10

ミズキは練習問題を無事に解き終えた。習ったばかりの公式に数字を当てはめるだけのことだったので、与えられた時間はまだ残っている。
顔を上げると不死川と目が合った。壁に凭れて腕を組んでいる。
不死川が教科書をトントンと指で打った。『時間余ったなら見直せ』だとミズキは察した。
彼女がノートに視線を落として自分の回答の筋を追い、間違いのないのを確認してもう一度顔を上げるとやはり目が合った。
『大丈夫でしたよ』の意味を込めてミズキが無言で頷くと、不死川は目を細めて口角を上げた。ミズキは『良し』と受け取った。

数学の授業はいつもこんな具合なので、ミズキには何故周りの生徒が不死川を恐れるのか理解できなかった。授業は分かりやすいし、表情は優しいし、質問に行けば丁寧に教えてくれる。顔に大きい傷があって最初ちょっとびっくりするかもしれないけど、それだけでは?というのが彼女の抱く印象だった。

だからその日、隣のクラスから男子生徒がスマッシュブラザーズの如く飛んでいったのが不死川によるものらしいと友人から聞かされた時、帰り支度をしていたミズキの第一声は「うそぉ」だった。

「優しい先生がそんなに怒るなんて、何かあったのかな」

ミズキの呟きに対して友人は『そりゃあんただからだよ』と思ったけれど口には出さないでおいた。そして、明日の数学の授業までに不死川の機嫌が治っていることを祈って、つまりは自己保身のため、「先生に差し入れでも持ってってみたら」と言った。

「そうだね、ありがと!行ってみる」

顔を輝かせてミズキが教室を出て行くのを友人は見送って、「は…天使では?うん、明日の数学は大丈夫だ」と呟いた。それを見ていた別のクラスメイトが「子羊を送り出した感」と言った。


ミズキが職員室を覗くと、不死川は不在だった。売店であんぱんを買って来たのだけれど、仕方ない書き置きでもしようかと考えているところへ、背後から巨大な影が掛かった。
ミズキの頭上へ覆い被さるように顎が乗って、彼女は見上げて「宇髄先生だ」と言った。

「もうちょいビビるかと思ったんだけど」
「びっくりしましたよ?気配ないんだもん」
「ホラ俺忍者だから」
「大きいから隠れるの大変そう」

鈴を転がすように笑うミズキの頭から顎を退けて、宇髄はその大きな手で彼女の頭を撫でてやった。

「誰かに用事か?」
「不死川先生に。書き置きでもしようかなぁって思ってたところです」
「あいつなら準備室だぜ、派手に連れてってやろーか」

言うが早いか宇髄は片腕でミズキを抱き上げて諾否も聞かずに廊下を疾走した。急に大男以上の高さに視点が上がり、人ひとり運んでいるとは思えない速さでの移動にミズキは悲鳴を上げた。お構いなしに宇髄は階段を軽々駆け上がり、目指す準備室のある階まで上がってきた。来たところで、廊下の半ばにある戸が開いて不死川が顔を出した。悲鳴を聞きつけてのことだった。
廊下に半身乗り出した不死川が見たのは、子どものように抱き上げられて涙目で大男の頭に抱き着くミズキと楽しげにカラカラと笑う宇髄だった。瞬間、不死川のコメカミに青筋が立った。

「宇髄選べェ …今すぐそいつを下ろすかテメェの右腕折るか」
「やだぁしーちゃん怒らないでぇー」
「ヨシ折る」

宇髄がけらけら笑いながらミズキを腕から下ろすと、脚の震える彼女がふらつくのに不死川が手を貸してやった。

「蛍光灯が…蛍光灯がすぐ上をシュッて…」
「大丈夫か?なんだって宇髄なんぞに運ばれて来んだよ」
「しーちゃんに用事だっつーからタクシーしてやったんだよ派手に敬え」
「俺?」

不死川が自身の腕に縋るミズキを見ると、徐々に落ち着いてきた彼女がぽつりぽつりと事情を口にしたのだった。
今日のスマブラ事件にとても驚いたこと、普段温厚な不死川がそんなに怒るほどの何があったのか心配になったこと。

「疲れたときには甘いものだと思ってあんぱんをですね」
「ちょっと待って温厚な不死川って綺麗なジャイアンぐらいあり得ない」
「黙れ筋肉ダルマ」
「宇髄先生も食べる?あんぱん2個ありますよ」
「派手にいい子だなぁお前…つーわけで不死川お茶出して」

不死川は盛大に舌打ちをしてからふたりを準備室へ招き入れた。そして本当に電気ケトルで湯を沸かしてお茶を淹れてやるところが彼の律儀なところである。
熱いお茶に息を吹きかけながら恐る恐る口を付けるミズキを見ていると、不死川の目元も優しく緩んだ。それを目敏く発見した宇髄は『あーあー優しい顔しちゃって』と呆れ半分微笑ましさ半分で頬杖の上の口角を上げた。
宇髄は熱いお茶を一息に喉に流し込み、あんぱんのひとつを咥えてミズキの頭をわしゃわしゃと掻き混ぜた。

「ごっそーさん、ありがとな」
「わっ頭取れちゃう」

「取らねぇよ」と笑って宇髄は準備室を出た。

「不死川今度奢れよー」
「早よ消えろやァ」
「…食うなよ?」
「阿呆か失せろ」

カラカラ笑って遠ざかっていく足音を聞きながら、不死川はあんぱんを半分に割った。それを見てミズキは首を傾げた。

「宇髄先生が食べちゃだめって」
「そういう意味じゃねェから気にすんな」
「ふぅん…?」

差し出された半月型のあんぱんをミズキは一度受け取って見比べて、「先生、かえっこしてください」と言った。不死川が目元の表情で疑問を示した。

「だってこっちの方があんこが多いもん」
「ならいいじゃねェか」
「先生に持ってきたの。あんこ嫌い?」
「嫌いじゃねェけどよォ…」
「はいかえっこー」

ミズキがあんぱんを交換してさっさと齧ってしまったので、不死川も遅れて口に入れた。より良い方を下の者に譲るのは彼の癖のようなもので、逆に譲られるというのは不慣れで少し居心地悪く、しかしくすぐったくて温かくもあった。

「先生、ちゃんと休憩してね。イライラしたらお肌に悪いです」
「肌はどーでもいいけどよ…まァありがとな」
「おはぎちゃんの写真いります?癒されますよ」
「あ?おはぎ?」
「この前の猫ちゃんのね、名前を決めたんです。茶色くって丸くってかわいいから」
「…もらう」

そうして不死川は、先日の猫を膝に乗せたミズキの写真と彼女の連絡先を得た。宇髄が退出してくれて本当に良かったと不死川の胸に感謝の欠片が過ってすぐ消えた。

×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -