに言ってのけた。
先日の体育館でクラスメイトを追っ払った時の態度然り、年齢不相応に肝が据わっている。

「どうして私がこの温室にいるって分かったの?」
「立派な温室まである学校は珍しいからね。ミズキを見付けて、君のためだったんだって、繋がった」
「…?ここは入学前からあるはずよ」
「ミズキを待ってたんだよ、皆」

ミズキは首を傾げて無一郎を見たけれど、彼は目を細めて穏やかに花を見ていて、それ以上説明するつもりはないようだった。
無一郎の言う『皆』というのが誰のことなのかミズキは尋ねてみようか迷って、やめた。簡単に答えを与えられても意味がない事柄のように感じたから。

「…怒ってないの?」

知らない内に無一郎は視線を上げて、ミズキの目の中に感情を表す色を探すように見つめていた。年上を静かに圧倒したり、怒られてシュンとしたり、妙に大人びた口説き方をしたり、それでいて恐る恐るという風にミズキの目を見たりする、その乱高下する無一郎の様子に彼女は何だか微笑ましいような気持ちがして、穏やかに目を細めて見せた。

「ねじ切れるくらい絞られたんでしょう?だからもういいの」
「じゃあ不死川さんに感謝だ」
「あ、でも言っておくけどはじめてだったんだからね、私」
「安心してよ僕もだから」
「なにそれ」

ミズキが肩を揺らすと、無一郎は幸福で肺を満たしたみたいに笑った。
彼女は足元の鋏を取り上げて花の手入れを再開した。

「手伝うことある?」
「ありがと、でも好きでやってることだから自分でしたいの」
「まぁ言ってみただけだけど」
「ふふ、なにそれ」

ミズキは今度は声に出して笑った。
こういう天邪鬼なじゃれつきは、無一郎なりの気遣いなのだろうと彼女は思った。
本人曰く『ねじ切れるほど絞られた』のにわざわざ足を運んで謝りにきて、ミズキが怯えないように花の畝を挟んで距離を取り、軽口を叩いて笑わせる。
そんなことをしなくてももう怒っていないのに。

「無一郎くん」
「うん」
「ありがとう、もう大丈夫だよ」

ミズキがふんわりと笑うと、無一郎はややあって「そう」と言った。僅かに息を抜いた様子から、彼が安堵したらしいことが分かった。
その後もしばらくミズキは作業を続けて、陽が傾いてきた頃に手を洗って切り上げた。それを、無一郎はずっと近くで嬉しそうに眺めていた。
温室の前で手を振って別れる時に、無一郎は「また来るよ」と言い残していった。

陽の傾いた中をミズキは馴染みのベンチまで歩いて腰を下ろし、鞄から煮干しの入った袋を出した。その音を待っていたように茂みから猫が走り出てきてベンチに飛び乗った。
猫に煮干しを与えて食べる姿を眺めながら、ミズキは脚を引き上げてベンチの上で膝を抱いた。もうじき下校時間が来て、そうなれば帰らなければいけない。けれど薄暮の空気も手伝って、とても寂しくて帰りたくなかった。

薄暗くなっていく中でしゃくしゃくと口を動かす猫を眺めていると、不死川のことが頭に思い浮かんだ。そこでこのぼんやりとした寂しさの理由をミズキは自覚した。ここ数日、不死川とほとんど目も合わず話してもいないのが寂しかったのだと。
膝を抱いたままミズキは『甘えちゃだめ』と頭を振った。

その時猫が突然たっと走り去って、何事かと思えば背後に人の気配が近付いた。

「ソウマひとり?」

見ると、時透事変で早々に追い払われた男子生徒が、部活終わりらしくジャージ姿で立っていた。
ミズキが頷くと、彼は「…さっきさ」と切り出した。

「温室のとこで、球技大会の時のガキと話してた?」
「…無一郎くん、ね。お話したよ」
「あんま近付かない方がいいよ」

わざわざ忠告することを不思議がったミズキが理由を尋ねると、彼はミズキが帰った後のことを打ち明けた。
ミズキを自宅に送り届けた後の不死川や宇髄、煉獄が中心になって、彼女に起こったことを吹聴しないことや興味本位で野次馬しないように言い含めて回ったとのことだった。
それで翌日にも落ち着いて過ごすことが出来たのかとミズキは腑に落ちた。

「特に不死川なんて何人か取って食いそうな勢いだったし、まぁ輩先生も煉獄先生もすごかったけど」
「そっか…先生たちにお礼言わなくちゃ。無一郎くんのことはもう怒ってないけど、しばらくはあんまり表立って一緒にいないようにする」
「は?無理矢理キスされたのにもう許してんの?」
「無一郎くん、謝ってもうしないって約束してくれたから」
「じゃあ俺が同じことしてもすぐ許してくれんの?」

彼の言う意味が咄嗟に理解出来ずにミズキが眉を寄せると、ベンチの背後にいたはずの彼がいつの間にか前側に回って距離を詰めてきていた。
ミズキは戸惑いながらベンチから降りて後退ったけれど手首を掴み引かれてしまった。

「な、なに…やだ、やめてっ」

感じたことのない嫌悪感と恐怖に鳥肌が立った。掴まれた手首が痛い。震える。力を入れても振り解けない。さらに強く手首を引かれて彼が間近に迫った。

その時横からぬっと現れた手が彼の顔面を鷲掴みにした。

「ガキがァ…そんなに死にてェなら勝手に他所で死に腐れよ」

その手の甲に腱が浮き出ると掴まれた顔面から悲鳴が上がり、ミズキの手首が解放された。
「先生」とミズキが呼んだ。
不死川は額に青筋を浮かべている。いよいよ頭骨の軋む音がしそうなほど指が食い込むと、男子生徒は無我夢中で不死川の手から逃れて転びそうになりながら逃げ去った。

ふたりで残されて数秒間、口を開き難い空気が立ち込めていたけれど、おもむろに不死川が「あー…」と唸るような声を発した。

「災難だったなァ…気ィ付けてもう帰れ」

背中を向けたまま不死川が歩いて去ろうとするのを、ミズキは咄嗟に彼のベストを掴んで引き留めた。引き留めてから、その手の震えに自分で気が付いた。

不死川は去ろうとするのをやめて、ミズキをベンチに座らせた。
ミズキは彼を引き留めたはいいものの、動揺と混乱でしばらく話すことが出来なかった。ミズキが冷えた指先で隣り合う不死川の右手の指を小さく握ると、彼はそのままにさせ、後から緩く握り返した。
辺りは既にすっかり暗く、下校時刻も過ぎていた。
気持ちが落ち着いてきたところでミズキは自分の足元を見ながら口を開いた。

「無一郎くんと和解しました」
「そうか」
「そのことをさっきの人に言ったら、…『同じことしてもすぐ許すのか』って」
「…そうか」
「無一郎くんのことは許したけど…誰でもキスしていいっていう意味で言ったんじゃない、です…」

ミズキの指先に、不死川の指が僅かに強張るような感覚があった後、彼の口がぽつりと「そうだな」と呟いた。また少し間を置いて不死川が「悪かった」と零し、そこで初めてミズキは彼の方を見て首を傾げた。

「何がです?」
「何がって…俺も同罪だろうが」

そこでようやくミズキの頭の中に準備室での出来事が蘇って、今更ながら『やっぱりあれってキスしたんだ』と実感が追い付いた。

「あ、あれはその、ショック療法みたいなものと思ってます」
「…ハァ?」
「ごめんなさい、困らせて、あんなことさせちゃって」

不死川が顔を上げると今度はミズキが彼の顔を見ていられなくなって目を泳がせた。握った指先をどうしようか迷った末に彼女が手を浮かせると、不死川は自由になった手でがしがしと前髪を掻き乱し、何かの文字に濁点のついたような自棄糞の声を上げた。途中「クソ」とだけ聞き取れた。

「忘れろっつったのは俺だけどよォ…」
「そうですね…?」
「お前は簡単に人を許すな、軽蔑して罵倒しろ」
「え、えぇ…?」

不死川が額に手を当て、膝に覆い被さるように塞ぎ込んでしまって、ミズキはいよいよ困り果てた。元より怒ったり声を荒げたりするのは得意でない。
困った末に彼女は不死川の袖をきゅっと握った。

「先生あのね、私、怒るの上手じゃないの」
「…」
「それより最近、先生があんまりお話してくれないの、寂しいです」
「…っ」
「先生がね、『忘れろ』って、そのためにあんまり話さないようにしてくれてるの、分かってます。でももう大丈夫だから、また前みたいに戻りたいです」

不死川が長く沈黙しているところへミズキが袖を引いて「だめ?」と問いかけると、彼は突然顔を上げて「…ったくテメェは」と吐き捨てた後でその大きな手をミズキの頭に乗せた。
ミズキは久しぶりに接する温かい掌に嬉しげに目を細め、くすぐったそうに肩を竦めた。
不死川は立ち上がり、ミズキの鞄を取り上げた。

「…メシ行くぞ」
「え?」
「この流れでひとりで帰らすわけねェだろ…下校時刻も過ぎてるしな」

ひとりでツカツカと先を行ってしまう不死川の背中をミズキは慌てて追ったけれど、今度は走るなと咎められることはなかった。しかし不死川の目が一瞬、彼女の足運びに違和感がないか確認する様子を見せたことにはすぐに気が付いた。
ふと先程隣のクラスの男子が言ったことが頭を過った。『特に不死川なんて何人か取って食いそうな勢いだったし』と。見えるところでも見えないところでも、常に守られているのだ。
ミズキは小走りに不死川に並んで鞄を持つ手の肘辺りにそっと触れた。

「先生ありがと」

不死川は目を丸くしてミズキを見た後居心地悪そうに目を泳がせて、しかし振り払うことはしなかった。

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