乗合馬車には誰も乗っていなかった。杏寿郎とミズキが隣り合って座ると馬は再びゆっくりと歩き出した。馬車に揺られながらミズキは手帳に万年筆を走らせた。

『今日は本当にありがとうございます』

杏寿郎は腕組みをして隣からそれを覗き込んだ。

「礼には及ばない!俺が好きでしていることだ!」

突然の大声に騎手が一瞬振り向いたけれど、すぐに前を向いた。
杏寿郎はミズキの方へ少し身を乗り出し、声を落として続けた。

「冨岡が駆け付けた時には鬼は逃げた後だったと聞いているが、身を潜めている可能性も捨てきれない。白昼でも陰の濃い場所には気を付けなさい」

ミズキはハッと目を見開いた。

『思い至りませんでした。ありがとうございます』
「それに声を出せなくては、道中も何かと不便だろう。貴女のような若い女性がひとりで歩くとなれば恐ろしいのは鬼ばかりではないしな」

ミズキは自分の思慮の浅さを恥じた。その旨をしたためようと万年筆を握るのだがどうしても言葉を書き始められず、ペン先を迷わせて、止めて、杏寿郎に深く頭を下げた。
杏寿郎は相変わらず背筋をぴんと伸ばして腕組みをしたまま、突然笑い出した。ミズキは驚いて顔を上げた。

「尤もらしい説教を垂れたが、実際のところ俺がどうにか貴女の助けになりたいと思っているだけのことだ!いつまでも遠慮な態度でいてもらってはこちらも居心地が悪いし、貴女の笑顔はとても美しいからその方がいい!」

あまりにも率直で温かい言葉にミズキは少し顔を赤くして、やがてふんわりと微笑って小さく頭を下げた。
それを見て杏寿郎は満足気に頷いたのだった。

馬車を降りてしばらく歩いた後、ミズキが杏寿郎の袖をついっと引いて、前方の屋敷を指さした。

「あれか」

ミズキが首肯した。
緊張から表情の硬い彼女の肩に手を添えて、ふたりは一緒に敷地へ踏み入った。
隠の部隊が事後処理の一環で人死にの痕跡を消したおかげで、一見惨たらしい事件の名残りは見当たらない。ごめんくださいと声を掛ければ家人が顔を出しそうな、普段通りの様子だった。

杏寿郎はミズキを気に掛けつつも、感覚を研ぎ澄まして鬼の気配を探った。ひとしきりそうして探ってみたけれど鬼の潜伏はなさそうだと判断したところで彼は「ミズキさん、どうやら大丈、」とまで言って言葉を途切れさせた。
ミズキは嗚咽も漏らさず泣いていた。かつて彼女にとって最も親密な居場所であった自宅が、一見平穏であってもやはり人の温かさを無くして余所余所しさを内包しているのを肌で感じ、同時に家族がもういないという実感が、冷たく濡れた毛布のように覆い被さっていた。
杏寿郎はミズキを抱き寄せてその温かい手で背中を撫でてやった。

「泣くといい。時間はたっぷりある」

ミズキは杏寿郎の胸元でしばらく涙を流した後、ぱっと身体を離して履物を脱いで玄関の框に上がり、三つ指をついて頭を下げた。頬は涙に濡れていたけれど、彼女は精一杯笑って『中へどうぞ』というふうに手を奥へ向けて示した。
「ありがとう、お邪魔します」と言って杏寿郎も履物を脱いで上がった。

部屋の中も綺麗に片付けられ、壊れた建具や家財は撤去されていた。そのため一見平穏な外観と比べて、内側はまるで引っ越し作業が粗方終わったような、がらんどうの雰囲気だった。
ミズキと杏寿郎は並んで仏壇に手を合わせ(りんや線香立ては取り払われていた)、ミズキは位牌を布に包んで鞄に仕舞った。

『家は残った家財ごと売ろうと思っています。私ひとりでは維持できません。今日は私の身の回りのものを持ち帰るのと、少し掃除をするのみです』

書き終えてミズキが顔を上げると、杏寿郎は「よし、掃除か!やろう!」と袖を捲った。
とは言っても隠の部隊が綺麗に片付けた後で、大掛かりな掃除は必要なかった。ミズキは両親の死の現場に表情を強張らせたり、手を離れていく生家を惜しんだり、懐かしんだり、去来する色々な感情をひとつずつ噛みしめながら、畳や窓枠や襖を丁寧に布で拭いた。
杏寿郎は掃除の手は絶えず動かしながらもミズキの視界に入らないように気を配りつつ、彼女をずっと見守っていた。ミズキは時折涙を拭う仕草を見せながら黙々と手を動かした。
泣き声を上げることさえ出来ないというのはあまりに酷だ、と杏寿郎は心を痛めた。

家の掃除を終え、手近な店で昼食をとる(ミズキはお茶を少し含んだだけだった)と、菩提寺へ行って納骨を済ませた。
来た時とは逆の乗合馬車に乗り、同じ席にまた並んで座った。今度も他に人は乗っていなかった。ふたりとも無言のまましばらく経つとミズキの頭がゆらゆらと揺れ始めたので、杏寿郎は自分の羽織を掛けてやり、「着いたら起こすから寝ているといい」と言って彼女の頭を自分に凭れさせた。ミズキはすぐに眠った。
彼女の憔悴した寝顔に杏寿郎はまた心を痛め、両親の冥福を静かに祈った。

結局ミズキは蝶屋敷の少し手前で目を覚まし、杏寿郎に手を取られて馬車を降りた。
蝶屋敷の敷地の前まで来ると杏寿郎は「それでは俺はここで失礼する!」と笑って見せた。

『今日は本当にありがとうございました。どのようにお礼をしたらいいのか分かりません』

心なしか筆跡にすら、少し疲れが見えるようだった。

「繰り返しになるが、本当に構わない。礼など考えないでほしい」

ミズキは深く頭を下げた。
杏寿郎はその華奢な肩に手を置いた。

「ミズキさん、貴女は心の強い人だ。だが心を強く持つことと強がることを混同してはいけない。泣くことは迷惑でもなければ恥でもない。涙が出るのは貴女がご両親のことにきちんと向き合っている証拠だ。貴女はとても立派にやっている」

ミズキの目にみるみる涙が満ちて零れた。杏寿郎はまた彼女の頭を胸元に引き寄せてしばらく背中を撫でてやった。
やがてミズキは泣き止んで身体を離すと、また手帳に書き付けて彼に示した。

『今晩また手紙をお送りしてもよろしいでしょうか?長くてつまらない手紙になってしまうと思いますけれど』
「うん、それでは俺の鴉を置いていこう。だが焦ることはない、書き上げるのに時間がかかりそうなら鴉だけ帰らせても構わないし。そうしたら胡蝶の鴉を借りるといい。とにかく、ゆっくり休むことと整理することが大切だ」

杏寿郎は、丁寧に頭を下げるミズキを蝶屋敷へ送り込んで、手を振って別れた。彼女の姿が見えなくなると自分の鎹鴉を呼び、ミズキの手紙を持って帰ること等を言い付けて送った。
そして、どうにかあの娘が自然に笑えるようにしてやりたいものだと考えながら、帰路に就いた。



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