高校で最初の夏休みに入ったものの剣道部の活動は平日毎日あって、休み前とさほどの違いはない。
ただ、平素より校内に生徒が少ないためかミズキの警戒が少し緩やかになったことが、俺にとっては嬉しいばかりだった。昼休憩に教科準備室へ弁当を持ち込んで一緒に食べる許しも得た。休み前には廊下を多くの生徒が行き来するからと許されなかった。

だがその日俺が準備室を訪れるとミズキは不在にしていて、がらんと物寂しい部屋に佇んで妻の行先に思いを巡らせた。そうしてひとつ思い当たったところへ、彼女の姿を求めて駆けたのだった。

学校の図書室には実に様々な辞書があって、英和だったり英英だったりイディオム?だとか何とか、俺にはどんな時にどの辞書を使うのかすらよく分からない。1冊ずつが巨大な上それがアルファベットの数だけ冊数があったりするものだから、ミズキは時折図書室で仕事をする。心当たりというとそれしかなかった。
図書室のドアを努めて静かに開けて覗き込むと、辞書コーナーの近くにやはり求めた姿を見付けた。机に伏せているからうたた寝してしまったものと見えるが、それよりも問題は、彼女の肩に覚えのある青いジャージが掛けてあることだ。もう一歩踏み込むと、ミズキの傍らにジャージの持ち主が立っているのが、見えた。
その持ち主の指先がミズキの髪に触れようと伸びるのを見れば穏やかではいられず、駆け寄って強くその手を掴み止めた。

「冨岡…妻に触れないでもらいたい」

冨岡が目を丸くして俺を見た。冨岡ほどの男が、手を掴まれるまで他人の接近に気付かないとは珍しいことだ。それだけ夢中になっていたのかと邪推すれば更に腸が煮えた。
ミズキはまだ目を覚さない。
冨岡が一度見開いた目を苦く細めた。

「…失礼した。が、今はお前の妻じゃない」

にわかに血の沸騰するような心地がして冨岡の手首を強く握ったが、彼は簡単に振り解いてその場を立ち去った。
静かにドアが閉められたところで、かすかな声と共にミズキが目を覚まして身体を起こした。

「…杏寿郎さま?」
「あぁ、おはよう」

俺が穏やかな表情と声色を心掛けて返事をしている内に、ミズキは仕事中にうたた寝してしまったことに思い至ったと見えて、慌てて筆記具をまとめ始めた。

「ごめんなさい、杏寿郎さまは早くお昼を召し上がらなくちゃ」

ミズキが机に開いていた巨大な辞書を閉じたので俺が棚に戻した。何せ本当に厚く大きく、持ち上げるミズキが『ふっ!』と気合いを入れるほどなのだ。

「…ミズキ」
「はい?」
「…今までに冨岡から、………いや、すまない、いい」

ミズキは半端に途切れた言葉に首を傾げつつ、冨岡の名を聞いて、青いジャージの存在に気付き取り上げた。先程身体を起こした拍子に肩から椅子へと滑り落ちていたのだった。

「義勇さんがいらしてたんですか?お返ししなくちゃ…」
「俺から返しておこう。剣道部で会う」

ジャージを受け取る俺の手が、少々奪い取るような仕草になってしまったことは、否めなかった。





「冨岡先生!胸をお借りしたい!!」

剣道場がざわめき、上級生が後ろから俺の腕を引いた。曰く、冨岡先生は鬼のように強い(皮肉なものだ)から1年生が挑むのは無謀だと。
見た目に感情の読めない冨岡に歩み寄り、耳元に小さく告げた。

「俺が一本取れたら…妻には近付かないでもらいたい」

成長期の手前に位置する今の俺が冨岡に勝つのは難しい。前世でこそお互いの剣技や筋力は拮抗していたものの、俺は現状では体格や筋力が記憶や技術に追い付いていない状態だ。
だから簡単に、掴んだ手首を振り払われる。

血豆が潰れるまで挑んだが結局一本取ることは出来ず、冨岡に「ここまでだ」と遮られて頭を下げた。悔しいが、現実は受け入れなければ。
俺が挑んでいる間に他の部員は引き上げたらしく、気付けば剣道場の中はがらんとして俺と冨岡の2人だけになっていた。

道着から制服に着替えたところで冨岡に呼び止められ、更衣室のベンチに並んで座った。

「…お前のことは、心から尊敬する。お前が今の俺の歳になる頃には最早敵わないだろう」
「世辞はいい、今日のことが全てだ」
「………ずっと、死んだのが俺ならと思っていたんだ」

冨岡の横顔を見たが、相変わらず感情は読めなかった。

「お前の死後…ミズキがまた声を失っても俺は何もしてやれなかった」
「…」
「現世で再会して、せめて今回はお前に会えるまで守ろうと…ミズキは言い寄る男を断るのに苦慮していたから、俺を偽の恋人にしておけと言った。ミズキは断ったが」

冨岡は前屈みになって膝に肘を乗せて手を組み、組んだ手でも見ているような格好だったが、視線は床を貫いて恐らくは遥かな過去に至っていた。
思えば、この男が一度にこんなに話すのを見るのは前世も含めて初めてのことだった。平和ではない世では、ゆっくり言葉を交わすという簡単なことすらままならなかったから。

「…すまない。礼を言うべきとは理解しているのだが、正直言って嫉妬で気が狂いそうでな」

冨岡の見開かれた目が俺を見たが、またすぐに萎むように目は伏せられた。

「…ミズキはお前しか見ていない。俺の方こそ、」

冨岡はハッと気付いて口を噤み、それきり黙り込んだ。水底の貝のように沈黙した後ぽつりと「もう帰れ」と言い残して、冨岡は去った。

すまない、礼を言うべきとは分かっているんだ。
『俺の方こそ』、それが真実で、それが全てなのではないか、冨岡。



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