杏寿郎はよくミズキの夢を見た。夢の中の彼女は現実と概ね同様で、嬉しそうに笑い、蝶屋敷の仕事を熱心にこなしていた。いつぞや手紙に『傷の消毒と包帯を巻けるようになった』とあったからか、手当をしてもらう夢もあった。
彼女の夢を見た後の目覚めは大抵、幸せな気持ちと名残惜しさに包まれているのだけれど、以前から杏寿郎の抱いてきた思いがいよいよ無視できない大きさにまで膨らんできていた。

「(ミズキさんの声はいつ戻るのだろうか)」

筆談や文通に不満は無い。杏寿郎はミズキの優しさを映したような柔らかな文字が好きだったし、短い言葉なら唇の形を読むのも楽しかった。秘密の会話をするようで心がときめいた。
それでもやはり、彼女の声が聞きたいという願いは募るばかりだった。

思い立ってしのぶに手紙で尋ねてみると、
―――機能的にはもう問題ない段階です。最近は精神的にも落ち着いて前向きに頑張ってくれていますし、時間の問題とは思うのですが―――
と、やはり精神的な原因であれば回復時期は断言できないようだった。
明るい見通しを得られず落胆しつつ、ふと小さな違和感を覚えて杏寿郎は隊服の内ポケットから1枚の紙を取り出して広げた。ミズキの自宅を片付けに行った夜に彼女が書いた手紙である。彼女の強い心がよく表れているように感じられて、お守りのように常に持ち歩き折に触れて読み返してきたものだった。

――― 両親は死の直前にあっても悲鳴を上げませんでした―――

以前にはあまり注目していなかった一文が、違和感で浮き上がって見えるようだった。

ある日任務を終えた杏寿郎は事後処理に携わっている隠のひとりに声を掛けた。
呼び止められた隠の男はすっかり恐縮し、跪いて地面に視線を落としたまま何か自分に粗相があったろうかと冷や汗を流していた。

「忙しいところすまない!咎めるために呼んだのではないから顔を上げてほしい」
「はい、炎柱様」

隠の男はおずおずと顔を上げた。

「数か月前、水柱の担当地区で藤の家紋の一家が惨殺された件を知っているだろうか?」
「はい、存じております。事後処理に携わりました」
「それはありがたい!水柱が駆け付けた時には鬼は逃げおおせていたと聞くが、家人は鬼の存在に気付く間もなく一瞬で殺されてしまったのだろうか?」
「…いいえ、推測に過ぎませんが、刃物や壺や書物が散乱しており、必死の抵抗の痕跡のように見受けられました」
「そうか、ありがとう!仕事に戻ってくれ!」

隠の男は深く深く頭を下げてから、事後処理へ戻っていった。
杏寿郎は少しの間腕を組んで考え込んだ後、周囲に労いの言葉を掛けてその場を後にした。





「おはよう、胡蝶は在宅だろうか」

杏寿郎を出迎えたアオイは『またか』とは思いつつ、開口一番出たのがミズキの名前でなかったことに驚きを隠せなかった。そういえばいつもより声量も抑えてある。今回こそ柱同士の重要な要件があるのかもしれないと考えて、しのぶのいる診察室へ彼を案内した。
診察室で彼の顔を見たしのぶもアオイ同様驚いて、思わず「私ですか、本当に?」と尋ねた。

「人を払ってほしい」

いつになく神妙な面持ちの杏寿郎にしのぶも表情を引き締め、アオイに頷いてみせることで人払いの指示を出した。
アオイが一礼して部屋を去るとしのぶは杏寿郎に椅子を勧め、向かい合った。

「今回時間がないので単刀直入に言う。ミズキさんの失声が血鬼術によるものという可能性はないだろうか」

しのぶは僅かに目を見開いて、すぐに表情を引き締め直した。

「…否定はできません。そのような鬼の報告は届いていませんが」
「こちらで探っている。胡蝶のところへも報告があれば知らせてほしい。誰の地区であろうと俺が行く」
「分かりました。お館様へのご報告はお忘れなく」
「無論だ。術の影響であれば受けて長いからな、途切れた時に思わぬ影響がないか、胡蝶には注視してほしい」

平生快活な笑顔を絶やさない杏寿郎の目が射貫くように気迫を滾らせているのを見て、しのぶは頬がひりつくような思いがした。同時に内心で、ミズキの失声を精神的な原因と決めつけて長らく彼女に辛い日々を強いた可能性を悔い、『でもこの様子だと煉獄さんがすぐにでもクソ鬼を斬ってくれそう』と物騒なことを思いもした。

「それと、これも重要な件なのだが」
「はい」
「この仕草はどういう意味だろうか」
「はい?」

緊迫した場面からの落差にしのぶはぽかんと口を開けてしまった。杏寿郎は胸の前で右手の指を交差させる形を作っている。杏寿郎は至って真剣な様子だったけれど、しのぶは笑いそうになるのを必死に堪えた。勿論、その仕草には心当たりがあった。

「ミズキさんですか」
「そうだ!して、どういう意味なのだろう?」
「ご本人に確認されてみてはいかがですか?」
「聞くに聞けないからこうして尋ねている!」

「あらあら」と言ってしのぶはとうとう笑ってしまった。

「胡蝶、意地悪をしてくれるな!」
「意地悪なんて人聞きの悪い。…そうですね、ミズキさんは今基本的に筆談ですが、簡単なことについてはいくつか指文字で表現できるよう決めてあるんです。いつも紙とペンを執れる状況とは限りませんから」
「なるほど!」
「たとえば良く使う、薬、包帯、消毒液が、こう」

しのぶが手指の形をあれこれ変えて例を示し、杏寿郎はフムフムと見入った。

「他にも簡単な返事ができるように、要る要らない、暑い寒い…とまあ、色々です」
「して、」
「やはり本人に直接確認するのがよろしいかと」
「ムゥ…」
「ほらほら、御用件は以上ですか?時間がないのでしょう」

そう言ってぐいぐい背中を押されてしまっては、体格で遥かに勝る杏寿郎といえど抵抗は出来なかった。ものの数秒でポイと廊下へ押し出されてしまい、戸が閉まる直前に「大丈夫、悪い意味ではありませんよ」と笑うしのぶが隙間に見えた。

ひとりになった部屋でしのぶはもう一度「あらあら」と呟いてからアオイを呼び、人払いを解いたのだった。



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