「兄上、傷が痛むのですか?」と千寿郎に覗き込まれて杏寿郎は手元に焦点を戻した。薪割りの鉈を持つ手がしばらく止まっていたようだ。

「すまない!傷が痛むのではない!」
「それでは、何か心配事でしょうか?珍しいですね」

千寿郎は乾いた洗濯物を縁側に降ろした。自身も縁側に上がって洗濯物の小高い山から一枚取り上げては畳み始めた弟の言葉を杏寿郎はじっくりと噛みしめて、心配事、なるほどそうか、と納得する部分があった。

蝶屋敷で朝食を相伴に預かり帰宅してから床に入り、次に目が覚めたとき1人きりの部屋で杏寿郎は「よもや、よもや」と呟いた。詳しい内容は覚えていないが、今朝方しのぶから紹介されたばかりのミズキのことを夢に見たのである。

ある日突然天涯孤独になってしまい声を失った彼女の身の上は察するに余りあるが、鬼殺隊に身を置いていればそう珍しいものではない。肉親を鬼に殺されただとか、我が子を、恋人を、という話には今までに両手の指で足りないほど接してきたというのに、その相手が夢に出たというのは初めてだった。
ミズキがその心に負った傷をせめて癒さんとするしのぶの意図は酌めるが、夢に見るほど踏み入っているとは、という意味の「よもや」だった。

ともかく布団を片付けて身支度をし、家事をこまごまと丁寧に片付ける千寿郎に力仕事を申し出て薪割りを始めた。しかし、夢に見たミズキの声が耳の奥に響くような気がして(実際のところ彼女は声を失っているのだから聞いたこともないというのに)、知らぬ間に手を止めて視線は手元の薪を通り越して地面を突き抜けて遠く深くに焦点を結んでいたのだった。

自分はあの娘に同情しているのだろうか、と杏寿郎は自省していた。
同情は得てして侮辱と不可分だ。彼女は事の成り行きで蝶屋敷に身を寄せているとはいえ自ら働いて日々を繋ぎ、己の不幸を周囲に当たり散らすこともなければ悲観して自暴自棄になるでもない。時が経てばそのうちに両親の死を受け止めて涙を流すことも出てくるだろうが、それは心が再生し立ち直っていくための痛みというもの。あの娘は立派にやっている。彼女に合った段階において、すべきことを一生懸命にこなしている。同情・侮辱など以ての外だ。

千寿郎の口から出た『心配』という何気ない言葉はすんなりと腑に落ちた。
そうだ、心配だ、と杏寿郎は手元の鉈をひとまず脇に置いて、履物は脱がないまま千寿郎の隣に腰掛けた。

朝食を共にしたミズキは驚くほど少食だった。誰かの食べ残しかと見紛うような量だけが器に盛られているのを見て「よもや、それだけか!」と杏寿郎は驚嘆したのだ。
ミズキは律儀に手帳を取り出しまたさらさらと書きつけて杏寿郎に示した。

『これで充分なのです』

元から大食しそうにはないが、輪をかけて今は食欲が減退しているのだろう。しかしそんな食べた内にも入らないような、小鳥の餌のような量を食べただけでは倒れてしまうのでは、と杏寿郎は案じた。
彼の飯椀には丸くうず高く白飯が盛り固められている。

「ミズキさん、この卵焼きとお漬物を取り換えてください!」

きよがミズキの小皿に卵焼きを乗せ、かわりに漬物をひと切れ持って行った。なほとすみがそれに続いて魚や白飯を置いて行って、結果的にミズキの箱膳には当初よりもいくぶんまともな量が乗った。しのぶが横から控えめに嗜めたけれど、ミズキは微笑んでしのぶに首を振り、3人娘の頭を順番に撫でた。
量を比べれば杏寿郎の十分の一にも満たないけれど、時間をかけてミズキはそのすべてを口に運んだのだった。
思えば、朧気ながら頭に残った夢に出てきたのは、このときの優しい微笑みであったような気がする。


「千寿郎」
「はい、兄上」

千寿郎は膝の上で畳んでいた洗濯物をひとまず置いて杏寿郎に向き直った。剣術や腕力の通用しない問題にはからっきしな杏寿郎から見れば、千寿郎の細やかな心配りは弟ながら尊敬するところだった。
あの娘に何かしてやりたいけれど、土足で踏み込むようなことはしたくない。それならば具体的にどう動けばいいものか、と考えあぐねていることを含めて、杏寿郎は事のあらましを千寿郎に話して聞かせた。

「手紙を送られてはいかがですか」

案の定千寿郎からの提案は、美味い定食屋にでも連れて行こうかと思っていた杏寿郎には思い付かない選択肢だった。

「声が出されないことも気になりませんし、温かい言葉が紙に残っていたら読み返して元気をもらえますよ、きっと」
「そうだな!ありがとう!」

目を活き活きと輝かせて手早く薪割りを済ませ、自室に引き上げていく兄の姿を見送って、千寿郎は『もしかして兄上にとっても良いことになったらいいな』と大人びていつつも純真な期待に胸を膨らませたのだった。



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