「煉獄さんちょっとよろしいですか」としのぶに呼び止められ、杏寿郎は処置室の戸を開けようとしていた手を止めた。先の任務で負った腕の裂傷なら既に処置は済んでいて、「何用だろうか!」と部屋の窓硝子がビリビリ震えるほどの声量で発した。しのぶはにこやかな表情を保ったまま「蝶屋敷は大声禁止ですよ」と再三の注意を(無駄は承知で)繰り返した。「そうだったな!すまない!」という返事でまた窓硝子が震えた。

「とある藤の家の話なんですが」
「ウム!」

しのぶは椅子から立ち上がって、先ほど杏寿郎が開けるのを止めた戸を自ら開けて廊下を進み始めた。彼がそれに続いた。

「鬼の逆恨みに遭って一家惨殺されました。ただ1人を残して」
「…そうか」

さすがの杏寿郎も重く呟いて口を引き結んだ。藤の家の人々は例外なく朗らかで良い人間ばかりだ。鬼殺隊に奉仕しているために逆恨みで殺されたとあれば、自分の与り知らぬところで起こったこととはいえ自責の念を抱かずにいられなかった。

「冨岡さんの担当地区なのですが駆けつけたときには既に鬼は逃げていたそうです。家の中は血の海でしたが、17歳の娘さんが床下に隠されて無事でした」
「そうか」
「念のため診察しましたが外傷はありません。ただ、一時的に声を失っています。精神的な要因でしょうね」
「無理もない」

部屋を抜けて縁側に近付くと、手伝いの少女たち3人の楽しげな声が聞こえてきた。庭にいるようだ。
姿が見える位置にまで来ると、杏寿郎は庭にいるのがいつもの3人娘だけではないことに気が付いた。3人娘よりも頭ひとつ高い後姿が洗濯物を干していた。
縁側からしのぶが声を掛けると振り向き、3人と1人が駆け寄ってきた。

「煉獄さん、紹介しておきます。先日から住み込みで働いている、ミズキさんです。喉を痛めていて声が出ませんから筆談をお願いしますね」

杏寿郎の耳にはしのぶの声が薄い壁でも隔てた向こうから響いているかのように遠かった。
続いてしのぶが「ミズキさん、この方は炎柱の煉獄さんです。無駄に大声ですが敵意はありませんから」と紹介して、当の少女はその硝子玉のような目で杏寿郎を見上げた。
少女は白く華奢な手で前掛のポケットから小さな手帳を取り出して万年筆でさらさらと書き付け、杏寿郎に示した。

『ソウマミズキと申します。よろしくお願いいたします』

柔らかい印象の整った文字は、聞こえないはずの声を想像させた。
ミズキが頭を一度下げて戻しても杏寿郎は黙ったままで、ミズキは窺うように首を傾げた。そこで杏寿郎ははたと気付いていつもの溌剌とした笑顔になった。

「ウム!炎柱の煉獄杏寿郎だ!こちらこそよろしく頼む!」

目を丸くしたミズキにしのぶが「ほらミズキさん、本当に大声でしょう」と言うと、同意していいものか迷った後でミズキは曖昧に小さく微笑んだ。

「そういえば煉獄さん、任務が終わったばかりで朝餉もまだでしょう。いかがですか?ミズキさんやなほちゃんたちも一緒に」
「ありがとう!では甘えさせていただこう!」

3人娘が歓声を上げて「用意してきます!」とミズキの手を引いて駆けていった。姉妹のようで微笑ましい光景だった。
足音が遠ざかってからしのぶは杏寿郎を見上げたが、彼の視線は足音の去った方を向いたままだった。

「気丈に振る舞っていますが、涙を流すことがまだ出来ないと見た方が正しいでしょうね。心ある人に多く接することと時間が薬になるでしょう」
「…あぁ、そのようだ!」

しのぶは意味ありげに口角を上げて、「それに、」と続けた。

「とても美しいお嬢さんでしょう?」

杏寿郎には珍しく、その言葉には返事をしなかった。



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